『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第37章 そは、黒き翼を背負い −1−
「ねぇ、カーキッド」
オヴェリアは言った。
「あの日の事を覚えていますか?」
カーキッドは視線だけ投げ、後は前を向き直る。
「初めて会った時の事」
「……ああ? あの試合か」
「ううん、違う。……薔薇の庭で」
――空は明けに濡れている。
「庭にいたら、道に迷ったあなたが現れた。あなたと初めてちゃんと話した……あの時。なんて無礼な人なんだろうって思いました」
「……そうかい」
「あなたは私にこう言った。お姫様はお城に引っ込んでろと。竜を倒しに行くと言った私に、傲慢だって」
――水気を含んだ雲は、走った末に溶けて行く。
「あなたに言われた事、ショックだったけれども。でも、間違ってなかった」
デュランとマルコは静かに耳を傾けている。
「私は傲慢だった」
「……」
「1人で竜を倒すなんて……1人では、ここまで来ることすらできなかった」
足場は悪く、油断すると挫かれるほどに。
岩肌はむき出しで、前には一面の岩石の荒野が控える。
「そして私は、何も知らなかった」
「……何を知った? この旅で?」
面白半分にカーキッドが聞いてみる。するとオヴェリアは少し考えた末に首を横に振った。
「結局何も、知る事できなかったのかもしれない」
「何も、ですか?」
デュランが加わる。オヴェリアは頷く。
「何かを知り得たような気もしてた。……私は何も知らなかったと知った。城の外は全く違う世界があった。食べる物に困り、美しい衣服など無縁に人々は生き……売り買いまでもされている。生きてはいけぬと生を投げ出す者もいる。思い描いていた世界とは違っていた。謀略に人は怯え、嘆き、私の知らない所で様々な」
事が、起こったいた。
国すら揺るがす事態が起こり。
少しずつ、異変は広がり。
「知らない事が多すぎた……けれども」
結局、その中でどれだけの事を真実に知り得たのか。オヴェリアにはわからなかった。
「何かを知った……と言うには、私は何も知らないままな気もする」
「……」
「そして私が知らない間に、世界は変わっていく」
マルコがオヴェリアを見上げる。
「私は強いと、勝手に思っていた……傲慢だった。あなたが言った通りに」
「姫様は強いです」
たまらず、マルコが言った。
「姫様は強い」
オヴェリアはマルコに微笑みを返す。
「ありがとう」
「あなたは確かに無知だった。でも世界の誰しもが、そうなのでしょう」
デュランも言う。
「私とて同じ事」
「デュラン様が?」
「そう。私が知る事とて、世界の一片にしかすぎません」
でもだからこそ。
「あなたはそれでも、進まれた」
「……?」
「知らぬ世界に挑む事は、恐ろしき事。しかも行く手に控えるのは誰も進まぬ暗き闇。だがあなたは、その世界に果敢に足を踏み入れた。懸命に戦い、道を開いていった」
「……」
「だから、ここがある」
今ここに至る道。
「ここに至った、この道を築いたのはあなた自身だ」
今、ここにあるという現実。
「あなたは1人ではここにたどり着けなかったかもしれない。だが、あなたでなければここにはたどり着けなかった」
オヴェリアは驚き、デュランを見た。デュランは強く微笑んだ。
「あなたは暗き道を照らす光そのものです」
「……」
マルコが頷く。
2人を交互に見つめ、オヴェリアはしばし沈黙する。
「光など、」
おこがましい。
だが2人は優しく見つめている。
カーキッドは振り返らず、足場の悪い道を先へ先へと進んでいく。
その背を見、オヴェリアは思った。
もしも本当に、光があるというのならば。
(あの背中こそが)
暗き道を照らし先へと示した光。オヴェリアにとってそれは、前を行く男の背中。
「……」
だがそれは言わない。
そして、旅はここで終わりではないのだ。
――必ず生きて。
その先へ。
闇の向こうへと続く道へ。
群青、厳 かに光立つ。
静寂のみが世界を支配。
歩き乱れるは、ただただ一片の風。
――旅に出て100日余り。
彼女はそこにたどり着く。
思いは1つ。
竜を倒し、
まだここから先へ、進まなければならない場所がある。
37
岩場を越えたその先に。
オヴェリアは空を見た。
無窮の空と思えた。
その光景と同時に強い風が吹き付け、一瞬足元をすくわれる。
「おっと」
よろけそうになった彼女をデュランが支える。
「ありがとう」
礼を言いながら。
彼女は視線を、先へと戻す。
――無窮の空のその下には、世界の終わりがある。
深い深い絶壁。
「ここが、」
――ゴルディア。
戦士の墓場と言われる場所。
また風が吹きつける。その音に悲鳴を聞く。嘆き声、怒りか悲しみか。
いいや、空耳だ。
思いに囚われている時ではない。
「おい」
足場を固めたオヴェリアの前で、カーキッドが叫んだ。
「来たぞ」
その声には笑いが含まれている。
「来てやったぞ」
――おいで、ゴルディアだ……そこで待つ。
挑発。カーキッドは叫びながらも辺りに細かく注意を払っている。
そしてオヴェリアも剣の柄を握りしめ四方を見やった。
黒い竜と。
ここで待つと言った魔導士。
「ギル・ティモ……」
デュランが呟く。その声には闇が含まれている。
――もう何日も、生き物を見ていない。
その中で。何日か振りに聞いた風以外の鳴き声は。
やはり。
鴉の一鳴き。
「ガァゴ」
オヴェリアは空を見上げる。青の空に黒い翼が舞っている。
「ガァゴ」
二つ目。
どこからともなく現れて。
「ガァ」
三つ、そして四つ。
――否、もう、数える事出来ぬ。
「う」
マルコが呻く。デュランが術符と共に腕を構える。
「来るか」
「ガァ」
「グァァァ」
「ゴァゴ」
「カッカッカ」
「グェ」
「ギュィヤ」
「ギョハ」
空が、黒く染められていく。
もうそれは鴉の鳴き声ではない。
異質の声。
身の毛もよだつほどの。
――オヴェリア、剣を抜き放つ。
「気色悪ぃ」
カーキッドも笑いながら剣を抜く。
鴉はうねるようにして空をかき乱す如く飛んで。
やがてその渦の中に、一つの赤い輪郭が浮かび上がる。
目だ。
そして口。
笑ってる。
鴉の渦の中に、おぞましい笑みが浮かんでいる。
「ようこそ、オヴェリア姫」
悪魔。
それ以外の言葉が浮かばない。
「遠路はるばる、よう参られた」
その声はギル・ティモか? 否、わからない。
反響と残響がすすり泣くほどで。
「白薔薇の剣に選ばれし姫君」
いいや、と赤い目が曲線を描き一層笑う。
「白薔薇の剣を選びし姫君」
「ギル・ティモ」
オヴェリアが一歩前に出る。
足が笑いそうだ。
だが負けてはおれぬ。
今ここで、退くわけにはいかぬ。
「私がここに来た目的は、黒い竜を倒す事」
そして。
ここでつまびらかにせねばならない事がある。
「ゴルディアに黒き竜がいる。その討伐のために私は国を出てここまできた。……そしてあなたが、ここにいる」
鴉の渦の中の笑みは消えない。
「あなたは言った、本物の竜と私たちがどのように対峙するか見たいと」
――黒い竜。
その討伐のために出た旅。
だがその過程で起きた事。
竜の心臓である、碧の焔石を取り巻く事件。そこにギル・ティモはいた。
彼は異形を生み出し、一人の領主たる男を惑わし。
男はこの国を滅ぼすと言って消えた。
「叔父上はどこにいる?」
冷静に問わねばならない。
バジリスタの王子ズファイは、アイザック・レン・カーネルはバジリスタに亡命したと言っていたが。
――そしてズファイは、エンドリアに攻め入った。
流れ行く――いいや、流れ来た、この道。
「単刀直入に聞く。黒き竜を生み出したのはそなたか」
ハーランドを脅かす、竜の存在。
それそのものがすでに。
バジリスタの、そして、この男が放った最初の矢ならば。
偶発に生まれたわけがない。
――笑った。闇が空を揺るがして。恐ろしい音、光景。この世の物とは思えない現実。
心臓が凍るようだ。足元を這い上ってくる、恐怖。
「そうじゃ、と言いたいが。そうではないとも言える」
「――」
「わしは少し手を貸しただけ。本質最初にこれを始めたのは、わしではない」
マルコが震えながら、
「竜を最初に生み出さんとしたのは、」
ギル・ティモは枢機卿とつながっていた。
そしてマルコの両親は教会によって処刑された。
――なぜ? 何のために?
「おとぎ話を知ってるか?」
竜の血を浴びた者は――。
ドクンと。
オヴェリアの心臓が跳ねた。
そしてマルコの声が。
「父さんの、」
研究。
竜復活の研究。
ある日突然マルコの両親は、異端とされて。蟲を生み出したという、あらぬ嫌疑をかけられて。
「父さんの、研究を」
使って。
この竜は。
こんな所で。
――黒い渦がニヤリと笑った。マルコ目がけて。
「まさか、」
デュランがその笑みからマルコを守るように立ち位置を変える。
「教会がしでかした事か」
キヒヒヒヒ……………
悪魔の笑みは、それはそれは嬉しそうに声を弾ませ、「いかにも」と答えた。
――絶対が、闇を生む。
悲しむべきではない。
これはただの、通過儀式である。
鴉が空に溶けて行く。
黒から紺に、そして青へと色を変えて。
その空に消えて。
天空に闇が消えて間もなく、側方から笑い声が起こった。
4人が向ける視線の先、岩場に座り込む黒い影があった。
魔導士ギル・ティモ。
目深にかぶったフードの下に、さっきまで空にあった異質な笑いが張り付いていた。
「竜を作り出したのは、神の理 を説く者。況 や、教会」
オヴェリアは歯を食いしばる。ギル・ティモはどこか遠い口調で語っていく。
「教会、とくくってしまっては異となるか。始めたのは一部上層部……彼奴 らは竜の再誕を願った。都合のいい事に、手の内には竜の研究をする者もおったゆえに」
ビル・アールグレイとアンナ・アールグレイ。
「彼奴らの研究を元に始めた、言わば博打。だが失策は1つ。口を割らせる前に処刑した事じゃな」
「――」
枢機卿はマルコに執拗に問うた。やぐら見の術≠ニいう禁忌の技を使い心の中を覗いてまで。
得ようとした、情報。
竜を蘇らせるために。
――欠片を組み合わせて。導き出されていく答えは。
「教会は、竜を、その手のみで生み出す事はできなかった」
だから。
ギル・ティモは笑う。
――暗黒魔術。
――竜の心臓、碧の焔石。
――割れば石から炎が蘇る。
――石を求める者。
――町から姿を消した人々。
――異形の存在。
――鴉の躯。死者の兵。
――川は海へと流れて行く。
――海の向こうには?
――兵士の町に人はおらず。
――大量の臓器を入れた、空飛ぶ化け物。
――生を諦めた人々を集めて?
――餌。
――「必要ならば、亡骸だけ墓場へ」
――腹の中には大地があった。
――そして、竜は。
だから、竜は。
ギル・ティモは言霊を解く。
「Y =v
――БЭто отЁкрыЁвается
震動が。
「オヴェリア」
カーキッドが支える。
デュランが、マルコが。
地面を揺さぶる音と。
大地の絶え間ない鼓動。
絶望。
上下。
左右。
立体と平面。
近接と彼方。
もう一度だけ、その視線を空へ辿り。
地の底へと延びる崖をふり仰げば。
――さっきまで覆っていた空の闇。それよりも深い色の。
盛り上がってくる、黒の。
遥か遥か、頭上高く。
別の意味で、空を覆うほどの巨体を持った、
信じられぬほどの、物体。
かつて見た、どの異形よりも巨大で。
圧巻。
生命が揺れている。根底から覆 される。
足元がぐらつくのは震え。
ああ、これが。オヴェリアは思いながら。
胸をこみ上げる嗚咽。
「竜」
――この日、この時を目指して旅をした。
ついにまみえた、
これぞ、黒き竜。
そは、黒き翼を背負いし、
伝説の、存在也。