『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
プロローグ 白薔薇の騎士 −1−
遠く、ラッパの音が聞こえてきた。
ファンファーレだろうと、彼女は思った。
ここは宮殿の一番奥。
町の喧騒など常には、たとえ深く耳を澄ませても聞こえてはこないというのに。
気まぐれな風の悪戯《いたずら》か。
それとも。
「姫様」
侍女が呟いた。それに彼女は深く頷いた。「わかってる」
「……今日は体調が優れない。誰も通さぬように」
「かしこまりました」
「しばらく1人にして頂戴」
いいこと、フェリーナ? 彼女は侍女の耳元にその唇を近づけた。
「誰も。誰もよ?」
桃色の唇は濡れたように艶《つや》やかに光っている。
それが少し、侍女の耳に触る。彼女はビクリと身を震わせた。
「か、かしこまりました」
「いいわ……私が呼ぶまで」
そっとしておいて頂戴。
フェリーナと呼ばれた侍女は慌てた様子で頭を垂れ、他の8人の侍女たちもそれに習って出て行った。
1人残された彼女は部屋に誰もいなくなった事をもう一度確認し、短く息を吐いた。
熱い息だった。
昂《たか》ぶる心を静めるために目を閉ざす。
もう一度耳を澄ませたが、もう音は聞こえてこなかった。
静けさだけが辺りを占める。鳥すら鳴かない。
「……」
ゆっくりと目を開け振り返った先。
テーブルの上の花瓶には薔薇が活けてあった。今朝フェリーナが嬉しそうに飾っていた物だ。
意識したのだろう、今日≠。
そっと側に寄り、彼女はその花びらを前に跪《ひざまず》いた。
そして手を組み、静かに頭を垂れた。
その眼前、白薔薇の向こうには。聖母の像が静かに微笑み彼女を見ていた。
ハーランドは250年続く王政国家である。
気候は穏やかに、土地も豊か。
またそれを統べる王家も、代々民に慕われてきた。
現王・ヴァロック・ウィル・ハーランドも同じ。
武に長け知にも秀でた王として、騎士はもちろん国民からも支持を集めていた。
ただ一つ彼にとっての不幸は。後継ぎとなる男子がいなかった事。
ハーランド家は代々、男子による世襲を原則としてきた。
ただ1人の女性を愛したハーランド王は、妾《めかけ》を娶《めと》ることを一切望まず。
ゆえに。
彼の血を受け継ぐ子供は、1人しか残らなかった。
1人の、姫しか。
「これよりここに、薔薇前試合の開会を宣言する!」
文大臣の宣言により、その場は騒然となった。
いや、それはそこにとどまらず。
その声は闘技場《コロセウム》の外まで伝わり、城下を駆け抜け、街を揺るがした。
花火が上がり紙吹雪が舞い、大人は歓声を子供は跳ね回って喜んだ。
4年に1度の国を挙げての祭り。薔薇大祭の幕開けである。
1週間に渡って行われるその祭りにより、街は露店や出し物などによって大いに盛り上がるが。
人々が最も関心を寄せるのが、祭りの開幕宣言ともなるその行事。
薔薇前試合。
年齢は17歳以上、それ以外には資格問わず。騎士であろうが傭兵だろうが街の力自慢だろうが旅人だろうが。
戦う勇気があるならば。勝ち上がる実力があるのならば。
4年に1度開催されるその試合に勝ち抜いた者は、『薔薇の騎士』の称号が与えられ国の誉れとされる。
そしてその『薔薇の騎士』に許されるのは赤い薔薇≠フ称号。
――だが。
「出場者数、見られたか?」
文大臣コーリウスは控えの間まで戻ると、そこにいた男に声を掛けた。
「はい」
地大臣クトゥはコーリウスに軽く会釈し、眉を寄せて見せた。
「……陛下はどうなさるおつもりか」
「違《たが》わんだろうよ、わが殿は」
そういうお方だ。六人の大臣中最も在務歴が長い彼は、遠い目をして窓から望む空を見た。
「ならば」
「優勝した者には、白薔薇の称号≠与える。それが何を意味するか」
「……」
「願わくば、それに値する者が勝ち上がる事よ」
――従来、優勝者に与えられる称号は赤薔薇=B
白≠フ称号を得る事ができるのは、この国においてただ一人。
その者が課されるのは白薔薇≠ニもう一つ。
ハーランドという国家。
ハーランド王家、国王にのみ許される白薔薇≠フ称号。
「それが定めやもしれぬ」
今年の薔薇前試合、優勝者には白薔薇≠フ称号を渡す。
つまりは。
――ハーランド王のただ1人の姫君との婚儀を許す。
男子なきハーランド王が出した苦渋の選択が、それであった。
「……何にせよ急務なのじゃ」
文大臣は眉間にしわを寄せる。
「『白薔薇の騎士』……急務なのじゃ」
「……」
文大臣の様子に、地大臣は少し呆れたように肩をすくめた。
「……捨て駒です」
「否定はせん」
それを聞いて地大臣は、もう一度頷いた。「ですが体面がある」
「誰が勝ち上がるやら」
「……すべては神の思し召しのままに」
そう言い、文大臣は胸元の十字架を握り目を閉じた。
「今年の薔薇前試合は恐ろしい。最後までたどり着くには、一体どれだけ勝たねばならぬのか」
「史上最多数か。されど、街のごろつき共も混ざっておるぞ。優勝してやると、城下の酒場で大見得を切っておる者もおるそうな」
「愚かな事よ。そんな者たちに、我ら騎士が敗れてたまるか」
「……だが、おおよその予想では、やはり近衛師団のシュリッヒ殿が強いか」
「あの方は別格……武大臣殿が出場なされぬ今回、やはり本命はシュリッヒ殿」
「対抗馬は?」
「第一師団のルータスか、第十三師団のマルセか……」
――控え室。
出番を待つ騎士たちの会話を聞き、少し離れた所にいた男はハハハと笑った。
明らかに小馬鹿にしたその笑いに、騎士たちは怒りをあらわにした。
「無礼な。何がおかしい」
「……いやいや。ご苦労な事だなと思って」
「何?」
男は黒い鎧を身にまとっているが、騎士のそれではない。
「誰が本命だとか、対抗だとか。自分がそこに行く気ないじゃねぇか」
「……!」
「俺の中では優勝は俺。それ以外にはないね。対抗馬なんざいない。勝つ事以外、俺の頭ん中にはねぇの。負けるつもりなら時間がもったいないから、さっさと棄権しろ」
「何だと貴様!」
「そのいでたち、貴様はっ」
「出場者の身分は問わず」
ヘヘヘと笑って男は鼻を掻いた。「いい王様だ」
「こんな俺にも出世のチャンスをくれる。勝てばこの国の王だ。笑っちまわーね」
「傭兵隊長の、カーキッド……」
「まぁせいぜい楽しもうや」
そんな彼の横を、一人の剣士がすり抜けた。
今から出番なのか。剣士は白い鎧をまとっていた。
その気配に、カーキッドは一瞬彼を振り返ったが。
「……楽しみだねぇ」
それだけ呟いて、胸元から煙草を取り出した。
――そして、その剣士は。
ガシャリ、ガシャリ
鎧が重い。
完全鎧ではない。腰から下と、上半身は胸部のみ。
腹はがら空き。肩から頚部にかけてもそうだ。
兜も軽量に軽量を重ねている。
――己の分はわきまえている。
でも、戦わなければならない。
行かなければならない。
これは定めだ。
出口が見えてくる。
あの光をくぐれば、そこは、大衆見守る闘技場。
もう引き返す事はできない。
少し心が重くなる。
だが歩みは止めない。
歩く。
面甲を下げる。その面差しが隠れる。
ガチャリ、ガチャリと続く、鎧の音が。
胸の高鳴りと共鳴して行く。
――大歓声が、耳に。
「父上」
兜によってそこしか見えなくなった口元がきゅっと引き結ばれた。
そこからは、競技場が一望できた。
王の閲覧席である。
「少し、風が強うございますな」
この国で現時点、最高の権力を持つ者。
ヴァロック・ウィル・ハーランド。
その傍らに立つのが武大臣グレンであった。
グレンはそっと風避けを動かし、王を労わった。
「すまんな」
「いいえ」
「……すまん」
ハーランド王と武大臣グレンは同年。今年50を迎える。
「姫様はどうなされましたか?」
「あれは体調が思わしくないそうでな。部屋にこもっておる」
「さようで」
ちょうどよいわと、王はため息を吐いた。
「……陛下も、何もこのような初戦からご観戦なさらずとも」
じっと眼下を見据える王に、グレンは苦笑混じりにそう言った。
「お前も付き合わずともよいぞ」
「私は、興味がありますゆえ」
「わしとて同じだ」
「……は」
「……思い出すなグレン。そなたと私、腕を鍛え競った……共にこの試合に出た。懐かしい」
「あなたは白≠ニいうお立場がおありなのに」
「白∞赤%ッ時称号は、結局、そなたのせいで叶わぬ夢であったわ」
「それは失礼を致しました」
「……本当は、そなたに与えたいのだがな」
試合が始まろうとしている。
第一試合は騎士と……もう1人は。騎士ではないなとグレンは思った。
「わしの後は、本来そなたこそ、」
「……何を仰せやら」
「グレン」
「……ウィル様」
呟き、グレンは王の体に心を傾けた。
「気弱になってはなりませぬ」
「……ありがとうな、我友」
その腕がもうままならぬ事をグレンは知っている。
その足も、杖がなくては歩けぬ事も。
「始め!!」
闘技場から審判の声が響いた。
その声が、グレンには重く突き刺さった。
(終わりの始まりだ)
結果は時間が出すだろう。
(ウィル……)
彼の体が病気に蝕まれていなければ。
彼に息子がいれば。
まして、もし。
(黒い竜など現れなければ)
この試合はどういう物になっていただろうか?
答えは出ない。
ただ、今見ている映像は1つ。
(歴史が変わる)
今が砕けていく。
王はそれを見届けようとしている。
誰が勝ち上がり、誰が最後へとたどり着くのか。
そしてこの王の前に頭を垂れ、その剣を受け取るのか。
白い薔薇が導くのは、どの腕か。
いや――魂か。
(我はただ、彼に寄り添うのみ)
生涯仕えると決めた、一人の王と。
その結末をこの目に刻もう。