『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の物語−
第57章 死して泣け −3−
ああ、どうしてなのだろうかと思う。
まっすぐ歩いているつもりなのだ。間違っていないと信じているのだ。
だが知らぬうちに思いもしない道を歩いて、気づいた時には帰れなくなっている。
歩きたかった道は、もう遠く遥か彼方で。
なぜこれほどまでにかけ離れてしまったのかと膝をついても嘆いても、答えはどこからも返ってこない。
「蟲の事、無関係ではないと言ったが……あれは嘘だ、本当は、私が」
「フレイド殿……」
「教皇様の病の事、そして願い……」
呟いてから、フレイドは小さく頭かぶりを横に振った。
「……すべては、私欲だ。抑えられなかった、私自身が招いた事」
ゆっくりと岩場から立ち上がる。顔を上げた老人はデュランを見る事もなく言葉をつなげていく。
「デュラン・フランシス――ラッセル・ファーネリアの遺志を受け継ぐ者」
体を預けていた杖が、地面から離れる。
ゆっくりと持ち上げる――動きは、まるで生き物が首を持ち上げるようでもあり、目を覚ましていく過程のようでもあり。
「……これも宿縁か……」
その後の言葉は風に飲まれた。
樹々が大地の息吹を吸い込むような感覚だった。
やがてその場に再びの沈黙が落ちた時、フレイドはデュランに杖を向けていた。
そしてデュランもまた老人に向かって腕を伸ばす。
腕と腕、視線と視線。フレイドとデュランの間に直線が生まれる。
「……フレイド殿、」
沈黙は、時に何よりも深い凶器となって。
「撃て、デュラン・フランシス」
デュランの顔に苦渋を浮かび上がらせる。
「……撃ってくれ」
一層強く。
瞬きもしない老人は、今、絶望の淵に立っている。
それが見えるのは、同時に、デュランが同じ場所に立っているから。
わかるのだ、老人が抱える悲しみも絶望も。
「……撃てません」
「撃て」
「フレイド殿……」
この老人を、デュランは恨んだ事があった。
教会の双璧だった西の賢者と水の賢者。
だが結果として生き残ったのはたった一人。西の賢者は水の賢者の弟子であった者に殺された。
なぜ師が死ななければならなかった?
凶刃はさらに残酷な形で、デュランの大切な者をも奪い去った。
水の賢者を恨む道理はない。それでも……闇に囚われたデュランは思った事がある。なぜなのかと。なぜ、ギル・ティモは水の賢者ではなく西の賢者を殺したのかと。どうして師は殺されなければならなかったのかと。
だがその想いは消した。否、いつしか消えて行った。
ギル・ティモに対する憎しみは変わらない。だがそれ以上に。
復讐以外の事――もっと違う想いで魔導師を追いかけるようになった時から。
自分のためだけではなく、もっと大きなもののために。
もっと大切な事のために。
この命が尽き果てるまでに果たしたい事が、復讐ではなく、……守りたいと思った時から。
自分ではない何かを守る。
自分以上に大切なものを見つける。
そのために命を使いたいと思った。その瞬間から。
おかしな事だ、恨みも憎しみも、少し溶けた。
あれほど胸を焦がしていた業火が、今は違う熱で胸を焼いている。
「杖を下ろしてください、フレイド殿」
それが決意なのだ。
その炎こそが、デュランの命の灯ともしびなのだ。
その炎でもって戦う場所は、ここではない。
デュランが向けているのは護符ではない、手だ。
「殺してくれ……」
やがて老人は膝を折って崩れ落ちた。
「……頼むから、殺してくれ……」
どうかここで――大地にめり込んでいくかのようなその呻き声に。
「先生……」
答えたのは、マルコだった。
デュランとフレイドの姿を茫然と見ていた少年は、やがて震えるように一歩踏み出した。
師の元へ。
足音に、フレイドが嫌がるように一瞬首を横に震わせる。
来るなと、全身が言っていた。
だが食いしばる歯が言葉を許さなかった。
殺してくれと願う老人は、だが魂が抜け出るのを拒むかのように、ひたすら歯を食いしばっていた。
「先生……」
やがて老人の元へたどり着いた少年は、一瞬凍ったように立ち尽くした後に。
小さくなった老人を、包むように抱き締めた。
マルコには、フレイドの話はわからない。
本当を言えば、よくわからない。
父の研究を盗んだのと言った、そして結果的に父と母は謀略にはめられて亡くなったのだと。
何もわからない、何もかも――フレイドの後悔、懺悔……父と母の想い……。
こみ上げる怒りがある、悲しみがある――でもそれ以上に。
マルコの脳裏に浮かぶのだ。初めて老人に会ったあの日の事が。
雨の中。
焼け焦げた町にたった1人ずぶ濡れで座り込んで。
生の感覚も死の感覚も何もないのに、寒いとだけ思ったあの時。
気が付いた時、少年は抱き締められていた。
あの温もりと。
一緒に行こう、と繋いでくれた手の温もり。
その温もりが過るのだ。
その温もりがあるからこそ、マルコはフレイドを、例え何があろうとも。
「……先生」
母が残した手紙は、マルコの胸を刺した。
母はフレイドを恨んでいた――それは絶望的な事実だった。
フレイドとどう対面したらいいのかわからなくなった。
だが、こうして今膝をついた老人を見て思うのだ。抱き締めて思うのだ。
それでも師なのだと。
この人は自分の師だ。そしてかけがえのない家族なのだ。
もう誰もいない。父も母も残っていない。
血の繋がりがあるわけでもない、それでもマルコにとってフレイドは、帰る場所であり、絶対的な。
……唯一の人なのだ。
マルコは何かに向かって謝る。ごめんなさい、ごめんなさいと。
「先生……」
マルコの心に愛しさと怒りが同時に交差する。わけもわからずマルコは泣きそうになった。だがその涙を必死に堪える。
ずっと守られてきた存在――マルコは初めて思った。
それでも自分はこの人を守りたいと。
「……大丈夫です」
小さな腕が物を言う。
まだ両腕では抱えきれない師を前にして、それでも少年は思う。
……師は泣いた。
少年にすがりつくようにして、その場に泣いた。
◇ ◇ ◇
花であれと、誰が言うたか。
特別な花でなくてもいい、野にそよぐ小さな花でいい。
生涯叫ぶ事なくても、歌う事すら知らずとも。
その色が誰かの心を溶かすのならば。
踏まれても踏まれても、咲く。どこまでも、咲こう。
そしていつか散り落ちてしまったとしても、それでも私は花なのだと。
大地に還るその瞬間まで、胸を張っていられるような。
そんな花であれと――。
「……ガリオス、でしたな」
樹々が覆う、天に光は遠い。
「オヴェリア様を助けに行かれると」
樹々を抜けた光は大地に落ちる前に、空気の中にさらわれ去りゆく。
三つ数えるより先に、それより長い沈黙と、息遣いが長く揺らいだ。
「……ガリオスの結界を解く方法は易い」
だが、と言葉を落とし、かつて賢者と呼ばれた老人はゆっくりと顔を上げた。
「私も共に行こう」
そしてデュランとマルコをじっと見つめる。
「連れて行って欲しい」
無論、とデュランは頷いた。
「願う所でございます」
老人が巨木を前に膝をつき、祈るように目を閉じる。
その背中を見ながら、デュランはマルコの肩に手を当てた。
マルコは何も言わずに頷いた。
少年の肩が震えている事には、気づかない振りをする。
「行こう」
オヴェリアの元へ。
「はい」
デュランはチラと少年を見下ろす。たった数か月の間に随分と大人びたように思える。確かに少年は、出会った頃の弱々しい子供ではない。
やがて振り仰いだ少年と目が合い、デュランは微笑みながらそっと視線を外した。
いつか……とデュランは思った。
いつかこの少年が逞しい男となった時。
「……カーキッドが待っている」
共に酒を飲みかわす事ができたならば。
「そうですね……急がなきゃ」
自分はなんと言うだろうか?
何が伝えられるのだろう? この少年に……その瞬間に贈れる言葉がもしあるとしたならば。
――悔やむ前に走れ。
悲しむ前にもがけ。
愛しさに迷うな。
弱さに歯を食いしばれ。
どんな瞬間も、たとえ目が開かなくなろうとも、声が出なくなろうとも。
言いたい言葉が言えなくとも。
聞きたい言葉が聞こえなくなっても。
心が動く限り。
何かを求める限り。
涙をこぼすな、泣くならば、
――死して泣け。
最終最後の瞬間まで、お前の生き様を、この世界に叩きつけろ。
「急ぐぞ」
……そんな事しか言えない自分に、デュランはそっと苦笑を浮かべる。
そして3人は森を発つ。
目指すは北。白が占める世界に再び。
デュランの脳裏に浮かぶのは、一人残った少女の姿と。
……男の背中。
待っていろ、と思う。切に願う。
今行く、だから動くな――カーキッド、と。
まだ雪が微塵も積もらぬこの地で。
だが風の中にデュランは凍えの気配を感じた。
それが悪寒と言うのかはわからなかった。
それよりもただ、走りたかった。
目に映る広大な景色は、一層視界に留まらない。
今こそ天を駆ける事ができたらいいのに――何を呪うか、唯一、この背に黒でも翼がない事のみである。