『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第4章 『魔窟の争』 −1−
この手に残る、あの時の感触。
されどそれをこの男だけには知られたくない。
カーキッド・J・ソウル。
ただ1人、この男だけには――。
4
暗い。
足場、岩肌、かろうじてたいまつが照らす範囲はわかるが。
光が及ばぬ闇がある。
向かうのは、その、闇の先。
オヴェリアは唾を飲み込んだ。
息が粗ぶるのは、自然の事かもしれない。
小さな音と、足場のぬめる感じに。一々反応をしてもそれは、仕方がない事。
だがそのたびにカーキッドは振り返り、
「怖いか?」
……ニヤリと笑うのである。
オヴェリアはムッとした。
「怖くはありません」
「じゃぁ先へ行け。俺が後からついてってやるから」
「……」
意地悪である。
この闇の中、この男の背中を追う事だけでもやっとなのに。
1人で先へ行けなどと。
それにむっとした顔を見せると。
カーキッドは一層笑い、「行くぞ」。
「グズグズすんな」
「……」
足早に歩き出すその背中から逸れぬように。懸命に、追いかけていくのである。
洞窟である。
そもそもなぜこの2人がこのような場所を歩く事になってしまったのかと言えば。
「橋が壊れてるだぁ?」
前日、立ち寄った村で告げられた事実。
「その橋渡ればすぐの所なんだろ? レイザランは」
ラーグ公爵が治めるその地。
「先日の大雨で崩れてしまいまして。今月に入ってようやく復旧作業が始まったばかりなんですよ」
「開通までには? 俺達は急いでるんだ」
「開通までには……2、3週間は掛かると思いますが、」
そんなに待ってられるか。
悪態をついたカーキッドに、困った村人が教えてくれたのがこの洞窟だった。
昔、橋がなかった頃にはよく使われていた道だったのだとか。川をまたぐ山を掘り抜いた洞窟であった。
たいまつを用意し、いざ2人で乗り込んでみたが。
当たり前の事ながら、中は一切の光入らぬ暗闇の世界。
昔使われていたというだけあって、人が通れるような幅はもたせてはあったものの。
こんな闇の中を、オヴェリアは歩いた事がない。ましてそこに身をおいた事すらない。
城は、夜であっても常時かがり火が焚かれていた。歩くのに障った事はなかった。
本当の闇の世界。
それは、彼女の足をすくませるには充分であった。
唯一の頼りは、カーキッドが握るたいまつの小さな炎のみ。
これがもし消えたらと思うと。また、オヴェリアの足はひるんでしまう。
カーキッドもそれは似たようなものらしく、「さっさと出てぇ」。
「工程はどれくらいだっつてたか」
「2、3時間はかかると」
「……長げぇなぁ。橋だったらものの数秒だろうが」
さすがに数秒って事はなかろうが。
カーキッドは深くため息を吐いた。
ピチャン、と、どこかで水が滴る音がした。
二人が黙れば沈黙が落ちる。それが、あまりにも痛かった。
暗闇に加えての沈黙には耐え切れず、「あの、」とオヴェリアは口を開いた。
「カーキッドは、ハーランドに来る前はどこに?」
「あん?」
「その……どこかに仕えていたとか?」
一瞬だけカーキッドは彼女を振り返ったが、「傭兵」。
「あちこち、渡り歩いてた」
「そう」
何となくその言い方に。オヴェリアは壁のような物を感じた。
(触れてはならぬ事?)
「それでは……どこで剣を覚えて?」
カーキッド・J・ソウル。
沈黙が怖くて口を開くという事もあったが。オヴェリアの中で彼の存在が少しずつ変わり始めているのも事実。
自分の事を対等か、それ以下のような口ぶりで接してくるこの男。
(でも)
見下されているような気もするが、確かに気遣いも感じる。
……言うなれば、優しさ。
(この人の事を)
もう少し知りたいと、オヴェリアは思った。
それはこれから先も旅を続ける共がゆえに? ……いやもっと、彼女の中では純粋な、好奇心。
「剣か」
カーキッドは前を向いている。オヴェリアからは表情は見えない。「……そうだな」
「息を吸うようには、」
「?」
「……いかなかったな」
「え?」
それだけ言って彼は小さく呻くように笑った。「むしろ、」
「てめぇは?」
「え?」
「聞いた。武大臣殿がお前の師らしいな」
それにオヴェリアは闇の中目を丸くした。「誰に、」
「ご本人さ」
――出立前、カーキッドはもう1度グレンに会いに行っている。その際、その事を聞かされていた。
幼少より彼女に剣を仕込んだ事。最初は拒絶したが、姫がどうしてもそれを熱望した事。
(そして最後には、武大臣グレン自身がそれを望んでしまった事)
オヴェリアの素質はそれほど、素晴らしい物だったと。グレンは言った。
だが彼はカーキッドにこうも言った。
『姫に剣を持たせた、それは罪』
そしてここまでの剣客へと仕上げたのは。わが人生最大の罪だと。
『我はいずれその大罪を償わねばならなぬ』
この身この命、生涯、すべてでもってして。
(あんたの罪が、このお嬢さんに剣を教えた事だというのなら)
カーキッドは思う。
――俺はこれから、どんな罪を、背負わなきゃならないっていうんだろうな。
「グレンに会ったのですか?」
「ああ」
「……」
オヴェリアは少し目を伏せた。「何か、言っていましたか?」
「姫を重々よろしくだと」
「あなたは……グレンに頼まれて私の共を?」
あ。とカーキッドは思った。ちと口が滑ったか。
「そうでしたか……」
オヴェリアの声が少し沈む。
カーキッドは振り返らず、「誤解すんな」。
「確かにグレン公に頼まれた。竜退治に行くお前の共をせよと」
まさか、その身を盾にしてでも守れと言われた事などは。口が裂けても言うまい。
「だがな……俺は人に命令されて動くのは大嫌いなのさ」
「……?」
「黒竜討伐。おいしすぎるだろうが」
そんな、稀有な事。
「俺が、俺自身が剣を交えたい。竜だぞ? 剣士として戦ってみたいと思うのは当然の摂理」
「……」
「てめぇのお守なんぞ、知るか」
「……」
「お前は国のため、使命を持って今回の旅に挑んでるんだろうがな。俺は正直、国も世界もどうでもいいのさ。ただ俺自身が、」
どれだけ命が燃やせるか。
胸を滾らせ、剣を振るえるか。
強いものと戦いたい。ただその一心。
己の腕が、この世界で、どこまで通用するのか。
限界を超えた、その向こうまで。
――万が一その過程で、命を落とそうとも。
それはそれで、本望。
「竜と戦いたい。……それだけさ」
かつて数多くいた竜の中でも最も獰猛で残忍と言われた、黒い竜ならば。
本望。
面白ぇじゃないか。なぁ?
「お姫様は城に戻っても結構だぜ?」
「……」
その言われように、オヴェリアは少しムッとしたが、「あなたは」
「……」
「あん?」
「……強さを、求め続けるのですか?」
「?」
剣において、戦いにおいて。
何のために? そう問うのは、オヴェリアには滑稽だとわかっていた。
(それは、私自身も)
そうだったのだろう。
強さを。
誰にも勝る力を手に入れなければ、
(守れないと、)
思ったから……。
前を行くカーキッドの背中。
それは広く大きくて。とても堂々としたもの。
彼はその瞳にこれまで何を映してきたのだろう? オヴェリアは思う。
この人は、似ているのかもしれない。
どこか、私と。
そしてどこか、……私が愛してきたものたちと。
どれだけ歩いたか。
光のないここでは、時間の感覚ははかれない。昼前に入ったはずだが。
(分岐を間違えたか?)
途中幾度かあったそこを間違えたのか。行けども行けども光は見えてこない。
村でもらった地図を見る。
この山はかつて炭鉱でもあったらしい。この道にはその名残があり、単なる通路というには分岐が多かった。
川渡しの道として栄えていた頃は、もっとわかりやすく案内もされていただろうが。今では灯りすらない状態。
「少し休むか」
一刻も早く出たい気分ではあるが、歩き通しである。少し疲れた様子が見えたオヴェリアに、カーキッドはそれとなく言った。「腹が減った」
丁度水場に出た所でもあった。2mほどある川であったが、ここには橋が渡してあった。
「こんな事なら、いっそ泳いで渡ればよかったな」
「それは村人に止められたでしょう? 深いし流れが急だから無理だと」
「俺1人ならなんとでも?」
ニヤリと笑うと、オヴェリアは少し傷ついたような顔をした。
それには構わずカーキッドはカバンから食料を取り出す。固形燃料に火をつけ、薄く切ったハムをあぶった。それをパンに載せてやり、その上にチーズ。洞窟に入る前に積んでおいた野生のヨーランの葉をよく洗って乗せてやる。この葉は疲労回復の薬草としても利用されており、粉末にされたそれは市場でもよく見かける。
燃料に火をつけたついでだ。スープも作ろう。粉末のダシに、コーンと豆を入れて煮込む。いい匂いが立ち込める。村でもらったたまねぎも半分ばらし放り込めば。
「ん、いける」
ついでにリンゴもむいてやろう。
……そんなカーキッドの様子を、オヴェリアはただじっと見ていた。
「カーキッドは、」
「あん?」
「剣士になる前は、何だったのですか?」
「は?」
また、よくわからない質問だ。
「じゃぁ、もし剣士じゃなかったら? 他の仕事。選んだとしたら?」
「……何じゃそりゃ」
カーキッドは呆れた。
「剣士になる、それ以外に考えた事なかったよ」
「料理人、とかは?」
「は?? 俺が?????」
馬鹿受け。
カーキッドは腹を抱えて笑い始めた。「俺が料理人か!!」
「だって、慣れてるもの」
「料理が、か?」
「ええ」
「これは。放浪生活が長いから、それで身についたってだけだ」
「それに、おいしいもの」
「そうかいそうかい」と、カーキッドはパンを渡した。「食え」
「……」
「うまいか。そりゃよかった」
「……何も言ってません」
「じゃぁまずいか」
「……」
「だろう?」
それにしても、俺が料理人ねぇ? カーキッドは笑った。
料理なんぞと考えた事もない。ただ空腹をしのぐためだけに身につけた事だったのに。
(うまい、か)
初めて人に食わせた。
それがこの姫だった事を。
カーキッドは後々になって思うのである。
よかった、と。
◇
「さて、行くぞ」
「……」
「満腹になったからって、寝るなよ」
オヴェリアが欠伸をしたので、一応釘を刺しておく。彼女は心外そうに、「寝ません」と言った。
「さっさと抜けよう」
こんな穴ぐら。
言いながら、彼はチラとオヴェリアの背中にある闇に視線を流した。
そこにあるのは黒。灯りはない。
……だが。
(何か感じる)
気配。
言うなれば……視線。
「放置されてから、ちょいと獣が住むようになったとか。村人どもが言ってたよな?」
獣。
「蟲……ですか?」
オヴェリアが、何かを思い出したかのように顔を強張らせた。
「さぁて」
「……」
「まぁ大丈夫だろう。とっとと行くぞ」
「はい」
歩き出した2人。
そ知らぬ顔で前へ進む彼の隣に、オヴェリアはサッと寄り添い、「カーキッド」
「ん」
ヒソリと、空気のごとく小声で。
「先ほどから、何か、」
「……」
お? とカーキッドは目を見開いた。「ああ」
「何か、後ろにいる」
「……」
「態度に出すなよ」
背中をつけられている。
オヴェリアも感じた、その気配。
カーキッドは我知らず口元を歪めていた。
(これは獣じゃねぇ)
端的に言えば。
人だ。
手に取るようにわかる、背後の気配。
それに強張るオヴェリアの顔。これも実にわかりやすい。
カーキッドはすべてを悟りつつ、のんびり構えて前に進んでいく。
「っと、この交差路は、」
地図を頼りにしようにも、もう、大体の見当でしかわからない。
だが川は越えた。後は出口を探すのみ。
「左――」と言いかけて。
カーキッドの気配がガラリと変わった。
「カー、」言いかけたオヴェリアの口を乱暴にふさぐ。
そして驚いた彼女の目に、目で、物を語り。
その肩を、ドンと軽く後ろへ押した。
壁に打つなよと思いながら剣を抜く、その最中に。
カンカンカンと、刀身に何かが当たる。
針だ。
太く長い、暗殺で使われる物。
「へへへ」
ギラリ抜き放ちながら、
たいまつを、地面に置く。
「暗闇では、明るい服を着ましょうって、センセーに習わなかったか?」
黒装束の軍団。
いわばこれは、
暗殺者 。
「カーキッド!!」
「飛び道具に気をつけろ!!」
闇の中へ突っ込んでいく彼に、彼女もまた慌てて剣を抜き放つ。
(まさか、)
背後。
これは。
(挟み撃ち?)
オヴェリアの背中に、ゾクリとした物が走る。