『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

目次    次へ

 第1章 『サンクトゥマリアの子守歌』 −3−

しおりを挟む

 ――かつてまじない師は彼にこう言った。
 お前の生涯は、剣に生き、剣によって生かされる。
 そして――。




 場内を。カーキッドはぼんやりと歩いた。
 来た時と同様にすれ違う者は彼を振り返ったし、敵意に似た眼差しも向けられた。
 しかし彼は、それらすべてを受け流した。
「……」
 小窓から見える空を眺めた。
 淡い色の蒼に、雲が絹糸のように筋を引いている。
 女神の息吹のようであった。
 しばらくそれを眺めているうちに。
 ふと、彼の耳を音が掠めた。
「……?」
 錯覚か? 一瞬そう思った。
 だが確かに聞こえる。
 風ではない、鳥でもない。
 確かに音が。――歌が。
「……」
 カーキッドは一歩、歩を進めた。
 まるでその音に誘われるように。
 ――この国へきて1年。そういえばこんなふうに城を歩き回った事なんざなかったな。
 そう思いながら。
 見知らぬ回廊を、歩き続けた。




 どこをどう歩いたかわからない。
 来た道は戻れない。
 ただ音だけを頼りに、城をさ迷い。
 迷い込んだのは、庭園。
 一面が、白い薔薇に埋め尽くされたそこに。
 ――歌が聞こえる。
 衣擦れの気配。
 陽光はささやかに。焼け付くほどでもなく、凍てつくほどでもなく。
 ――純白のドレス。
 女がいた。
 金糸の長い髪を風に遊ばせ。
 口元に笑みを浮かべながら。
 彼女が歌う……この歌は。
 カーキッドの歩が、ガサリと音を立てた。
 女は振り返った。
 目が合った。
 青い瞳。
 空のようで海のような青い青い、――いやむしろその光はそれ以上の宝石のような。強い光。
 この目を彼は知っていた。
 試合の時見えたあの凛然たる瞳。
 カーキッドは褐色の瞳で、奪われたように彼女を見つめた。




 ああ、あれは子守歌だ。
 そう思った時、どこかで高く、鳥が鳴いた。




「よぉ」
 オヴェリアは、白薔薇の庭園に1人佇んでいた。
 供は誰もいない。ここに来る時は大概、1人である。
 この庭園に来る者も滅多にない。ここは城の外れにあるゆえ。わざわざここまで来なくても、薔薇が見える場所は幾らでもある。
 この国は、薔薇の国。
 ……しかしオヴェリアにとってここは特別な場所。
 いかに優美に咲き誇る薔薇の庭園がこの世に存在しようとも。
 ここだけが、オヴェリアにとって唯一。
 ――母が好きだった場所だから。
 幼くして亡くなった母が、とても愛していた場所だったから。
「……」
 白い薔薇は今日もそこに咲き誇っていた。
 一点の曇りもない花が、いくつもいくつも咲き乱れ、庭を真白に染めている。
 その中にあり、オヴェリアは歌を口ずさんでいた。
 ――その最中だった。
 その者はそこに、やってきた。
「……」
 この白い庭園で場違いな、黒い騎士服。
 ……正騎士のそれではない。この服装は傭兵隊の物。
 ――傭兵隊長、カーキッド・J・ソウル。
 あの試合の日以来の、再会であった。
 オヴェリアは少し瞬きをし、やがて居を正し小さく会釈をした。




「道に迷ったんだ」
 彼女が何か言うより先に、カーキッドはそう言った。
 明らかに俺は場違いだ。それは当人が一番わかっていた。
(真っ白の世界)
 ここはあまりに純白で。きれい過ぎる。
 汚れた自分に少し苦笑する。さっさと立ち去ろう。歌の出所はわかったんだから。
 ――そう思う、なのに。
 足が張り付いたように。動かなかった。
「……そうですか」
「ん。ちょっと武大臣に呼び出されて来たんだが」
 ふらふらしてたらここに来ちまった。
 ……歌に誘われたとは、決して言わない。
「城門は、」とオヴェリアは、腕を差し出し道を示した。
「そうか、わかった。助かる」
 それを話半分で聞き、カーキッドは礼を言った。
 オヴェリアは微笑んだ。
 薄く、優しく、柔らかいその笑みは。
 この庭園にあるせいか、白薔薇に囲まれているためか。
 花そのもののように、カーキッドには見えた。
 ――美しい物を見ると汚したくなるとは、誰が言った言葉か?
 ハハハと薄く笑い、カーキッドは姫を見た。
 姫……姫だ。
(騎士じゃない)
 こんなきれいなお嬢ちゃんが?
 剣を振り回し?
 竜を倒す……って?
「あんた、」
 そんなのどう考えたって、おかしいだろう?
「本当に行く気か?」
「……?」
 カーキッドの問いに、一瞬彼女は何を言われているのかわからないような顔をした。
 それに彼は少なからず苛立った。
「黒竜討伐だ」
「……」
 次のその言葉に、さっと彼女の顔色が変わった。
「はい」
 行きます。
 随分はっきり言いやがる。
 だが理解できてるのか? それがどういう事か。
「へぇ? じゃぁ、お供は何人連れてくんだ?」
 ――竜。
 なぁお姫様、あんたはそれを見た事があるのかい? どんなもんだか、知ってるのかい?
 この世界において、その生物は最も獰猛で、残酷で。
 強靭な生物。
 その寿命は長いものならば500年とも言われている。……もちろん本当か知る術はない。人に、それだけの時間を越える事はできないのだから。
 だがその生命力はわかり得る。
 普通の刀でその皮膚を貫く事などできやしないだろう。
 まして、破壊力。
 ――伝承にはある。
 かつてその力により、世界が壊滅せしめた事があったと。
 たった1匹の竜により。
 世界は炎に包まれ、暗黒に包まれ。
 ――終焉を迎える一歩手前まで行ったのだと。
 国家規模の討伐隊が組織され、そして呆気なく散って行った事を。
「供は連れて行きません」
 なのに。
 彼女はそう言った。
 一瞬カーキッドは呆気に取られた。が次の瞬間、「ハッハッハ」と大業に笑った。
「大した自信だ」
「……」
「一人で仕留めると? それができると?」
「……」
「あんたはお姫様だろう?」
「……」
 ――試合の折のあの剣技。あれは、カーキッドも認める。
 女ゆえに剣圧は重くなかった。でもその分のスピードが、並大抵ではなかった。
 これまでどのようにして、あの腕を磨いたのだろう。大っぴらに剣が振るえたとは思えない。……女の身であそこまでの技量を身につける、それは尋常な努力では成し得ない事だと思う。
 だが。
 惜しむべくはやはり、女だという事だ。
 目の前の白薔薇の中に立つ者は確かに姫≠セ。
(似合わねぇや)
「お姫様はお城の中に引っ込んでろ」
 ――あの折確かにカーキッドの胸は震えた。それはこの娘の剣が、それほどの腕を持っていたから。
 最後の局面、相手が女だと知ったからと言って、カーキッドは手を抜かなかった。抜けなかった。
 それは完全に、彼自身がその剣を認めた証拠だった。
 ……だが。
「黒い竜は、白薔薇の剣でしか倒せない」
「己一人で成し得ると?」
「……誰も、巻き込みたくない」
「だから? 傲慢なお嬢ちゃんだ」
「……確かに私は、剣の腕はまだ未熟。あの試合だって本当は」
「……」
「あなたはあの時……準決勝で、シュリッヒ様の剣で脇腹を痛めて」
「何の事だ?」
「……」
「何にせよ、退きな。あんたが否定すれば、誰も、無理に竜退治になんぞ行かせやしないだろうさ」
「私が行かなかったら誰が?」
「世の中にはな、勇者になりたい奴は山のようにいるさ。英雄だとか勇者って言葉は麻薬と一緒さ。その魅惑に囚われた者は簡単に抜け出せやしない」
「誰かが行くと?」
「ああ。それともあんたも、とり憑かれてる口なのかい?」
「……」
 英雄になりたい? 勇者と呼ばれたい?
 いや違う、この女の目はそういう類じゃない。
 ならば――?
「悪い事は言わない。お前には似合わない」
 カーキッドは極力優しい声音でそう言った。
「……『白薔薇の騎士』なんぞやめとけ」
 騎士なんぞ、剣士なんぞ。
 踏み入るな、その世界に。その世界は尋常じゃない。正気の世界じゃないんだ――。
「剣はままごと遊びじゃねぇ」
 答えぬ彼女に、カーキッドはピシャリと言って背を向けた。
「……道案内、助かった」
 そのままそこを立ち去った。
 ――背中に何か、妙な、悲しみを残し。
 そしてそれを踏み潰すように。
 強く、前に向け歩いた。




「……」
 残された彼女は小さく呟いた。
「それでも……」
 白薔薇は私にとって――。
 自分のはわかってる。
 これが無茶苦茶だともわかっている。
 でも。
 それでも。
「……」
 白薔薇は真白に光り。
 思い一つでその色は、決して、染まりはしない。




  ◇

 薔薇前試合から2週間が経った。
 そして未だ、竜討伐に対する議論は結論を得なかった。
 本当に姫が行くのか。オヴェリアは薔薇前試合に勝った。その場で公表もした。国民がその事実を知っている。だが本当に彼女を『白薔薇の騎士』としていいのか。もし本当に竜討伐に行かせるとして、誰を供にするのか。
「第一から第十三師団までを供として出すのは」
「それでは国ががら空きになる。攻め込まれればひとたまりもないぞ」
「だが伝承によれば竜の力は、国規模の兵力を持ってしてでも、」
「……一体どうすれば」
「わかっている事は」
 ――常人には倒せぬ。一介の剣には貫けぬ。
「……隣国バリジスタは」
「言うまでもなく彼奴らは」
 ――議論は尽きぬ。昼夜区別なく。
 そして話しても話しても、結論は出ない。
 オヴェリア・リザ・ハーランド。彼女は現王のただ一人の娘。王の血を引く直系のただ一人の子供。
 万が一にもその血が絶えたら。
 ……だが彼女が抜いた、抜いてしまった。その剣を。
 この王国に伝わりし伝承の剣。
 白薔薇の剣は、聖母の力を宿すという。
 ――聖母、サンクトゥマリアの。
 ヴァロック王の剣技が健在ならば。武で名をはせた王だ、結論はまだ違ったかも知れぬ。だが彼は病によって、もう剣は振れぬ。
 そしてその次なる持ち手として剣が選んだのが、
「……惨い」
 文大臣コーリウスは、膝を折るようにしてため息を吐いた。
「神は我らに、何をさせたいか?」
 姫を戦場へ出せと?
 こんなの間違っている。
 この国のあり方は間違っている。
 だが他の一手が浮かばない。
 こんな我らは、狂っている。
 狂った王国に未来はないのか?
 だから姫が選ばれたのか?
 ――もう途絶えよと。
 これが神の――聖母の思し召しか?
 議論の終焉は見えぬ。
 王は言葉少なく、ただ耳を傾け。
 最後は目を閉じた。
 瞼の裏には、笑顔がよぎった。
 その笑顔、もう、夢の中でしか見えない。
 王妃・ローゼン・リルカ・ハーランド。
(あの時と)
 同じ。
 繰り返されるのか?
 リルカと同じ、同じ。
「……」
 それが定めか?
 この国の。
 断ち切れぬ、定めなのか?




 その日の議会も結論出ぬまま散会となった。
 部屋に戻り寝台に横たわっても、王は眠れぬまま夜を過ごした。
 ――そして。
「……誰だ」
 どれくらい沈黙と闇の中、ぼんやりと過ごしたかは知れない。
 まだ暗い、だがもうじき夜が明ける、そんな時分。
 ……誰か部屋の外にいる。その気配を感じた。
 番兵ではない。その気配を彼はよく知っている。
「父上」
 音なく開いた扉から、入ってきたのは娘。
 彼のたった1人の、
「オヴェリア……」
 暗い視界にもわかる、その姿は。
 旅立ちの姿。
「出立のご挨拶に参りました」
 姫のその声が、王の記憶の中で一人の女性のそれと重なった。
 たった1人愛し続けた女性。
 そしてこれからも、永久とわに。
 その声が。
「これより黒竜討伐に参ります」
 行くと言っている。




「色々考えました」
 ハーランド王はじっと彼女を見ている。
 その目に、オヴェリアは言葉を選びゆっくりと続ける。
「私に成せるのか……それに値するのか」
 考え、考え続け。
「……答えは出ません」
「そうか……」
「でも1つだけ。……私は『白薔薇の騎士』となる事を望んで、かの試合に出ました」
 父上は剣を捨てろと仰せだったのに、とオヴェリアは顔を強張らせた。
「……どうしても、捨てられませんでした……」
「……」
「私は王位は継げない。それはわかっています」
「……」
「でも私は、」
 あの剣を。
 父と母のあの剣を。
「………オヴェリア」
 搾り出すように、ハーランド王は呟き、その手を差し出した。
「お前は昔から、わしの言う事を聞かぬ」
「……申し訳ありません」
「……幼き日のわしに瓜二つよ」
「……」
「お前は母にもわしにも、よう似ておる」
 似ているがゆえに。
「……愚か者」
「申し訳ありません」
「……そなたが決めたみちよ」
「……」
「もうわしも止めぬ。行け。その代わり、必ず生きて無事に戻れ」
 愚かな親だと笑え。
 だがもう、止められぬ。
 みちは自分で選ぶもの。
 誰かに決められるものではない。
 そしてこの娘は選んだ。最も過酷な路。過酷な運命を。
「はい」
 自ら望み、進んだ。
 ――切り開け。
 己の力で。そして。
 跳ね除けろ。迫り来るすべての困難、障壁の数々を。
「行け」
「父上、どうぞ息災に」
「お前も」
 子供はこうして親から飛び立つ。
 嘆いてはならぬ。
 そうやって一人前になっていく。行かねばならん。
「わしの子だ」
 そしてハーランドの娘。




 ――去って行った娘が残した気配を胸に抱き、王は歌を口ずさんだ。
 サンクトゥマリアの子守歌=B
 あの子をどうかお守りを。
 聖母、サンクトゥマリアよ。
 ――子に祝福を。よき光を。よき風を。
 すべての災いが避けて通ってくれるように。
 そして再び、この地へ戻ってこれるように。
 歌よ、あの子を守れ。
 王は微笑み、静かに涙をこぼした。

しおりを挟む

 

目次    次へ