『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第5章 『鈴打ち鳴りて、閉眼の錠』 −4−
2人が通されたのは、美しい部屋。
レースのカーテンと見事なシャンデリア。
大きな暖炉に刻まれた模様は、スズラン。
それは他の調度品も同じ。ランプに絵画、ティーカップ。飾り用の剣の柄にも刻まれたその模様は、この領地の騎士が持つそれと同じ。
部屋の隅にはカナリアがいて、こんな時間の来客を不思議そうに見ていた。
「……お待たせいたしました」
2人がここにきてから数分後。
少し慌てた様子で彼女は現れた。
「カイル・グルドゥア・ラークが妻、テリシャでございます」
そう言い、テリシャは胸に手を当て深々と頭 を垂れた。
「このたびは突然のお越しを……オヴェリア姫様」
震えたような口調で言うその姫の姿に。オヴェリアとカーキッドは顔を見合わせた。
「私はまだ名乗っておりませんが」
「貴方様のその剣を見れば一目」
答えたのはランドルフであった。
彼はテリシャの側に寄り添うように立つと、こちらも深く礼をした。
「先日の無礼、誠に申し訳ございませんでした」
「……いいえ」
「薔薇前試合の結末、そして現白薔薇の騎士≠ェオヴェリア姫だという話はこの地にも流れてきております。よもやその姫様がこの地においでとは」
ためらうように言うランドルフとカーキッドの目が合った。カーキッドはムスっとしながら軽く舌を出して見せた。
「貴殿は……、確か、準優勝は傭兵隊長だったと聞き及んでおるが、」
「んな事ぁどうでもいい」
今大事なのは俺達2人の事じゃねぇ、とカーキッドは語気を強めた。
「そんな事よりも。一体どういう事だ。説明しろ」
「……」
「先刻の石の事もそうですが……今何が起こっているか。こんな夜分に一体何を? 尋常沙汰とは思えません」
今度はテリシャとランドルフが顔を見合わせる番だった。
「答えなさい、テリシャ」
使いたくない。だがオヴェリアは言葉を強くした。王族の口調でそう尋ねた。
それにテリシャは少し身を固くし、唇を振るわせた。
そんな彼女に代わり、ランドルフが。彼女を庇うように1歩前に立ち告げた。
「屋敷内の地下に捕らえていた獣が……逃げましたゆえ」
「獣?」
オヴェリアは目を見張る。
「はい」
「それは一体」
「詳しくは申せませぬが、当屋敷の地下に閉じ込めていた野獣が……手違いで、檻から逃亡し、」
「……」
「何とか捕らえようとしたのですが、手に負えず。屋敷内の者数人を殺し……町へ逃げた模様」
「……なんと、」
驚きを見せるオヴェリアに対し、カーキッドは平然と目を細めた。「へぇ?」
「そりゃ一体、どんな獣だい?」
「……」
「モノによっちゃぁ、手伝ってやらん事もないがな」
「いえ、それは。お2人の手を煩わせるような事は、」
ランドルフが答えたその直後。
「それってまさか、さっきのアレとか言いませんよね?」
そう呟いた者がいた。
驚き、ランドルフが戸口を見ると、そこには。
「デュラン様」
「何やら騒がしいと思ってきてみれば」
デュラン・フランシス。
乱れなきキャソック姿で彼は小さく欠伸をし、その場に集まった一同を眺め見た。
「おやおや、お2人方」
「てめぇは」
「ごきげんよう、オヴェリア様」
「デュラン様、なぜここに」
彼女に問われ、デュランは僅かに肩をすくめて見せた。「お仕事でこちらにお邪魔していた所でございます」
「さてさて。改めてお聞かせ願えますかな? テリシャ様」
デュランはゆったりとした足取りで部屋に入ると、ニコリ笑った。
「アレは一体なんなのか」
「……」
「地下に捕らえてあった獣」
「……見たのかお前」
「ええ。頼まれましたので」
笛の音が聞こえる。警笛だ。
「あれは何なのか……いや、誰≠セったのか」
「――ッ」
話が見えない。苛立たしげにカーキッドはデュランに食って掛かる。「どういうこった」
「……まぁ、私がわかる範囲内でならご説明いたしましょう。よろしいでしょうか?」
「……」
「沈黙は諾と承りましょう。……地下に捕らえられた獣。あれは元々は獣にあらず。姿形は獣と化してはおりましたが……元は人」
――地下で。
デュランは檻に入ったそれを見た。
獣であった。
格子を掴み、牙をむき、唸り声を上げていた。
おぞましい光景であった。
だがもっと、彼がおぞましいと思ったのは。
その顔は。
……全身は毛むくじゃら。獣にしか見えない。しかし、その顔だけは。
白き、陶器のような肌を持った人≠フそれ。
牙さえなければまごう事なき、
「人間だ」
「……」
「第一にあの部屋に充満した腐臭。あそこからは、魔道の臭いもしてきた」
嫌な嫌な漆黒の魔術。
デュランは傾けた口元の向こうに嫌悪をにじませ、テリシャに向き直る。
「さぁそこで尋ねたい。貴方の主、ラーク公は今いずこに?」
空気が変わる。様相が変わる。
オヴェリアは息を呑む。
人が獣人化した?
それもそれはラーク家の当主?
何の仕業か、何の所業か。
「……」
テリシャは膝を付いた。「どうぞ、」
「お見逃しを……」
「できません、ねぇ? オヴェリア様」
振られ、オヴェリアは慌てて頷く。「テリシャ様」
「その上あなたの赤ん坊は呪いにかけられている」
「デュラン様、」
「尋常沙汰ではありませんよ、姫君」
「……」
誰かが唾を飲む音。
それは息だったのかもしれぬ。
「姫」
ランドルフが、崩れたテリシャに寄り添った。
「ランドルフ殿。黙り通せるとお思いか?」
「……」
苦渋の決断。
ランドルフは、重い口を開く。
その声は、苦悶で満ちていた。
「……御子に異変があったのは、半年ほど前」
ある日突然、目を覚まさなくなった。
何かの病気かと思い、医師に見せたが原因はわからず。
10日経っても目を開けぬ異変に、ラーク公とテリシャは慌てふためき、国で名医と呼ばれる医師を呼び寄せたがそれでも原因はわからなかった。
10日ほどが経ち、途方に暮れていた頃である。この地に使者がやってきたのは。
「誰からの?」
オヴェリアの問いに、だがテリシャは震えるように首を横に振った。
「……申せません。誰かに申さば、クレイの命はないと」
「ほほう」
「ただその使者は……手紙を置き、去りました」
手紙に書かれていたのは、赤子に呪いをかけたという事。
そしてそれを解いて欲しければ、ある物を探せという内容。
「まさか、それが?」
「……」
碧の焔石、だと?
「……こんな不条理な事が許されるわけがない、我らが子供にも我らにも、このような事をされるいわれがないと……わが殿は怒り、手紙の送り主の元へと兵士を引き連れ参られたのです」
そして結果は。
「その数週間後、カイル様はこの地に戻られました。その間何の連絡もなく、何度も安否を尋ねて手紙も書きましたが返答もなく……心配に心配を重ねていた時でございまし。だが戻ったのはカイル様のみ。他の共は、誰一人戻らなかった。そして戻ったカイル様の身にも異変が」
レイザランの地に戻ったラーク公は、屋敷の者とほとんど口を利く事できないままに。
突然呻 き出し。
周りの者が驚く間もなく、
その身は変化し。
……そして。
「カイル様は……我を、失ってしまわれた」
「……」
「我らにできたのは唯一、地下の牢に閉じ込める事だけ。魔術か、何らかの薬物か……誰にもわからない。医師に見せようにも近づけない。どんな魔術師も原因はわからぬと」
「……」
「そしてまた使いは現れました。猶予は4ヶ月。それ以内に碧の焔石を見つけられぬ場合は、赤子は死ぬと。そして……テリシャ姫も」
呪い殺すと。
「……」
恐ろしい話である。
だが何より。オヴェリアはきゅっと口を結んだ。
「誰が」
一体誰が。
「……」
ランドルフは黙して動かない。
「答えよ、ランドルフ。手紙の送り主、そしてラーク公が赴きし場所」
「……オヴェリア様の命令とは言えど、その儀は」
「言いなさい」
「できませぬ」
――万が一それで、テリシャ様の身を危うくするような事になったら。
これ以上は、これ以上は。
オヴェリアとランドルフが睨み合う。
その様に、デュランは眉を掻いた。
「ならばとにかくも。現状あの獣人、ラーク公が町へと逃げておると。そういう事ですな」
「……はい」
テリシャが頷き認める。苦渋に満ちていた。
「獣となったカイル様は……もはや手に負えぬ。牢に入れる際も、何人の命が絶たれたか」
「そうか、そんなに面倒な奴か」
言い、カーキッドは戸口へと動き出した。
「カーキッド」
「手伝ってやるよ」
「……」
「一応聞くが。斬っていいのか?」
「……」
「……」
「……」
黙したテリシャとランドルフに代わり、デュランが口を開いた。
「カイル公にかけられた術」
「……」
「目を開けぬ赤子にかけられた術とは違う。もっと何か……直接的な事をされている」
「……具体的には?」
「呪いだけではない。言わば」
人体の改造。
「それは、元に戻るのか?」
デュランは答えなかった。それが答えだった。
だが側にいるテリシャのために、渋々言葉を続けた。「時があれば」
「医学の進歩、魔道の進歩、何らかそうしたものが進めばあるいは」
「アバウトだな」
「……」
「斬るぞ」
それが結論。
言い放ち、部屋を出ようとする彼を呼び止めたのは、「待て」。
「斬らないで、くれ」
ランドルフだった。
「どうかカイル様を……無傷で」
「無傷で、だぁ?」
オヴェリアも、戸口に向かって歩き出す。
「お前ら、どういう目に遭った? そいつに何人も殺されてんだろ? そして戻る保障もない。いいか、生かしておく事が万事において正しいとは限らんのだぞ?」
「……」
「死だけが唯一の救い、そういうもんだって」
この世には、あるんじゃねぇか?
「周りのエゴで決めていい問題じゃねぇ」
「……行きましょう、カーキッド」
彼を追い越し、オヴェリアが出て行く。
舌を打って彼も後に従う。「待てよ、オヴェリア」
「てめぇの事だ、殺すなとか言うんだろ? あん?」
「……」
オヴェリアは小さく呟いた。「わからない」
「とにかく見つけよう……新たな犠牲者が出ないうちに」
そんな2人を後ろから、デュランも追いかけた。
ピーという警笛が聞こえる。
町の異変に人々も起き出してきている。
だがそれを兵士達が必至に止めている。「家の外に出ないように!!」
空はさっきよりも明るくなっている。見通しも違う。
そして通りを走る兵士の数も、多くなっていた。
「いたぞ――!!!」
飛んできたその声に、一番にオヴェリアが反応した。
彼女に並び、カーキッドが走る。その後ろから2秒程遅れてデュランが走った。
そして。
目にした光景に、オヴェリアは口元を押さえた。
彼女の目に蘇る、巨大な蟲に襲われた村。
異形の存在……そしてここにもまた、それが、忽然と立っていた。
これが、人であったというのか? 背丈は人の2倍程、横幅も同じく。全身逆立つような毛に覆われたその体。
だが頂点にある顔のみが。体全体からすれば異様に小さく。
……だが牙を剥き、白目を剥いて吠えていた。
オヴェリアは剣を抜いた。
(確かに、ラーク公)
彼女も見た事がある。先代当主の突然の死により、急遽この地の領主となった若き公爵。
だが彼女の覚えではカイルという男はもっと細く、丹精な顔立ちの。
『まるで役者のような方でございますね』
侍女のフェリーナがそう言っていた事を思い出す。
……だが、もうその面影は。
「デュラン様、もう一つ尋ねたい事が」
「何でございましょうか」
息を乱しながら答えるデュランに。
オヴェリアは、獣からは目を離さずに問うた。
「ラーク公の……カイル様の自我は?」
本当にもう、ないのでしょうか?
(看守の話によれば)
テリシャを侍女達に任せ、ランドルフは屋敷を飛び出した。
(泣いていたと)
獣は……急に体をよじって苦しそうに呻き出したかと思うと。
テリシャ、テリシャと泣き出したのだと。その姿に、たまらず檻を開けた途端。
――看守の1人はその場で、食われた。
「カイル様……」
ランドルフは呟く。
そして走った。