『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

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 第51章  深淵 −1−

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 やがて夜はやってくる。
 微塵も足音を立てる事もなく。
 忍び寄るというのは人の表現。
 夜はただ、去りゆく光を惜しんで手を伸ばし。
 抱きしめたい――それだけなのかもしれない。


  51


「……行くぞ」
 すべての人間が完全に寝静まる時間などないのだろう……そう思いながらオヴェリアは部屋を出た。
 後ろ手にカーキッドは音を立てずに扉を閉める。
 日付が変わって間もなくである。
 2人はゆっくりと回廊の隅を歩いていたが、早々に脇へと逸れた。見通しのいい回廊は目につく。
 目的地は中庭。
 地図は事前にデュランに渡されている。
 2人は変装を解いていなかった。念のため、誰かに会った時は洗面所を探していると言うつもりであった。
 今回の変装に使った荷物は置いてきた。どれも一時的に揃えたに過ぎない。
 最低限の装備と、剣のみ。
 これまで持ってきた荷物は、近くの森に隠してある。すべてが終わったらそこに向かう手筈てはずだ。
 荷物も人数もできる限り絞った。それが、今回の作戦。
 そしていよいよ向かうのは、禁断の魔術書があるという場所。
 ――地下の書庫……。
 階段を下りて行く。踊り場から兵士の姿を見掛け、慌てて2人は戻る。
 夜間の見回りに関しては事前から危惧していたが。
 カーキッドが無言でオヴェリアに言う。ぶちのめすか? という事である。無論オヴェリアは首を縦には振らなかった。
 できる限りこの地の平穏は守りたい。それがオヴェリアの願いであった。
 それに、手筈通りならば道は作られている。
 兵士をやり過ごし、階段を下りてすぐの部屋に入る。来客用の応接室である。昼間オヴェリア達も訪れた場所だ。
 窓がある。そっと手をあてると、施錠はされていなかった。
 そこから中庭に出るのだが、すぐの所に兵士が立っている。
 一瞬2人は迷ったが、間もなく、兵士はガクリと壁にもたれかかった。
 倒れそうになった兵士を支えたのは、長身の修道女。
 デュランだ。彼が手で合図をする。オヴェリアとカーキッドは急ぎ中庭に出た。
「デュラン様、マルコ――」
 再会を喜ぶオヴェリアを制し、デュランは先へと促した。大きめの法衣を着たマルコも嬉しそうに笑った。
 今宵は半月である。
 朔の夜ほど光に乏しくはない。そして各地には松明が焚かれている。
 しかし慣れた様子でデュランは闇を選び、スルリと植え込みの隅から建物の中へと入った。
 大聖堂だ。
 昼間見た光景を思い出し感慨にふける間もなく、デュランは腰をかがめて祭壇の中へと手を入れる。
 取っ手を引くような作業の末、どこかでカチリと音が鳴った。
 後は時間が惜しいと言わんばかりに、入ってきた反対側にある扉へと向かう。その扉の向こうへ行くかと思ったが、彼が手を伸ばしたのはその隣にあった天使の彫刻。
 羽根にそっと触れる。
 羽根の隙間から何かを引き抜き、扉の隣の壁に手を当てた。
 彼が何かすると――壁に、人が通れるだけの穴が開いた。
「中へ」
 促され入ると、完全に閉め切る。
「……ここは……」
 辺りは一面の闇だ。何も見えない。
 すぐにデュランは手元のランタンに火を灯した。
「地下通路への抜け道です。……オヴェリア様、ご無事で何より」
「デュラン様も」
 ランタンの光に、長身の修道女の笑みは怪しいほどに美しかった。
 オヴェリアは目を輝かせたが、逆に嫌そうな顔をしたのはカーキッドとマルコであった。
「オヴェリア様」
 マルコは、なぜだか泣きそうな様子でオヴェリアにしがみついた。
「どうしたの?」
「あのっ、僕っ……」
 マルコは言いよどみ、結局言葉を飲み込んだ。まさか言えなかった、女装したデュランにドキドキしてしまったなどと……自分は少しおかしくなってしまったかもしれないなどとは。
「参りましょう。問題はこの先です」
 デュランに導かれ、闇の奥へと進む。
 教会の地下には、様々な部屋がある――事前にデュランから聞いていた。
 その入り口は様々あるが、一つは大聖堂からの入口。
 地下室には主に研究者の部屋が。研究用の材料や書物も眠っている。
 だが彼らが目指しているのはそこではない。もう一つ奥にある部屋。
「このまま北へ抜けます」
 総主教庁には、風の塔と呼ばれる所がある。立地としては北側。高い塔の脇に1つだけある孤立した場所だ。
 その特異は、表からの入口が一切ない事。塔の上から下までどこを探しても、窓1つ存在しない。
 監獄塔とも呼べる外観。入口は唯一、地下からのみ。
 禁断の書物はそこにあるとデュランは言った。ただし、完全な確証があるというわけではなかった。
 だが同時に彼は言った。易々と人の手が届く所に置いてあるとは思えないと。それだけの書物なのだ。
「マルコ」
 デュランがそっとマルコの耳元で名を呼ぶ。道の先に兵士が立っている。
 マルコは一瞬ギクリとしたがが、虚空に小さな円を描き始めた。
「我ここに魂を刻む」
 幾つか言葉を刻み込み、最後に、少年はピンと円の中を指で弾くような動作をした。
 すると、円の先にいた兵士がゴトリと膝を折った。眠ってしまったのだ。
「行きましょう」
 いつの間にこんな技を――オヴェリアは感嘆の思いで少年を見た。
 その先には扉が一つあった。
 鍵穴に、デュランは先ほど天使の羽根の中から取り出した何かを差し込んだ。
「さて、開いてくれるかどうか」
 ……しばし時間がかかる。
「……やはり無理か」
 そう言って今度は、懐からピンのような物を取り出した。
「こちらなら、」
 言い終わらないうちに、扉は音を立てて開いた。
 さっと入り、また施錠し直す。
 すぐにまた扉があったが、これもまたデュランがピンで開いた。
「……お前、廃業しても泥棒としてやっていけるんじゃねぇか?」
「え、今の開錠はそういう技だったのですか?」
 驚いて振り返ったオヴェリアに、デュランは修道服の頭巾を脱ぎながら笑った。
「こんなの、神父のたしなみの一つです」
 それに、最近では義賊としての盗賊もいるのですよと説明する神父は、いつものデュランその人だった。
「やれやれ。まずは侵入成功という事で」
「ここか、例の地下書庫ってのは」
 頷き、デュランが先を促した。
「鍵が開くかが心配だったのですが、とりあえずよかった」
 辺りは一層冷え切っている。
 ここまでくるともう、完全に人の気配はない。
「さて。我々と合流するまでの間、大丈夫でしたか? 誰かに気取られるような事は?」
「実は先ほど、枢機卿を見掛けたのです」
 オヴェリアの言葉にデュランは目を見開く。
「ドルターナ卿ですか。正体がばれたという事は?」
「多分大丈夫です。すれ違う事もありませんでした」
「左様でございましたか……それは危険でしたな。実は我々も、思わぬ人物を見掛けた次第」
「え?」
「アズハです」
 アズハ――その名にオヴェリアは立ち止まる。
 刺客の少女。何度も命を狙われてきた。
 その名を知ったのはつい先日。最後に会った折だ。
「幸い、事なきを得ましたが……随分堂々と、慣れた様子で敷地内を歩いておりました。いつから大教会ここは暗殺者を囲うようになったのやら」
 悲しい限りです、と言ってデュランは首を横に振る。
「どうにもきな臭いですな。やはりここは危険」
 ドルターナがいて、アズハがいる。
 オヴェリアはじっと考え込んだ。
 その様子をカーキッドはじっと見つめた。すると不意にデュランに小突かれた。
「で? 祝福は受けたのか?」
「……あ?」
「お前、その眼鏡とカツラ似合ってる。その方が親しみやすいな、何回か受験に失敗した者のようで」
「……」
 即座にカーキッドは茶髪を脱ぎ捨てた。眼鏡は踏みつけようとしたが、一応胸のポケットに引っ掛ける。
「さて、あの扉だ」
 地下の奥、さらに地下にある書庫。
 扉に鍵はかかっていなかった。
「私も実際に来るのは初めてです」
 中に入ると、一見物置のようであった。木箱がたくさん積まれている。
「こちらか」
 その間をすり抜けていくと、やがて、凛然と立ち並ぶ本棚に巡り合った。
「何だこりゃ」
 カーキッドが声を上げるのも無理はない。その本はまるで銀の樹木のようだった。
 石でできている何本もの棚は高く伸び、一番上まで手は到底届かない。
 火を灯していないにも関わらず、辺りはうっすら青の光に包まれている。これは魔術の力なのか。
 光を石が反響して、別の石を青く光らせている。本棚それ自体がランプのように、辺りは不思議な光で満ちていた。
 城門をくぐって最初に見た光景をオヴェリアは白の世界だと思った。池の向こうにある大聖堂、白の空にこそ映える静寂の世界。
 そして今ここはその白をも超えた青の世界……神秘だと思った。
「ラピスラズリの原石を削り出し、少々魔道で色を染めているようですな。生来この石は、邪気を払う石とされています、外からも、そして内に潜む邪よこしまな物も。魔除けと共に、魔術者の間では力の増強としても使われております」
 書棚に触れ、デュランは天井を仰ぎ見た。高く高く伸びている。塔の一番上までとは思えないが、そう思えるくらいの高みだった。
「すげぇな、字ばっか」
 中の本を取り出し、げんなり顔で見るカーキッド。
 対しマルコは興味津々の様子だったが、難しくて読めない様子だった。
「ここにはどういう書があるのですか?」
 グルリと一望するオヴェリアに、デュランは頷いて答えた。
「この世に生まれた、あらゆる書の原本とでも言うべきでしょうか……現存する様々な書籍……私もはっきりはわかりません。創世の記録、預言書……かつて起こった戦争以前にあった書物もあるのでしょう。サンクトゥマリアが鎮めたと言われた戦争……世に禁忌の魔術が溢れ、収拾がつかなくなったあの時代。それ以前のはっきりした記録は表には出ていません。残っていない≠ニ我々は言います。だが実際には、ここに静かに眠っている」
 その件ですが……とオヴェリアはデュランに問おうとした。
 だがそれより先に、彼は書棚の奥に石の箱を見つけた。
 青の光を放つ石箱。錠が掛けられている。
 それを解き開くと。
「……」
 デュランは、何とも言えない顔をした。
 泣きそうなくらい切なく。
 そして…………歪むほどの情が。
「ここに」
 詰まらせる前に、言葉をどうにか押し出す。
「これが……訳書です」
 悪魔との契約で成すという禁断の魔術。
 その書はそこに、身を潜めるように静かに存在していた。

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