『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第7章 『鴉の躯』 −2−
「ありがとうございました」
「いえいえ。いかがでしたか?」
「大変気持ち良かったです」
オヴェリアは正直に感想を述べた。
すると下働きの女性はにこやかに微笑んだ。司祭と同じ笑顔だと思った。
(母上と同じくらいかしら……)
恰幅のいい体格は、母ローゼン・リルカ・ハーランドとは比べようもなかったけれども。
それでもオヴェリアは、何となく、この女性に母を感じた。
「きれいな髪ね。女性の身で旅なんて、すごいわねぇ」
風呂の世話をしてくれた彼女は、ついでにと、オヴェリアの髪をとかしてくれた。
「剣なんて、お風呂場まで持ってこなくてもいいのに」
驚きの混じった表情で彼女は、風呂の片隅に立てかけてあった白薔薇の剣を眺めている。「白い薔薇の剣なんて。とてもきれいね」
「旅の共が、いつ何事があってもいいように、どこに行くにも持って歩けと言うものですから」
彼女は白薔薇の剣の事は知らないようだった。それにオヴェリアは少し安堵した。
「ああ、あの男の人? 見たわよ。男前じゃないの。あの人はあなたの良い人なの?」
良い人とは? オヴェリアは小首を傾げた。
すると女性は豪快に笑って、「恋人なのかしら?」と言った。
オヴェリアは真っ赤になって、首を横に振った。
「違います!」
「あらそぉ? ははは」
カーキッドが恋人なんて。
「違います」
もう一度全力でそう言ったが、女性はただただ笑うばかりだった。
――彼女は簡単な夜着用のローブまで用意してくれた。
サイズは少し大きかったが、心地の良い素材だった。
丁寧に礼を言い、その場を去った。
「おやすみなさい。良い夢をね」
「おやすみなさい」
……旅をしてきた。
見知らぬ土地、見知らぬ街。
だが何よりも、人と話をする事。
(言葉が通じる)
当然の事だけれども。
城以外で、誰かと話す。声をかければ誰もが答えてくれる。
笑えば、皆笑い返してくれる。
……そんな事が。
オヴェリアの心を揺さぶる、春のような暖かな風となる。
「……」
部屋への帰り道、オヴェリアは途中、窓から外を見た。
夜空。星が瞬 いている。ここからでは月は見えない。
硝子に映る自分の顔を見、彼女はふと自分の髪に触れた。人に解かしてもらったのは随分久しぶりだ。
こうして長く、解き放っている事も最近では少ない。いつも編み込んで頭にグルリと巻きつけている。
「……」
――あなたの恋人?
そんな時ふと、彼女の脳裏に先ほどの女性の言葉が蘇った。
「違います」
虚空に向かって彼女は、また赤面して否定する。
(恋人か……)
想い人……。
彼女は夜空を見つめた。
(フォルスト)
この地へ来る事になるとは。
(アイザック叔父様……)
「……」
オヴェリアは苦笑した。そしてまた歩き出した。
廊下は所々にランプが灯されている。だが、暗い事に代わりはない。
(ソフィア様はお元気かしら)
アイザック・レン・カーネルの正妻、ソフィア。
きれいな方だったと、オヴェリアは思った。
――それ以上に、思う事は何もない。
ただ、彼女の胸を淡く苦い物が過ぎるのは。ただただひとえに。
「……」
彼女は歌を口ずさんだ。サンクトゥマリアの子守唄だ。
――それが、初恋だったがゆえに。
ふと。行く先に彼女は赤い布を見た。
扉に掛けられたその布は、暗い廊下にもよく映えていた。
「……」
そこは懺悔の部屋だと、カーキッドは言っていた。
何となく近寄り、そっとドアノブに手を掛けると。鍵は掛かっていなかった。
覗き込むとそこは、小さな小部屋。椅子が一つあるだけの場所だった。
窓も何もない。
そっと入る。ふと見えれば、壁面には小さな穴が幾つか開いていた。
(懺悔、か……)
――罪を告白する所さ。
「……私は、」
ポツリと口にする。
告解。
するべき事が彼女には、ある。
犯した罪。
「人を斬りました」
胸を苛む、重い重い楔。
「私は人を斬りました……1人2人ではありません」
夜な夜な見る悪夢。
うなされる光景。
夢の中でも剣を握り。
繰り返し、誰かを斬る。
「そうしなければ私が死んでいた。……でもそれは本当に正しかったのか……」
きっとカーキッドは気づいていると、オヴェリアはわかっていた。
うなされている事。
でも彼は何も言わない。
……それが答えだから。
「獣化した人……もう戻れる可能性が薄いからと……でも本当にそれは正しかったのか。他に方法は……」
答えは自分で見つけ出すしかないと。
己の心の傷は、自分でしか癒せない。
心の問題を解決できるのは。
自分自身だけなのだと。
「村人を襲った盗賊たちだってそう。殺されたから、殺した……でも人に、人を裁く権利などあるのか。誰においても、命を裁く権利など」
――カーキッドはないのですか? 神に懺悔したいような事が。
「私がしてきた事は、」
正しいのか、間違っているのか。
――あったとしても、神には赦 しは請わんよ。
「……」
――じゃあ、誰に?
――ははは
ああ、とオヴェリアは思った。
あの時カーキッドはあの時無言でこう言ったんだ。
自分自身に、と。
きっと、彼ならば。あの剣士ならば。
貫き通す、信念と。
揺るぎのない太刀筋が。
……例えそこに、後悔の念が生まれる事あろうとも。あの男は神には懺悔しない。
きっと。
己自身に、請う。
だって。
(自分を赦せるのは)
自分だけだから、と。
「……」
オヴェリアははたと黙り、しばらくして息を吐いた。
「神様」
誰も答えない、静寂の空間。
オヴェリアはそっと、目を開け言った。「いいえ、神様」
「ごめんなさい……ごめんなさい」
オヴェリアは首を横に振りながら、その言葉を繰り返し言った。
「道は、己で決めます」
迷う事は多いけれども。困難も多いけれども。
直面する選択はいつも、簡単でも単純でもないけれども。
出した答えが100%正しいと思える事はない、きっとそれはこれから先もずっとずっと。
だけど。
「神様」
――見ていてくださいますか?
赦しは請えない。きっとそれが答えだから。
神は何もしない。赦す事も赦さぬ事も。
ならばせめて。
「見ていてください」
目をそむけず。
この先、私がどれほどの罪にまみれて行こうとも。
どうぞ神よ、私を赦さなくてもいいから。
見ていてください。
この鼓動が止まる、その瞬間まで。
幾多の罪に、汚れてしまっても。
「神様、私を」
生きていくから。
死ぬその瞬間まで、迷いながら。
生きていくから。
「見ていてください」
見ていてくれる人がいるならば。
私は、とオヴェリアは思った。
(強くなるから)
負けないから。
必ず。
前を向いて、進んでいくから――。
◇
「あの馬鹿、どこ行きやがった」
カーキッドは、明らかに苛立った様子で辺りをキョロキョロと見回していた。
風呂へ行くと言って部屋を出て行ったのはいいが、オヴェリアの帰りがあまりに遅く。
(心配したわけじゃねぇ)
誰にともなくそう言い訳をし、風呂場まで行ったが。
そこにいた女性は、カーキッドをニヤニヤ顔で見つめ「お連れの方はもう部屋に戻られましたよ」。
戻ってねぇから探してんだ! 出かかった言葉は、何とか寸前で飲み込んだ。
「……俺は、お守りじぇねぇつってんだろうが!」
言いながらも懸命に探すカーキッド。
(嫌な予感がする)
理屈ではない。彼が持ち合わせる磨きぬいた第六感。
(どうもこの街は、きな臭ぇ)
角を曲がる。床板がキィと音を立てた。カーキッドはそれに何となく舌打ちをした。
そしてその前方に。赤い布の掛かった扉が見えてきた。
そう言えば、とカーキッドは思い出す。あの部屋は何かと、オヴェリアに聞かれたな。
ひょっとして……と思い、扉を開ける。
中は狭く暗い。そして誰もいなかった。
「どこ行きやがった」
ため息混じりにもう一度、そう呟いた時。
「あの方なら、礼拝堂の方に行かれましたよ」
ギクリ、とカーキッドは振り返った。
すると、赤い布の掛かった扉の横の壁が。スルリと開いた。
そしてそこから出てきたのは。
「……テメ」
「やぁ、どうも」
デュラン・フランシス。
その男であった。
「何でここにお前がいるんだ」
扉は閉じると、また壁になる。
よくよく見れば取っ手もあるが、一見にはわからぬ。そこは、告解部屋に隣接する部屋。司祭が懺悔を聞くための場所であった。
「いや、何となく。そこで考え事をしてたらね。隣の部屋に姫様が入ってくるものだから。私も少々驚きましたよ」
苦笑しながら眉尻を掻く神父に、カーキッドは吠えた。「そうじゃねぇ!」
「何でテメェが、この教会にいるんだ!」
「質問の意味がわかりませんな。教会ゆえに、です」
私がどこに属するか、あなた、理解できてますか? デュランは垂れ目の瞳に少々の呆れをにじませた。
カーキッドは一瞬「斬ろう」と思ったが、何とかこらえた。
「……お前、赤ん坊どうした? レイザランで、赤ん坊の術を解くつってただろうが」
出発は自分たちの方が早かった。なのになぜもう、ここにいるのか?
するとデュランは「そうそう」と壁に背をもたれさせた。
「赤ん坊の術払いはどうにか終わりました。……難儀はしましたがね。今は赤子の部屋と屋敷と町、3重に結界を張ってあります。少しはもつでしょう」
窓の外は闇。
たとえ今鴉が飛んでいても、見えない。
「それから取り急ぎやってきて、本日到着した次第」
「……」
「それにしてもあなた方は? 今日の夕刻ここに見えられましたな? ……まさかカーキッド、主らは森の道を通ったのでは?」
「……他に道があったのか」
デュランは苦笑した。「それはまた」
「それは随分な遠回りを。最短でレイザランからフォルストへは、ゆっくり歩いても2日あれば着けるのに」
カーキッドは歯をギリと噛み締めた。
「なら最初に教えとけ!」
「聞かれなかったし。それにお前、知った様子でズンズン歩いて行ったじゃないか?」
「……」
カーキッドは少し固まった。
その様子にデュランは吹き出したいのを必死にこらえた。まだ命が惜しかった。
「森の方から来たならば、途中、何の噂も聞かずにきたって事か?」
「噂?」
「ああ、この街の」
良からぬ噂。
「何だそりゃ」
風に、窓がガタガタと揺れた。
「まぁ、色々。とりあえず……フォルストには近寄らない方がいいと皆さんおっしゃいましたな」
「何?」
「私が聞いた話では、」
風が止めば、2人の声以外無音。
その静寂の中、
「フォルストに行くのなら、夜、建物の外には決して出てはいけない。それは、」
デュランが最後の一言を告げたのと、悲鳴が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「屍人 が、彷徨 っているから」
「――――!!」
ダンダンダンダン
ドンドンドンドン
何だこの音は!?
「何が始まった!?」
音は、
「礼拝堂からです!!」
カーキッドとデゥランは目を見合わせた。
「待て待て、オヴェリアはどこに行ったって?」
返答はあらず。まして不要。
2人、駆け出す。
「こっちです!!」
デュランが先を行き、カーキッドに道を示す。
廊下を走り、少し大きめの扉を蹴破るように抜けると。
――目に飛び込んでくる、淡い、赤・黄・青の光。
月の光が魅せる、ステンドグラスの仄かな輝き。
そしてその真下に。
「オヴェリア!!」
「カーキッド?」
彼女は呆然と立っていた。
その姿は白いローブ姿。髪は解き放たれている。近寄ると淡く、石鹸の軽やかな匂いがした。
良い匂いだ。カーキッドの心臓が、少し跳ねた。だがそれを振り払うように頭を横に振ると、彼はすべての念を押し殺す。
「何事だ」
「わかりません」
「オヴェリア様、ご無沙汰でございます」
顔を背けたカーキッドに対して、デュランは、
「デュラン様? なぜあなた様がここに? テリシャ様の御子は、」
彼女の質問を笑顔で受け流し、まずは手の甲に口付けた。
「良い香りだ」
「え」
「お美しい」
「……あ、ありがとう」
「オヴェリア、顔隠せ!! もう一回風呂に入りなおせ!!」
オヴェリアは嫌そうな顔をしたが、確かに、湯上りの彼女はランプの明かりだけのこの場所でも、頬をピンクに染めていつもと違う意味で美しかった。
うなじに張り付く髪と、ローブから覗く肌がさらに色気を出していたが、彼女が知る由もない。
デュランの熱っぽい目と、カーキッドの怒りをあらわにした目に、彼女は一瞬たじろいだが。
ドンドンドンと繰り返される音と、
「た、たすけてくれ!! 開けてくれ!!」
分厚い扉の向こうから聞こえてきたその声に。ハッと我を取り戻す。
「扉をっ! 誰かが、」
慌て2人にそう叫んだオヴェリアに。
「なりませぬ!」
そう告げたのは。
「扉は開けてはなりませぬ!!
息を切らした様子で走ってきた、司祭であった。
「司祭様、」
「開けてはなりません!」
オヴェリアは戸惑った。「しかし!」
「誰かが助けを、」
「駄目です、開けたら」
司祭は必死に言った。汗が首筋で光っていた。
「開けたら……開ける事はできません」
「何ゆえ!?」
そう言う間も、助けを求める声は止まない。
「鍵を早く!!」
「なりません!!」
「それは、」
司祭とオヴェリアの間に、デュランが入った。
「屍人 、ですかな?」
「――」
「しかばね……?」
「ここに来る途中、立ち寄った村で聞きました。フォルストは夜になると屍人がうろつき、人を見つけては食らいつくのだと」
「――ッ!!」
では、助けを求めているのは、
「扉を開けなさい!!」
オヴェリアはいよいよ叫んだ。「これは命令です!!」
「し、しかしそれでは、」
「救いを求める者を拒む事はせぬ、ではなかったのですか!!」
「――ッ」
オヴェリアは剣を構えた。「カーキッド、扉をッ!!」
カーキッドはニヤリと笑った。
「司祭殿、鍵を」
デュランがやや呆れた様子で司祭から鍵を受け取る。
「屍人は全員斬ります」
一歩たりともこの教会に、入れはしません。
「扉を――ッ!!!」
ギィィィ……。
開け放たれるは、漆黒の、世界へ。