ヒマラヤトレッキング               城野 加寿子

ちょっぴりの不安を乗せて上海経由カトマンドゥ行の飛行機は夕暮れのネパールに到着した。空港からすでに、異国。
いよいよ妹と二人の「トレッキング」ツアー第一歩の思いを新たにした。

翌日現地旅行社へ出向いた。そこで私たちの旅ガイドをしてくれるMr.ジッド(グルン族で英語も日本語も上手)と日程の最終確認をし、費用を払ったり、国立公園入園許可証をもらったりの手続きを済ませた。

明日の朝食用の水、リンゴ、パンなどの買い物を楽しみながらチベットカフエ(日本の汚いラーメン屋みたいなところ)で、現地の食事も体験してみた。たっぷりお腹を満たして、一人150円、ちなみに食べたものは、もも(水餃子みたいなもの、揚げたものもある)、チョウメン(焼きそばみたいなもの)、スープ、ティー。

妹は昨年、エレベストとアンナプルナと二つのエリアを40日間トレッキングした経験を持つ山登りの達人だ。今回の旅も彼女のアドバイスに従うことが大半であった。準備万端、整えて早めにベッドに入った。

 11月2日(1日目)いよいよ、トレッキングの始まり。私たちはヒマラヤトレッキングルート(9ルートある)の中から、世界で最も美しい谷の一つとして知られるランタンルートを選んだ。カトマンドゥから北へ30キロメートル、少し先はチベット(中国)だ。谷の両側には6000m以上の峰々が聳え立ちタマン族が村を作って住んでいる。数は少ないが可憐な花を見ることが出来た。驚いたことに桜の花が満開で濃い八重桜が誇らしげに咲いていた。

 カトマンドゥ(標高1300m)から山の麓のシャブルベンシ(標高1600m)まで、警察のチェックポストで許可書を提示したり、途中の小さな村で軽食をとったりしながら10時間掛かってロッジに到着した。道中8時間ジープに揺られていた。道は険しく、厳しいものがあった。霧で10メートル先も見えなかったり、断崖絶壁に出くわしたりカーブカーブの連続、ガタガタ道、履行出来ない道、ありとあらゆる悪条件の道を体験した。ようやくの思いでロッジに着いたときには自分の内臓を所定の位置に納めるのに時間が掛かった。

 更に3日間掛かって、最終ロッジであるキャンジン・ゴンパ(標高3800m)へ毎日6〜7時間歩き、標高を上げていった。ガイド、妹、私、シェルパ、の順を守りながら一列で歩いた。左右前後に5000メートル以上の雪山を仰ぎながら歩く道は決して平坦ではなくアップダウンがきつかった。普段使っていない筋肉を使うことの厳しさを思い知らされた。翌日からは思ったよりも楽に歩くことが出来た。

1〜2時間歩くと村があり、休憩するロッジがある。そこでミルクティーを頼む。決まって甘く300ccはあろうと思うほどタップリの量だ。しかも1杯20円弱。この水分補給は高山病にならないためとエネルギー源としてとても必要なことだと聞いた。

ロッジでは、トイレをも済ませる。一応囲いはある。トタンの屋根に三方は隙間だらけの簡単な囲いと簡単な木のドアが付いている。鍵はない。紙は流せないので大きな缶などが置いてある。もちろん 電燈もトイレツトペーパーも無い。中は真っ暗である。穴が一つあいた便器らしきものがある。どこのトイレも川の傍に建てられているが、衛生上どうなっているのだろか・・・?

トレッキング中は、10〜15分に一度は人に出会う。自分の体よりも大きな荷物を背負っている荷役人 土地の人々 外国のトレッカー 日本人にも会った。外国の人は一人とか二人、多くて4・5人のグループが多いが、日本人は10人以上の大人数のグループ行動している人が多かった。ヘリコプターを利用して一気に上って来る日本人グループも結構いた。私達が3日掛ってきたところをヘリで1時間程度で上って来られるので ほとんどの人が高山病になってしまうらしく元気が無かった。

トレッキングにもいろんな方法がある。私たちのようにロッジ利用者は、寝袋、防寒具、ヘッドランプなど必要最小限の道具で、一人10s程度だから二人でシエルパ一人頼むだけでよいが、キャンプをする人たちは、コック キッチンボーイ テント ダイニングテーブル 椅子 食料 燃料 と10人以上のシェルパを引き連れている。ロッジ利用者は 夜、寒さをしのげるが食事の面でつらい。ロッジのメニューはどこもほとんど同じで、朝昼夕とその中から選ばなければならない。キャンプをする人達は 日本人に合った食事を毎回コックさんが作ってくれるので美味しい食事がとれるそうだ。然しテントでの生活は寒さとの戦いらしい。

 11月5日(4日目)に最終ロッジであるキャンジンゴンパ(標高3800m)へ着いた。その先はロッジがないので、3日間(11月5・6・7日)同じロッジに宿泊した。その日は午後3時前に着いたので、青く光っている氷河を見に行こうとしたが、すぐ近くに見えているのに、2・3時間はかかりそうなので、ゴンパ(お寺)へ行った。そこから私達の泊まるロッジや他の建物が眼下に見え、目の高さには5000m以上の雪山が聳えている。その眺望は今も目に焼きついている。フルートをしている妹がコカリナ(木で作られた小さなオカリナみたいなもの)を持ってきていたので吹いてみた。童謡を一曲吹くのがやっとという息のきつさであった。しかも 音程が高く低音が出にくいのには驚いた。富士山と同じ標高だったのだ。

夕食後の夕焼けが真っ赤に燃えているのが小さな窓から見えていた。その晩はさすがに冷えて、水筒に熱湯を入れて湯たんぽ代わりにし、抱え込んで寝袋にもぐりこんだ。夜中にトイレへ行った(どこのロッジもトイレは外にある)。外へ出た途端、大きな流れ星が降りていった。今までに見たことのない明るく太い線を引いて流れて行った。寒さを忘れて見とれてしまった。ヘッドランプの明かりを消して夜空を見ると、星の一つ一つがはっきりと輝いている。”天国に一番近いところはここだ”と、つい口をついた。全てのものへ感謝したい気持ちになった。本当にここへ来られてよかった・・・と幸せな気持ちで眠りについた。

11月6日(5日目)はランタンリルン(7225m)のベースキャンプへお邪魔した。前日の夕方偶然にも妹が昨年会ったシェルパとロッジ近くで出会ったのだ。しかもそのシェルパは私達のガイドであるMr.ジッドとも知り合いだったので、”ベースキャンプへ遊びにおいで!”と誘ってくれたのだ。4人で、2時間半かけてベースキャンプ(4225m)へ行った。ところが私達が着いた途端強風でテントは3張りほど吹き倒れているし大きなダイニング用のテントも今にも吹き飛びそうだった。私達は一人残っていたコックさんと必死で強風から守ろうと引っ張っていたが、とうとう力尽きテントと共に倒れこんでしまった。台所用のテントへ入り込んで風と寒さから逃れた。テントの中で昼食をご馳走になった。その若いコックさんは、私達のためにわかめの味噌汁(インスタント)、キャベツの酢の物、カレーライス、マッシュルームの油炒め、おいしい日本茶も10日ぶりに口にした。日本の有名な登山家3人とサポート隊はピークハントへ出掛けていてもちろん会えなかった。その後、気になってその山(ランタンリルン)を見るといつも雪煙が上がっていたりガスに隠れていたりと天候不順だったので成功したかどうかはっきり解からない。この夜も星を見ようと外へ出たら、いきなり目の前に2頭の馬に出会いビックリ、そそくさと寝袋へ戻ったのだった。

11月7日、チエルゴリ(4984m)の頂上まで行って帰ってきた。さすが5000m近くになると登る時息が苦しく一歩一息と言う感じで登った。風も強いし寒いので防寒用のズボンを重ね着した。残念ながら頂上はガスで何も見えなかった。天気だと大展望が開けているらしい。記念撮影をして急いで下山。粉雪まで舞ってきたので急ピッチで下山することにした。私は一人遅れがちだったがだんだん見晴らしが良くなったのでマイペースで降りていった。妹達は昼食の為に陽だまりに気持ちの良い場所で食事を用意して待っていてくれた。ホッとして座った途端気持ちが悪くなった。食事がとれなかった。せっかく山菜おこわ(フリーズドライ)を用意してくれたのに・・・。 りんごをほんの少しとポカリスエット一杯しか口に出来なかった。これも軽い高山病だったらしい。ロッジに着いた時は元気になっていた。お湯を少し貰って久しぶりの洗濯をした。

11月8日(7日目)から、登ってきた道と同じルートでまたシャブルベンシまで、3日かけて降りた。来たときから1週間も経っているので朝、出発する時は道が凍っていた。ネパールも確実に初冬にむかっていた。

11月8日の夜は、楽しいひと時を過ごした。トレッキング中初めて夜10時まで起きていた。ロッジでは夕食後は、寒いので各自の部屋に戻らずストーブ(燃料は薪とヤクの糞)を囲んで、それぞれ談笑したり情報を集めたりトランプする人あり暗い中本を読む人ありと静かに過ごす。が、その晩は10人ほど残ってみなで歌って踊って盛り上がった。日本の歌 ベルギーの歌 英語の歌 ネパールのフオークソングを習ったり怪しげなインド風踊りを披露するものあり、と次から次と続き、2時間ほどがアッという間に過ぎた。歌は言葉を越え、国境を越え皆の心を一つにすることを再認識した。

11月2日に泊まったロッジへ再び10日に戻って来た。振り出しに戻ったようなものだ。まずは何事もなく無事終えることが出来たことに感謝して4人一緒にビールで乾杯。久しぶりのビールは至福の味だった。30分後に到着した外国の人達はガイド、シェルパはぬきで乾杯していた。この辺が外国人との差らしい。割り切っていると言うのか・・・日本人はすぐ情が移るのかもしれない。 

 11月11日また、ガタガタジープに揺られて夕方4時頃、やつとカトマンドゥへ着いた。ホテルでガイドとシエルパを待たせて、何日か振りの簡単シャワーを浴びた。ガイド・Mr.ジッドの家に招待されたのだ。10日間一緒に行動していてすっかり意気投合し”是非家族に会ってください”とのことで 私達も喜んでお邪魔した。彼の家はアパート(2階建て)の一階で、ドアを開けると8畳ほどの部屋が一つであつた。そこへ奥さん、息子(6歳と4歳)の4人で住んでいた。2口コンロが1つ、ベッドが2台(木の箱みたいなもの)、小さいTV、TV台、家具はそれだけ、布団や洋服はベッドの下に置いてあるようだった。子供達は、ベッドに座っている私達の膝の上に乗ってきたり一緒に写真を撮ったり、お絵かきをしたり、と人懐っこく可愛かった。奥さんには夕食をご馳走になった。現地の人の主采・ダルスープ(小豆のような豆入りカレー味のスープ)、私達の為にちょっと贅沢なカリフラワーやインゲン、玉ねぎ、ジャガイモの入ったカレーライス、アチャールとよばれる大根の辛い漬物、青物の炒めた物。人数分の皿が無いらしく交代で食べた。コップも無くペットボトルから直接飲む。実にシンプルな生活だ。

お隣さんがちらりと、私達を見にきた。トイレ、シャワーは共同らしい。日本は物で溢れかえっている。生活を見直さなければならないと思った。

 

2週間の旅は何のトラブルもなく心の引き出しに沢山の思い出を作ってくれた。日本を発つ前より、元気になったようにも思える。大自然に触れ、新鮮な空気と親しみ、異文化の風に当たって心身ともにリフレッシュしたような気がする。

お湯が十分に出ないカトマンドゥのホテルで気休め程度にシャワーを使っただけだったので、日本へ帰って思う存分お風呂に浸かった。2日たっても2週間分の思い出の垢がワアーと浮いてくるのには驚いた。ヒマヤラの垢を落としていくうちにまたまた日本時間の自分に戻っている。

カトマンドゥは夢の国だったのだろうか?機会を作り是非また私の夢の国へ行ってみたい・・・と。