『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第2章 『暁の森』 −3−
ギョウライチュウ。通称羽蟲。
元々は大人しい蟲であったのに。
(ここ数年だ、)
凶暴化したのは。
(この時期は風は北から南へ向きこむ)
それに乗ってきたのか……?
考えながら。カーキッドは走った。
森の道を走るのは簡単ではない。
村人が通るようにと多少の道にはなっているものの。街道とは訳が違う。舗装されているわけではない。砂利と石が凸凹に足をからめとリ、また思いもかけない高低差も行く手を阻む。
まして夜。
今宵は空が澄んでいるためか月明かりが強いのだけが、唯一の救い。
その中で、カーキッドは足を止める事なく走り続けた。
オヴェリアが遅れようとも構わずに。
……だが、気配だけは。背中に、正確に配ってもいた。
(よく着いてくる)
こんな道で、走り行く俺の背中をきちんと。
(いい根性だ)
闇の中、一瞬だけその顔に笑みがこぼれたが。
すぐにそれは風のごとく消え去った。
初めて、カーキッドはピタリと足を止めた。
「……臭うな」
「……え?」
その間にようやく追いついたオヴェリアは、息を切らしながら苦悶の顔で問い返した。「何?」
「生き物が焼ける臭いだ」
近いぞ、そう言ってまた走り出すカーキッドの。その背中を追いかけてさらに走ると。
う、とオヴェリアは手首で鼻元を押さえた。
「何、この臭い」
硫黄臭にも似た、もっときつい、脳天に響くような臭い。
「こいつは、……灯りが見えるぞ!!」
木々の隙間から漏れ見える光。
揺らぎ揺らめくそれは、
「火だ」
オヴェリアとカーキッド。たどり着いた先にあったのは。
炎と。
「何、これ」
大量の蟲。
オヴェリアは息を呑んだ。
「これが、蟲……?」
「行くぞ」
大きさは、人かそれ以上か。
羽を持った、異形のそれは。
無数の大群となり、村に、飛散していた。
人の叫び声が聞こえる。見れば、頭からそれに食いつかれてもがいている。
蟲を恐れて火を使ったのだろう。その結果飛び火したそれが燃え移り。
村の半分が、火に、包まれていた。
その中にカーキッドはためらう事なく飛び込んで行った。
もう剣を解き放っている。まずは一刀、人に食らいついているそれを両断した。
「来たんなら手伝え!! ぼさっとすんな!!」
続けざま、飛んでいる2体を斬り、カーキッドは叫んだ。
オヴェリアはハッとし、彼女も剣を抜いた。
「おい、お姫様。一応聞くが。殺すなとか言わんよな?」
「愚問」
言いつつオヴェリアも、蟲を一刀する。
グギャァという奇声が耳に痛いが、構ってられなかった。
蝉のような、昆虫。
羽が炎の中に、まだら模様に薄く光っている。
「全滅させます」
「上等」
言ってカーキッドは走り出した。
「すげぇ数だ」
言いつつも、その剣は綿を斬るかのごとくするすると斬り倒して行く。
オヴェリアもまた、全力で剣を振るっていた。
蟲の血が顔を、髪を、衣服を汚したが。構える物ではなかった。
人が蟲に襲われている。
背中を引き裂かれそうになっていた子供を寸前で助け、首を引っ掛けられていた男をギリギリで助ける。
恐ろしい光景だった。
(こんな事が)
知らなかった。
城では誰も、教えてくれなかった。
こんな蟲が村を襲い、人を襲い。
(こんなふうに)
命が、奪われていっているなんて。
――すでに事切れた村人にたかる数匹を切り裂き。
オヴェリアは、その目に微かに涙を浮かべた。
「……」
城にいたらこんな事、永劫、知らずに終わったか。
それは幸せか? それとも、
「不幸か?」
白い薔薇を抱くその剣は。
蟲を殺し、殺し。殺して行った。
火が。包む。
その村はもう、終わり。
燃え移っていった火は、やがて村を全部飲み込んだ。
生き残った人たちは命からがら、高台へと逃げた。
黒い煙が空へと還っていく。
「……」
オヴェリアはそのさまを、呆然と見ていた。
魂を抜かれたような顔だった。カーキッドは内心でため息を吐き、肩を叩いた。
「お疲れ」
「……」
彼にしては珍しく、そして彼の中では最大級の。労わりの言葉だった。
カーキッドをよく知る人物ならば、「天変地異の前ぶれか?」と疑いたくなるような苦い顔を彼は浮かべていたが。
「……」
オヴェリアはそれを見なかった。
ただじっと、崩れ行く村を見ていた。
「どなたかは存じませんが、助かりました……」
村人の1人が2人に声を掛けてきた。
生き残った面々は、怪我人を含めても僅か。
……村を走る最中、幾つも、無残な顛末を彼女は目にした。
放心状態のオヴェリアに代わり、カーキッドが説明をする。山向こうの村からきたと。
「蟲はほぼ斬ったと思うが……一体?」
「わかりません。我らも突然の事で。山から大量に押し寄せてきて」
「……向こうの村も心配だな。オヴェリア、戻るぞ」
「……」
「おい、オヴェリア」
「あ、はい……」
腕がきしんだ。
足が悲鳴を上げていた。
でも。
それより何よりオヴェリアは。
今、空気そのものが痛かった。
「だから待っとけつったんだ」
カーキッドがポツリともらした言葉を、彼女はどう受け止めたのか。
正気を戻したその目は、少し傷ついたようにカーキッドを見上げた。
月明かりにその顔は、汚れていた。
あーあ、あのきれいな顔が台無しじゃねぇかと。
ため息を吐きながら。
「……戻りましょう」
クルリと向けたその背中を、カーキッドは苦い物を見るような顔で見つめた。
「とりあえずあっちに戻るよ」
「……ありがとうございました。真に、ありがとうございました……」
感謝の言葉を、オヴェリアは、今、聞きたくなかった。
帰路は、来た時ほど急がなかった。
走りはしたが、鬼気迫る勢いというわけではなかった。
蟲は倒した。
山から向こうへ行った可能性もあったが……蟲は群れを成して動く。はぐれで1匹2匹が別行動をする事も、まさか2手に別れる事もないだろうと。カーキッドが言った。
それもあり、身も心も重く。
足を、鈍らせた。
「オヴェリア、急げ」
カーキッドは走ったけれども。
「……」
オヴェリアは、やっとの様子で前に進んだ。
(無理もねぇか)
とカーキッドは思う。
おそらく彼女は初めて見た。死体を。
……あんな、無残な光景。蟲が人を襲う事事態、初めて知り目の当たりにしたんだろう。
剣士が……いや、戦士が誰しも通る最初の1歩。
(いかに剣技に優れようとも)
本当に意味をなすのは。
命の重みを知った、その瞬間から。
それを知らぬうちは、どれほどの技を持っていようとも。
(無意味)
さぁどうする、オヴェリア・リザ・ハーランド。
お前が選んだ道は、こういう道だぞ。
過酷すぎるこの道の最初の1歩は。
ここからが、本当の試練の始まりだぞ――。
……最初の村に戻る。
炎は上がっていない。静かだった。
夜の帳と、仄かに聞こえる虫の鳴き声に。オヴェリアは少し安堵した。
だがカーキッドはすぐに異変を感じた。
「待て」
村長の下へ、宿へと向かおうとして。
カーキッドは無理矢理オヴェリアの手を取り、建物の影に隠れた。
「……な、にを」
彼女の口を手で塞ぎ。
カーキッドは険しい目で、建物の向こうをそっと見つめた。
「耳を」
済ましてみろ。
聞こえてこないか?
虫の鳴き声が途切れて。
代わりに聞こえてきた。
笑い声。
「――」
話し声。
言葉はわからない。だが音が。踏まれているその音の感じが。
――村人ではない。
おだやかではない。
殺気じみた凹凸の交る、
不快な笑い声。
「だから、」
まさか、とオヴェリアは目を見開いた。
「残れと」
後は彼の手を振り払い、
「言ったんだ」
走り出した。
足が痛いとか、腕がだるいとか。
気が重いとか辛いだとか悲しいだとか。
そんな感情は、もう。
それより何より胸を襲うのは。
「てめぇは今朝の!!」
「……」
火は上がっていなかった。
轟音は、なかった。
でも。
皆、事切れていた。
人が倒れていた。
色々な姿で。
月明かりの中、夜の闇が隠してくれてる。
無残なその光景を。
「これ、は……」
呟く間にも、オヴェリアを中心として。男達が取り囲んでいく。
「お前が、今朝出くわしたっていう剣士か」
「……」
「村人は全員皆殺しだ。ザマぁみろ」
目の前に倒れいていたのは。
今朝救った娘のうちの、1人だった。
剥ぎ取られた衣服が。ボロボロと、辺りに散らばっていた。
その目は月を眺めていた。
オヴェリアがその顔を覗き込んでも。
反応は、なかった。
そっと、その目を閉じさせる。捨てられていた服を上からそっとかけてやった。
――笑っていた。嬉しそうに。
夕餉の時、ありがとうありがとうと何度も感謝を、
「お頭、どうします」
「構わん。殺せ」
総勢、30。
下卑た、笑い声。
くぐもるように聞こえるそれは、さながら、猛獣の唸りのように。
――されど。
猛獣ならば、気づく。
辺りは沈黙。
虫は鳴き声を止めている。
その中で風が。
一陣だけ、強く吹き殴り。
「……」
オヴェリアはゆっくりと立ち上がった。
俯き、事切れた娘を見。
「やれ」
襲い掛かってきた盗賊の1人目を。
「――グギャァァァッッ!!」
斬った。
彼女からほとばしる、
空気をも切り刻むかのような。
深い、深い、
殺気。
その場にいた誰も、彼女が剣を抜いた瞬間を見る事できなかった。
何が起こったかもよくわからない。
ただ、1人の盗賊が胴体から血を吹き転げ回り。
そこにオヴェリアが、剣をぶら下げ、立っていた。こちらを向いた瞬間さえ、見えなかった。
その顔には感情というよりは、むしろ。
「こ、殺せ!!」
――闇が。
3人同時に襲いかかってくる。
カンッと初手を弾き飛ばし、地面にもぐり、そのまま正面の男の腹を横に薙ぐ。
血しぶきをきらい、すぐさま後ろへ避けたそこへ、2人が突き刺すようにタガーを畳み掛けてくるが。
オヴェリアの方が早い。ことごとく空を突いていく。
その背中を一太刀。腰から一刀に薙ぐ。
そのまま返しの刀は3人目の首を一閃。
……これで、4人。
「このアマぁぁぁ!!」
一気に押し寄せる無数の刃に。オヴェリアはひるまず剣を構えるが。
横から押し寄せた3人ばかりが、一気に倒れ行く。カーキッドだ。
その隙間から円の外へ抜け、オヴェリアは走った。
「追え!!」
そのまま、場所を変える。
走るオヴェリアの横に、カーキッドも着く。
カーキッドはもう、何も聞かない。
ただ一言。
「へへへ」
と笑う。
少し広けた場所に出た。そこで、オヴェリアは追っ手に向き直った。
改め、剣をかざす。
そこに付けられた、白い薔薇をかざし。
「オヴェリア・リザ・ハーランド。参る」
ハーランド? その名に驚愕を見せた盗賊の頭目に。
二の句は告げさせぬ。一気に3人、斬り倒す。
彼女の動き、誰にも見えぬ。
連撃で知れた騎士をも上回ったその剣技。
この場の誰に、止められようか?
いや、万が一にもその剣から逃れようとも。
脇に控えるのは、かつて異国で鬼神と呼ばれた1人の剣士。
白い騎士と、黒い剣士。2人を前に。
「わ、わ、ギャァァ!!!」
逃げる事すらも、かなわない。
「敵前逃亡は、男の恥だと。センセェに習わなかったか?」
笑いながら、カーキッドは首を跳ね飛ばす。
――30いた盗賊は、瞬く間に半分になり、残り10人になり、5人になり。そして最後、1人となり。
「は、ハーランド……まさか、まさか」
「真実は」
カーキッドが剣を構える。
それより早く、オヴェリアが横から一閃させた光が。
斜めに、盗賊の頭の身を、捕らえた。
「闇の中で神に問え」
いればの、話。
そしてカーキッドがとどめにと。心臓を一突きした。
――これで0。
全、倒。
生きていく、その中で。
運命の選択は、そこかしこに散らばっている。
ゴロゴロと。
でもどれもこれも「これが分かれ道だ」なんてご丁寧に看板は立っていない。
小さな小さな選択に、まさか自分の運命、人の命が関わっていようとは。
……わかるのは、結果。すべてを終えた後。
涙でも流すか?
己の選んだ、道の顛末に。
(それでも)
それを踏み越えなければいけない。
たとえ間違った選択をしたとしても、取り返しのつかない結果となっても。
道は戻れぬ。ゆえに。
ならば、越えて行かなければならない。
悲しみすらも糧として。
強さと変えて。
また1歩。
踏み出す事を、やめないように。
土を掘る。
ひたすら彫る。
スコップ。
初めて持った。
土のにおいは、甘かった。
できた穴に、カーキッドが、そっと娘を入れる。
これで最後。
衣服は整えた。
それを眺め、目を閉じ。オヴェリアはそっとそこに土をかぶせて行った。
すべてを終えると、その上から、十字を立てる。
――村人は全員。
これで、土へ、還る。
「ご苦労なこった」
カーキッドはため息を吐いた。
「何も盗賊まで埋めてやらんでも」
「……命は、命です」
「そーかい。そらお優しい事で」
「……」
命、かとカーキッドは呟き、持っていた水筒の水を飲んだ。
「人の命と蟲の命、それにどんだけ差があるのかね」
盗賊を殺すなと言ったオヴェリア。そして蟲は問答無用で斬った。
あの時もしも盗賊を逃さなかったら?
目を閉じる。
「まぁ、」と彼女の考えている事を察したように、カーキッドは呟いた。「同じ事だっただろうがな」
「あの時あいつらを全員倒していたって、結局は、こうなっただろうさ」
「……」
「だから言ったんだ、関わるなって」
「……それは、違う」
「あん?」
「同じ結果になったとしても……それは違うと、思う」
さらわれていく女達を見なかったふりをしてやり過ごす事など。
「何が違う?」
「心」
「……」
「私の、心」
見捨てて罪悪に苛まれるくらいなら。
身を乗り出して、戦って、
「だったら今度からは、諸悪は全部叩き斬れ」
「……」
俯く彼女に、カーキッドはやれやれと息を吐いた。
蟲の血と、人の血に犯され。彼女は汚れきっていた。
(そりゃ俺も似たようなもんか)
せっかくのきれいな顔が。
――でも、それでも。
こいつはきれいだと、そう思うカーキッドは。
少し苦笑する。彼にしては、珍しく。
「オヴェリア」
と、カーキッドは彼女の名を呼び。
虚ろに顔を上げた彼女の鼻の頭についていた泥を、そっとぬぐってやった。
「カーキッド、」
「……まぁ、ご苦労さん」
初めて命を絶った。
人を……斬った。
その重み。カーキッドにも最初はあった。
だがそれは言わず、「よくもまぁ、こんだけの人数の穴掘りしたよ。ほれ、夜が明ける」
「……」
「長い夜だったな」
言いながら、彼はポンと彼女の肩を叩いた。
「……」
「でもここからが、始まりだ」
色々な意味で。
旅も、そして戦士としても。
光が。山間からこぼれた。
その眩しさに、初めてオヴェリアは。涙を流した。
カーキッドは少し困り、「戦士は泣くもんじぇねぇ」と言おうとしたが。
仕方なしに、そっと、抱きしめた。
「……」
あーあーと、カーキッドは思った。
これだから女は困る。
でも。
「……よくやったさ」
彼をよく知る者が見たら、間違いなく今日は天変地異が起こるだろうと断言した事だろう。
だが事実として、カーキッドはそう思っていた。
こいつは中々、面白い。
姫様という事を差し置いても。充分。
「よくやった」
「……」
そう言ったら一層泣くので。
カーキッドは困り、それからしばらく、泣き止むまで胸を貸さざる得なくなってしまった。
髪も汚れているのに。血の臭いがするのに。
不思議とこいつからはいい匂いが立ち込めてくる。
姫様だからか? 女だからか?
カーキッドには、よくわかからなかった。
ただ腕に占めるその感じが。悪い気分はしなかった。
「行くか」
泥まみれになった服と体を洗い。
ようやく出立できたのは翌日。
オヴェリアは、主のいない宿に頭を垂れ。首からかけていた十字架を握り締めた。
「北へ。第三街道へ出る。ちゃんとついて来いよ。あとそれから、」
とカーキッドは彼女の鼻先に指を突きつけた。
「お前、今後人前に出る時は顔隠せ」
「……え?」
「いちいち女だ女だと騒がれたらたまんねぇ。顔隠せ。声も出すな。男の振りしろ。いいな?」
それにオヴェリアはいささかムッと顔を歪めた。「カーキッド、」
「それを言うなら、あなたもちょっと」
「あん?」
「あなた、私の事は偽名で呼ぶって言ってたけれど。なのにオヴェリアオヴェリアと。一言もカインとは呼ばなかった」
「……そうだったか?」
「そう。私の顔がどうのと言うのなら、それはどうなのですか?」
「……わーったよ。気をつける」
オヴェリアに一本。
クスっと笑った彼女の顔に、カーキッドは知らず頭を掻いた。
「行くぞ」
旅の始まりは暁と共に。
背負った十字を胸に抱き。
2人は歩き出す。