『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第49章 「私たちが行く道は、」 −3−
「何もございませんが……」
「本当に何もねぇな」
その場にいた全員が、男の言葉に絶句する。むしろオヴェリア達は凍り付いた。
「カーキッド!!」
「……いえ、誠にその通りでございます。このような所に姫様をお招きしようなど、本当はお恥ずかしい限りなのですが……」
「いいえ、助かります!」
オヴェリア達に睨みつけられ、カーキッドは黙り込む。
「しかし……あなた方は一体……」
デュランに尋ねられ、改めて男と女は膝をついた。
「あの時は本当にありがとうございました……オヴェリア姫様、そしてカーキッド様」
ん? とやっとカーキッドの顔が変わる。
「あんたら、誰だ」
「我々は……」
そう言って男と女は一度顔を見合わせた。
「……奴隷商人によって連れられている所を、姫様に助けられました」
奴隷……一瞬考えたオヴェリアであったが。
「まさか、」
人買いの馬車。
旅の中、遭遇した事がある。
「お前ら、あの時の奴らか!」
2人が無言で頷いた。
「……奴隷商人に連れられ、もうこの身は終わりと思っていました。そんな時あなた方が現れ、我々は救われた」
男が、数珠を繋ぐようにポツリポツリと言葉を紡いでいく。
「救われてしまった……自由になってしまった……、あの後我らは途方に暮れました。あなたは生きよと申された。諦めるなと。しかし我らにはその言葉は眩しすぎました」
今さら生き方などわからないと、男は呟いた。
「私達は、あてもなく彷徨いました。あの時姫様に救われたのは何人だったのでしょうな、数える気力もなかった。ただ彷徨う中で、少しずつ人は減って行きました。去った者がどこへ行ったかはわかりません。誰も何も言わず、そして何も聞かなかった。生き方を見つけたか、それとも死に方を見つけたか……我々にはわからない」
生きる事とは、ただ、息をするだけの事ではない。
「最後に残ったのは10人ばかり。皆、国境を超えると言いました。バジリスタか、海を渡るか……とにかくハーランドを出ると。我らもそのつもりでおりましたが」
そこで、男の目に光が浮かんだ。
「私は知ってしまった」
「……」
「あなたが……あの時の剣士が、姫様だったと……」
――男がその事実を知ったのは、偶然。
「ハーランドで4年に1度開催される薔薇の祭り……そして武術大会。我々のような者たちでもその話くらいは知っております。その場には王様もみえ、試合の様子をご覧になる……それはどんなものなのか、想像もできませんが」
オヴェリアは小さく息を呑んだ。
「この度、その大会で優勝されたのは、この国の姫様だったと。そしてそのお姫様は白薔薇の剣を持って、ハーランドを旅していると……悪しき竜を討ち果たすために、この国を救うために」
「……」
「あの時我らを救ってくれたのは、白い薔薇の剣を持った女性……まさかあれは姫様だったのかと。姫様は諸国を漫遊しているという噂も聞きました。もしもあの方が本当に姫様だったら……]
好きで漫遊していたわけじゃねぇと呟いたカーキッドを、デュランとマルコが睨んで止める。
「我らは姫様に救われた。この命を救ってくださったのは、姫様。だとしたら、ハーランドを出る事はできません」
隣の女性も言った。
「ハーランドを捨てられない……他の誰がそう望んだとしても、私たちは……この国に残る事に決めました」
嗚呼、とオヴェリアは思った。
「我々は姫様に生かされた……この命は本来ならばもうなかった物。ならば何ができるのか、長らえたこの身で一体何ができるのか……無論、我らに大それた事はできません。しかしこの国に居ようと。そして居たいと」
泣きたいと思った。
「やり直すなら、ここでやり直したい」
生きるなら、ここで生きたい。
他じゃない。
ここに生まれた。
ここに命を受けた。
ならば。
ここで戦わなければいけない。
切り開く道が、……咲かせる花があるならば。
ここで、咲きたい。
「我らはこの国でやり直すと決めたのです」
――ハーランドを守りたい。人々を守りたい、皆を守りたい……そのオヴェリアの想いが、今、逆に彼女の言葉を失わせた。
絞り出せるのはたった一言。
「……ありがとう」
「いえ、礼を言わなければならないのは、」
「……この国に、いてくれて……」
「……」
「……」
「……飯だ」
「……そうですな。泊めていただくからには、できる限りの事をさせていただきましょう。炊事場はあそこですな」
「とんでもございません! どうぞこちらにてお寛 ぎくださいませ」
「マルコっ! 買い出し行くぞ!」
「あ、はい!!」
「では私は先に仕込みに入りましょう」
仲間たちが笑顔で空気を彩って行く。
その様にオヴェリアは笑った。俯いていてはいけないのだ。
ここで戦うと決めた人たちを前にして。
感謝の念以上に、本当に言わなければいけない言葉は。
「私も手伝います」
「滅相もないっ!」
――共に行こうと。
笑う事。
……晩餐 は、あり得ないほどにぎやかなものだった。
「この家あんたが作ったのか? すげぇな」
「元々は父親を手伝って大工をやっていたんです。まさかもう一度その技が活 かせる日がくるなんて」
「で、お二人は夫婦 に? 良いですなあ」
「出会いが奴隷商人の馬車って、それ微妙だろ」
「良いのです良いのです。どのような形であれど、人の出会いは素晴らしい」
市場で仕入れた食材で、床いっぱいに料理を並べて。
酒もこぼれるくらいに注 いで注 いでを繰り返し。
少女の隣でマルコは固まっていたが、いつしか彼らも照れたように話始めた。
カーキッドとデュランが取っ組み合いの喧嘩を始めれば、男が慌てて仲裁に入る。
女の手伝いをして料理を並べるオヴェリアは、それを嬉しそうに眺め続けた。
◇
「マルコ、おい起きろ」
「……ムニャ……」
「……仕方のない奴だ」
マルコと少女が仲良く寝息を立てている。デュランが苦笑を浮かべながら二人を抱き上げ、部屋の隅に寝かせてやる。
彼はしばらく2人の寝顔を眺めていたが、
「そう言えばカーキッドは?」
後片付けを手伝っていたオヴェリアも辺りを見回す。
「煙草を吸いに行くと言って、さっき外へ」
「煙草は止 めるような事を言っておったのに。意志の弱い奴だ」
ブツブツと呟くデュランに、オヴェリアは思わず笑った。
「どうかされましたか?」
「いえ、何だかね」
「……?」
「カーキッドの様子を見てまいります。少しお願いできますか?」
花のように笑うオヴェリアに逆う理由はない。デュランもまた微笑み送り出した。
クスクスと、笑いがこみ上げてくる。必死に耐えたが、庭先で煙草を吸っていたカーキッドの元にたどり着いた時にはもう限界だった。
「? どうした」
笑いながらやってきた姫君に、カーキッドはギョッとした。
「うん、大丈夫、あはっ」
「……おかしなもんでも食ったのか」
不気味そうに見つめるカーキッドの視線は知らず、涙まで出して笑うオヴェリアは、ついにはカーキッドの腕に掴まって笑いを鎮めた。
「うん……だってね、本当にね」
「あん?」
「変な事考えちゃったの。家族みたいって」
「家族……?」
カーキッドの腕に掴まったまま、オヴェリアは息苦しそうに言った。
「もし私たちが家族だったらって。私がいて、マルコが私の弟。カーキッドがお父さん、……そしたらデュラン様はお母さんなのかしら? でも意外とカーキッドは面倒見がいいから、お母さんの方かしらって」
「……何で俺がお母さんだ」
カーキッドは唖然とした。
「この国は終わりだな。姫様がおかしな妄想して、一人で笑うようになってやがる」
「だって、カーキッドは考えた事ない?」
「全く考えねぇ」
吹かしかけの煙草を改めて咥え、明後日を向く。
「俺はそんなに暇じゃねぇからな」
「じゃあ、どういう事考えるの?」
「……明日の飯はどうしよう、とか」
「やっぱりお母さんね」
「ていうか、お前、一般庶民の家族構成なんて知らんだろう?」
「本で読んだ事があるし」
それに、とオヴェリアは言った。
「この旅で、見てきたから」
「……」
「もし私達、本当に家族だったら……なんてね」
カーキッドは明後日を見たまま目を伏せた。
「俺がお前の兄貴か? ……嫌だな、そりゃ」
「兄貴……お兄さん、か……」
笑いの衝動が止んだオヴェリアは、ふと空に目を向けた。星座の種類はわからない。でも星は一つ一つに物語を持っている。
まるで自分たちと同じように。
「もし私に兄か弟がいたら……」
どうなっていたのだろうかと、ふと思う。
父の下に、王位を継承する男子がいたら。
「剣なんて、振り回してなかったのかしらね」
父と母を思って剣を持ち、竜を倒しに行くような事。
……そうだったらと気づく。旅に出る事などなかった。こんなふうに外の世界を歩くような事もなかった。
――カーキッド達に会う事もなかった。
一つ大きく煙を吐いて、今度はカーキッドが笑った。
「変わらんだろうさ」
「え?」
「男兄弟がいようと、お前は剣を振り回していた気がする」
「……」
「じっとしてる性分じゃねぇだろ。例え剣を男兄弟に取られちまっても、お前の事だ、体術でも学んで拳一つで竜を倒すとでも言い出したんじゃねぇか?」
ハハハと笑うカーキッドに、オヴェリアは頬を膨らませた。
「そんな無謀な事しません」
「いや、お前、今までだって十分無謀な事してきただろ」
女の身でこの国の兵士たちに立ち向かい、すべてを倒し得た1本の剣を持って。
竜を倒す旅に出た。
「本当に、お前は」
夜目にはわかりにくいが、呆れたように言うカーキッドの目尻は優しく垂れていた。
「男にも真似できねぇよ。男以上だ」
「……褒め言葉と取っていいのですか」
「判断は任せる」
冷える。体が寒さに震え出す。
でも寒さとは違うものに気持ちが惹きつけられる。
見上げるのは、男の横顔。
……声。
「明日装備品を整えて、向かう」
「……」
「本当に、いいんだな?」
「……」
待ち受けているのは明らかなほどの危険。
しかし、行かなければならない。
「それ、いつも言ってる」
「……そうか?」
「ええ」
「……何かあっても、自分で身を守れよ」
聞き慣れたその言葉は、しかし含まれている本当の色に、オヴェリアは今さらながら気づく。
――守るなんて、言える男じゃないのだ。
命に代えてもお前を守るなんて、そんな事を簡単に言えてしまう男ではないのだ。
この男がどれほど不器用で、見た目よりもずっと周りに気を配っているのか。
もうオヴェリアは、誰に教えられなくても知っている……目の前にいる男の事を。
「……カーキッド、」
「あん?」
「…………何でもないです」
「あんだよ」
今ここで吐露できる気持ちは多くはない。
オヴェリアが抱えた思い。
――無数の選択肢の中で選んだ、今ここにいる自分。
「……私たちが来た道は」
ポツリと喉から零 れ落ちた言葉に。
カーキッドはチラと視線だけ流して彼女を見た。
「誰かの……」
この背は誰かに、何かを語っているのだろうか?
カーキッドの背中を追いかけて、旅に出た。
それは圧倒的な背中だった。王である父によく似た背中。
人を守るという事。誰かを支えるという事。
それは、わざわざ口にする事じゃない。
その身を盾にして守られた。
何も言わずとも自分は様々な背中に守られてきたのだ。
剣術では秀でた。でも本当は違う。
薔薇の試合から今日まで……オヴェリアが知ったのは自分の強さではなかった。弱さを知った。何も知らない、何もわからない。
生き方とか。
世界とか。
息を吸う事という事さえも。
強がっても強がっても、本当の意味で前に進めたのは、傍に誰かがいてくれたから。
今思えば、あの旅立ちは無謀。
そして、1人ではたどり着けなかった道があった。世界があった。光景があった。
1人では見えなかった。
一緒に見た人がいた。歩いてくれた人がいた。
その背があったから、自分はどんなに苦しく困難で、どうしようもない絶望の瞬間も。
闇の中に沈む寸前でさえも、引き上げられて、……守られてきたのだ。
口にする事じゃない。
……本当に守るとは、そういう事。
「……」
「……何で今度は泣いてんだ」
「泣いてなどいません」
「嘘つけ。忙しい奴だな」
「泣いてないって言ってるでしょう」
――自分の背は、誰かに何かを語れているか?
語れるような背中じゃない。人に語れるような生き方をしてはいない。
でも、
……誰かを守れる、背中であれるか?
「私たちが来た道は、」
もう一度言った。
「誰かの……何かの、意味を持つかな……」
伝えたい気持ちと、選びたい言葉が合致しない。
でもカーキッドはふっと息を吐いた。
「さあな」
「……」
「人のために生きる、それ以上に」
「……」
「自分のために生きる。意味なんざ知らねぇ」
「……あなたらしい」
――私たちがこれから行く道は、
この先、何の意味を持ち。
……持たないままに、終わるのか……。
――この命は、
「……花」
「あん?」
「花、ついたまま」
カーキッドの頭には、昼間オヴェリアが飾ったままに花がついていた。
微笑みながら、オヴェリアはそっと手を伸ばした。
髪に触れる。何か言われるかと思ったが、カーキッドは何も言わなかった。
ただされるまま、オヴェリアの指を許して。
瞬きすら忘れたように、彼女を見ていた。
夜空のようなカーキッドの髪。
こんなに長く時間を過ごしたのに、初めて触れる、彼の髪は。
指の中で緩やかに滑って、絡ませた所から逃げて行く。
花がポトリと流れ落ちた。あ、と思ったその瞬間。
触れてしまったのは、彼の頬。
肌。
……唇に。
触ってしまった事に自分で驚いて、オヴェリアは逃げようとしたが。
逃げられなかったのは、
引き寄せられたから。
――異国で鬼神と呼ばれた男の口づけは、あり得ないほど優しくて。
……温かくて。
思わず掴んだ虚空の空気が、柔 く、指の中で溶けて行った。