浄源寺縁起じょうげんじえんぎ


<開基>
 当山九世自得契虔(じとくかいけん)和尚が著された『淨源歴代之序(じょうげんれきだいのじょ)』によれば、聖武天皇の代(724〜48)に菩薩僧行基(ぼさつそうぎょうき)が当地に来て、草庵(そうあん)を結び(一説では神亀二年〈725〉と)、天皇の病気平穏を祈念して仏像を三体彫刻された。これを石室に安置し、岩屋山薬師堂と称し天台宗に属していたという。現在は当寺の奥の院となっている。
<開山>
 開基(かいき)から七百余年後の永享二年(1430)、雲興寺二世天先祖命禅師(うんこうじにせてんせんそみょうぜんじ)は、当山を天台宗より曹洞宗に帰させ、五百米下流に現寺号の堂宇を建立し行基作の白衣観世音菩薩(びゃくえかんぜおんぼさつ)を本尊として安置したのが淨源寺の開山である。師は、七才にして毛詩左伝(もうしさでん)(詩経・春秋)をよむは師訓に預からずいう逸才で天鷹和尚(てんようおしょう)に従って雲興寺開山に努力されたが、当山における資料は乏しく現存する「南無天満大自在天神(なむてんまんじざいてんじん)」の名号は天先和尚の真筆であり、玄関前に有る天先梅(てんせんばい)は開山手植えとされており、示寂(じじゃく)も当山で長禄二年(1458)九十二才であった。
<歴住>
 二世居雲宗準(こうんそうじゅん)和尚は雲興寺十四代からの転住であるが、師についても当山における記録は殆ど無く示寂のみ寛永十四年(1637)となっている。これは開山示寂との間が百八十年も隔つことになるから、廃絶に等しい当山を再興されたものと考えられる。
 しかし、その間の元和三年(1617)、東照神君の功臣、安藤對馬守(あんどうつしまのかみ)から当寺へ下された『禁制』が残っており、往時の隆盛がうかがわれるとともに、雲興寺歴代が老を養われた所とみられている。
 三世別岫祖傳(べっしゅうそでん)和尚は雲興寺十七代からの転住、物事に動じず「愛喜を一にす」と記録にある。二世同様在住年の記録を欠く。
 四世青峰祖榮(せいほうそえい)和尚は、同じく雲興寺二十代で五世の師、雲興住山中天先和尚の二百五十回大遠忌(だいおんき)を勧進されたことから、五世の要請で四世となっているが当寺在住は無かったのであろう。
 <中興(ちゅうこう)>五世活襌寂宗(かつぜんじゃくしゅう)和尚は元禄十五年(1702)から享保十五年(1730)までの在住で、過去帳を改めて記帳し、享保四年(1719)には本堂を再建する等中興とされている。
 六世漸鴻證儀(ぜんこうしょうぎ)和尚は在住期間もわずかでいささか寺産衰退期であったが、母に尽くされた孝養の深さは今に伝えられている。
 七世巴山萬江(はざんばんこう)和尚は寛保元年(1741)までの在住、ただ次の八世没後七年間転住地で健在だったので当山に墓碑はない。
 八世然室慈湛(ねんしつじたん)和尚は寛延三年(1750)までの在住、須弥壇(しゅみだん)の改修等一時の衰退を回復して百般賑わしくなったという。
 九世自得契虔(じとくかいけん)和尚は宝暦九年(1759)までの在住、百貫前後の梵鐘(ぼんしょう)はこの頃の新鋳であったが、昭和一九年太平洋戦争のために供出し今は無い。大変な能筆能文の士で、三河の千鳥寺に転住されて更に十年程の後即ち明和五年(1768)「淨源歴代志」(序・本文)を著わされ、八世までの分を記載された。雲興寺に属すの記録もこの時代。
 十世湛瑞鷟門(たんずいざくもう)和尚は寛政五年(1793)までの在住、寛政三年(1791)には庫裏(くり)を再建された他多くの宝物什具(ほうもつじゅうぐ)を新添された。また『張州雑志(ちょうしゅうざっし)』に「境内桃樹甚多桃実亦美味也」とあるのは、この頃のことであろう。
 十一世眉山単霊(びざんたんれい)和尚は寛政十年(1798)までの在住、大般若六百巻・十六善神(じゅうろくぜんじん)画像・山門塔二基などの什宝を新添された。
 十二世異輪秀格(いりんしゅうがく)和尚は文化二年(1805)までの在住、ただ寛政十年自署名による「正眼寺御役寮宛覚書(しょうげんじおんやくりょうあておぼえがき)」には〈淨源寺開創は天先禅師、享徳三年(1454)〉と明記されている。根拠は不明であるが、二十一世はこの説を採っておられる。
 十三世全膺惠戒(ぜんにょうえかい)和尚は文化五年(1808)までの在住、四十三才で病没された。
 十四世龍泉湛元(りゅうせんたんげん)和尚は天保十四年(1843)までの在住、天保十年(1839)頃百二十年を経た本堂を瓦葺で再建し、唐金花瓶付木蓮華一対(からきんかびんつきもくれんげいっつい)他数々の什宝を新添された。
 十五世金剛良元(こんごうりょうげん)和尚は安政三年(1856)までの在住、前住とは師弟の間柄であった。
 十六世高山壽堅(こうざんじゅけん)和尚は文久二年(1862)までの在住、進住直後に開山四百大遠忌を営まれた。
 十七世瑞應祥巖(ずいおうしょうがん)和尚、先住地は師勝の日光寺であったが河村新三郎家から当時へ晋山(しんさん)せられ、明治三十年までの在住。寺子屋を開いて社会教育に励み、衆寮(しゅりょう)を再建・庫裏土蔵の屋根替え・物置を新築、馬を飼い寺男を住まわせ味噌を製造し農耕作業に専念し蚕も飼って寺門を隆興させた。
 十八世玉峰得昇(ぎょくほうとくしょう)和尚は明治三十九年までの在住、愛知県第四宗務所長(しゅうむしょちょう)を務められ、檀籍簿と掟米台帳を整理された。明治三十二年には岩屋薬師開扉大祭を勤修された。
 十九世瑞巖大賢(ずいがんだいけん)和尚は大正十二年までの在住。明治四十一年開山四百五十回忌勤修に伴い仏具荘厳を整備、豊川稲荷奉安、地蔵尊石像安置、境内標柱を新設、裏庭に茶席新築(紅於亭こうおてい)、梅林経営、玄関屋根葺替など功績は目覚しい。茶席で茶華道・書画を指導し、時の瀬戸電(名鉄瀬戸線)とタイアップして岩屋堂の観光開発にも努力された。
 二十世諦観賢晃(たいかんけんこう)和尚は昭和十年までの在住。本堂・庫裏の改修を始め功績多数。
 二十一世英雲哲雄(えいうんてつゆう)和尚は、昭和四十八年までの在住。昭和十五年授戒会(じゅかいえ)修行、戦中・戦後で梵鐘の供出、農地開放を体験。本堂屋根葺替、位牌堂(いはいどう)再建、本尊修理、昭和二十九年開祖5百回忌勤修他、寺門内外の整備に尽力された。
<再中興>二十二世哲雲喜芳(てつうんきほう)和尚は、護持会(ごじかい)・浄青会(じょうせいかい)の結成、岩屋堂庫院(くいん)再建、寺標・無縁塔建立、山門新設、墓園造成、茶席再建(紅於亭額は引継ぐ)・衆寮改築に次いで百六十年程を経た本堂、二百年余を経た庫裏の両者を純木造で再建。平成9年落慶(らっけい)法要と開山五百五十回忌を厳修、嗣子(しし)で弟子のの大千芳生(だいせんほうしょう)和尚を育成。
令和3年11月3日 80才示寂 雲興寺忠司老師より再中興を賜る 東京藝術大学卒業を活かし絵画・陶器の作品を多数残した。
本堂の多数の天井絵と御朱印の本尊白衣観世音菩薩の版画も喜芳和尚の遺作である。
 二十三世大千芳生(だいせんほうしょう)和尚は平成17年(2005)より住職。鐘楼堂を河村家の寄進により新設。位牌堂を再建。参道を石畳整備。歴住墓地整備。

 平成9年11月3日 本堂庫裏落慶記念誌より抜粋一部手直し加筆・令和3年11月加筆・令和6年3月加筆