『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第9章 『さらば、愛しき人よ』 −2−
碧の焔石は、青い光をたたえ。
奥底、静かに揺らめいている。
それを目にしたドーマは、初めてその目に驚愕の色を浮かべたが。
……やがて。
「あ、あ、」
カランと、剣を落とし。
「うぁ、あああぁあ」
頭を押さえ。
「クーン様!?」
「うぁあぁああああぁぁぁぁぁぁああぁあぁぁぁぁ」
もがき出した。
その隙をつき、カーキッドが2人の間に滑り入る。絨毯を上をのた打ち回る宰相目掛けて剣を突き出そうとしたその刹那。
「待て、カーキッド」
デュランがそれを止めた。
「これは、」
宰相ドーマの片目にされていた眼帯が弾け飛んだ。
そしてそこにあったのは。
「――」
鴉。
覆われたその向こう、普通ならば目がある場所から。鴉が首をもたげていたのである。
「チッ!!」
慌てて、カーキッドはオヴェリアの頭を自身の胸に押し付けた。「見るな!!」
「ラウナ・サンクトゥス、ラウナ・サンクトゥス、」
デュランが、ドーマの傍らで詠唱を始める。
ドーマがもがくたび、鴉が暴れる。中に入ろうと身をよじる。
「ひめ、サマッ……」
オヴェリアがカーキッドの腕の中でハッと顔を上げようとしたが。カーキッドはそれを許さなかった。
「石を、渡しては、ならぬ……」
「クーン様」
涙は。
俺の腕の中でこぼせと言わんばかりに。
カーキッドは強く強く彼女を抱きしめた。
「殿下を、とめて……」
「……テン・ライヤ、マギオーテ、ラスカルトラモンターナ」
「若さまを、とめて…………」
「神々よ、精霊よ、この哀れなる者に」
――悠久の安らぎを与えたまえ
デュランの最後の言葉と共に、彼がかざした護符が白い光を放った。
彼はそれを、ドーマの目に巣食った鴉に突きつけた。
その刹那、絶叫と共にドーマの目から鴉が飛び出した。
デュランはそれを逃しはしない。ピッと護符を飛ばす。
それは鴉とは到底思えないような呻き声を1つ上げ、焼かれるようにジュワっと消滅した。
……そして、鴉が去ったドーマの躯は。
「……」
デュランは持っていた布で彼の片目を丁寧に、手当てするように巻いた。
「姫」
それを合図にしたように、カーキッドの腕から解き放たれた彼女が見たドーマは。
「クーン様……」
笑っていた。
先ほどの悶えるような叫びの後とは思えぬほど。安らかな顔で。
神父は死者に祈りを捧げる。
すべてを終え、立ち上がった彼の顔に浮かんでいたのは、静かだが確かに怒りだった。
そしてカーキッドの視線に気づくと、デュランは眉間にしわを寄せてもう一度宰相の亡骸を見た。
「ドーマ殿は昨晩亡くなられた」
「……」
「だがその体に、術を成した輩がいる」
しかも性悪な術を。
「ギル・ティモ……ッ」
「ドーマの中に別の生き物を埋め込んで、動かすってのか?」
カーキッドはムナクソ悪そうに顔を歪める。
「どちらかと言えば、あれは……依り代だろう。奴の術を鴉と変えて、死人を操る」
「これが、街に徘徊する屍人の正体か?」
「だろうな。ただしあの時のそれは、完全に同化していた。……ドーマ様は死してなお、必死に拒み続けたのであろう」
恐ろしき術と、恐ろしき術者から。
その者はこの城のどこかにいる。
そしてその傍にいるのだ。アイザックも。ドーマがこのようになっても、容認したアイザックが。
オヴェリアはドーマを見た。唇を噛んだ。涙はこぼれた。せき止めていた物がいよいよ壊れたかのように。次に次にとあふれ出た。それをぬぐって、ぬぐってぬぐって。
「あちらに扉がある」
3人が入ってきた右脇に、扉が一つあった。そこにも鴉の絵が描かれていた。
カーキッドはそれを足で蹴り開ける。触りたくもないと言わんがばかりに。
「階段だ」
中を覗くと、ヒュゥと風の音がした。
それは下から上へ向かって吹いていた。まるで3人を誘っているかのような音だった。
「嫌な感じだな」
「オヴェリア様、大丈夫ですか?」
そっと掛けられた言葉に。オヴェリアは小さく頷いた。
「ありがとう。大丈夫」
「……」
「行きましょう」
言い、もう一度オヴェリアはドーマを見た。
そしてその手を、ドーマの目に当てた。
「……必ず」
あなた様の無念は。私が必ず。
一つギュッと目を閉じ、立ち上がる。
「俺が先に行く。油断すんなよ」
3人は螺旋になった階段を上っていく。
上を見れば遥かなる、階段は続いていた。
その途中で幾度か、分かれ道はあった。
各階フロア。1つ1つを、オヴェリアたちは探索した。
……謁見の間1つ上の階は兵士の詰め所のような部屋がいくつかあった。誰もいなかった。異変もなかった。
2つ上の階には書斎があった。様々な本が重厚な本棚に収められている。一応内容を確認したが、目を引くような物はなかった。カーキッドが「つまんねぇ本ばっかりだ」と言ったくらいだった。逆にデュランは、「2、3冊持って行きたいですな」と言っていたが。
3つ上の階には、豪華な扉がある部屋があった。扉の前には花も生けてあった。同じフロアにもう1つ、こちらには花はなかったが見事な調度品が飾られていた。絨毯も上質の、歩くと足音を吸い取ってしまうような物だった。恐らくはこの城の主の部屋だろうと思われた。
「そう言えば、」
と花の生けてある部屋の前まで来たとき、デュランが呟いた。
「領主アイザック・レン・カーネル卿には妻がいたはず……彼女はいずこでございましょうか」
「……」
オヴェリアはハッと顔を上げた。
「ソフィア様」
そう言えばここまでに、その名は一度も出てこなかった。不思議なほどに。
「死んでんじゃねぇか?」
茶化すようにカーキッドはそう言って笑ったが、他の2人にはとても冗談には聞こえなかった。
「……答えは恐らくこの先にございましょう」
「……」
「消えた街の人々、兵士、燃え上がる街……すべて」
答えを握っている者は、恐らくこの上にいる。
螺旋階段へ踏み出す。
頭上を見上げれば、もう終点が近い事が知れる。
階は恐らくあと1つ。
「……」
1つずつ、段を上っていく。
その中でオヴェリアの脳裏には、様々な事が過ぎった。
叔父と過ごした日の事。アイザックの笑顔とぬくもり。
そしてその言葉。
――オヴェリア、覚えておきなさい
この世には、どうしようもないという事がある
定めというものが、確かにあるという事を
(定め……)
ならば叔父上、とオヴェリアは心の中で問う。
これも、定めですか? と。
この街があのようになったのも。
あんなふうにクーン様が亡くなったのも。
そして、
(私が今、この階段を上っている事も)
すべてが。
定めだと、言うのですか?
――決断が待っていると、オヴェリアは思った。
真実に彼女がその決心をつける事を。
「この向こうか」
先に最後の扉へたどり着いたカーキッドが、小さく息を吐いた。
「おい神父、何か感じるか?」
オヴェリアの後ろからくるデュランに、彼は小声で言った。
「暗黒魔術とやらの波動」
「……わからん。強すぎて。波動はこの城を……街全体を包み込み、増してきている感じはする」
「そうかい。……まぁとにかく、この向こうか」
そうしてカーキッドはオヴェリアに向き直った。
「オヴェリア、いいな?」
そう問うてくるカーキッドに。
オヴェリアは彼の目を見、そして扉を見た。
「……カーキッド、」
「あん?」
「……定めというものがあると、思いますか?」
「?」
カーキッドは怪訝な顔をする。それは彼女の後ろに立つデュランも同じだった。
「この世には、誰にも覆せないような……定めというものが存在すると」
万物の意思によりて。
決められた道、決まった道が。
俯く彼女に、だがカーキッドは呆れた様子で鼻で笑った。
「馬鹿じぇねぇか?」
「え」
「定めだぁ? そんなもん、クソ食らえだ」
「……」
「開けるぞ。準備はいいか」
カーキッドがドアノブに手をやる。デュランも脇に控えた。
オヴェリアは息を呑んだ。
――忘れるな、オヴェリア。必ずいつか、すべてのことが意味を持つ
ならばこの扉を開けた向こうにある結末は。
彼女に何をもたらすのか。
……定めなどクソ食らえだと言った男の横顔は、アイザックのそれよりは優しくはなかったけれども。強い何かが満ち満ちているようだった。
そして。
ドンと、勢いよく扉は開け放たれた。
一瞬の間を置き、カーキッドが外へと飛び出す。続いてデュランが。
最後に出たオヴェリアが見たのは。
空。
……下から見た時城は一番上まで炎によって覆われているように見えたが。
ここだけは、炎の勢いから逃れているのか。わずかに陽炎が揺らめく程度で。
見える、空と、街。
炎立つ、フォルストの街並み。
……そしてそれを見下ろす男の背中も。
先ほどのドーマと同じように、こちらに背中を向けているが。だがその姿は黒いローブではない。
上質な赤と黒の飾りの入った騎士服。
だがそれは普通の騎士が着る物ではない。
由緒正しき家柄の。
誇り高き騎士が着るような。
豪華で、だが凛とした物。
その髪は、炎の色を受けて金に近い色となり輝いている。
オヴェリアは胸が詰まった。その姿は、記憶の中にある一人の人物と重なった。
「叔父上……」
アイザック・レン・カーネル。
その人は。オヴェリアの声に反応したようにこちらを振り返り。
3人の姿を見て少し笑った。
「最後まで、我に歯向かったか」
カーキッドが剣を抜く。
「その心根は見事。……宰相ドーマ」
「あんたがカーネル卿かい?」
デュランも護符を持ち、腕を構える。傷だらけのキャソックが、風に一つ翻った。
アイザックはカーキッドの問いには答えず、チラリとデュランを見た。
「あの傷で生き残ったか。これも見事」
「……お蔭様で。随分手荒な技を使いましたがね」
「見事見事」
言い、アイザックは笑った。それに合わせるように、彼の背後で揺らめいていた陽炎 から炎が1つ2つ立ち上った。
そして。
アイザックは最後に、彼女を見た。
2人の1歩後ろに控えるオヴェリアを。
「……」
「……」
アイザックの婚儀の折より、6年。
ようやく重なった、2つの瞳。
だがあの時の誰が思ったであろう。
6年かかって交わった2つの目が。
このような形になろうとは。
オヴェリアはアイザックを見据えたまま、懐から石を取り出した。
「オヴェリア様ッ」
それにデュランが驚愕の声を上げたが、構わなかった。
「叔父上」
「……」
「叔父上がお求めは、この石ですか?」
「……」
碧の焔石。
それを認め、アイザックは少し微笑んだ。「ああ、オヴェリア」
「私のために、この地へ持ち寄ってくれたか」
「これがどういった石か、」
ご存知ですか?
「竜の命を宿すという石」
覗けば揺らめく、金の焔。
「砕けば炎があふれ出し、地は焦土と化すと」
「そう言われておるな」
「叔父上、これをどうされるおつもりですか?」
「……」
――運命が、何を望んでいるか。
「何のためにこれを求められるのですか?」
宿命が、何を待っているのか。
彼女に何を決断させようとしているのか。
「……お前には関係ない」
「いいえ、叔父上」
いやそもそも。
これは、決まっていた事なのか?
どこでどの選択をして。
誰が何の道を示して。
今のここが、あるのか。
「レイザランの領主、ラーク公は獣となって亡くなりました」
「……」
「その御子には死の呪いが掛けられていた。そしてドーマ様は」
「……」
「クーン様を、あのような事」
「それを渡しなさい、オヴェリア」
――だが。何よりも。今見なければならないのは。
直面した現実。
この現実。
ここで下す決断は。
誰の物でもない。
誰の指図でもない。
誰が意図するものでもなく。
唯一つ。
己の心のみ。
「オヴェリア、さぁ、石を」
「渡しません」
――下すのは神ではない。
道は、自分で、決めて行く。
「ふぉっふぉ、面白き余興」
地に響くようなその声に、オヴェリアたちはハッと声の方向を見た。
3人の側面、揺らぐ炎の中から一欠片 黒いススが舞ったかと思うと。それはすぐさま膨れ上がり。
その中に人を含んで、黒いローブと姿を変えた。
「王女オヴェリア、石持ちし姫君」
「……そなたは」
「ようこそ、この、炎獄の城へ」
口元だけ出たそのローブ、欠けた歯の向こうには闇があった。
「ギル・ティモ」
デュランの呟きにオヴェリアは目を細めた。
「そなたが噂の魔術師か」
「噂? 噂? ヒェッヘッヘ、姫様にご存知いただいておるとは、恐悦至極候そーろぅ」
言いまた笑う。カーキッドが漆黒の剣を向けた。
「るっせぇ」
「兎にも角にも、石じゃ。その石寄越せ」
「渡さぬ」
「主の意志など、知らぬ存じぬ」
オヴェリアは剣を抜いた。
「ドーマ様をあのようにしたのは、お前か」
「どーま? ああ、あの宰相か?」
「そしてドーマ様を殺したのは、」
「ヒェッヘッヘ、殺したのはお前らじゃ」
言い、笑う。
デュランがそちらに護符を突きつけた。
「人の宿命は、1度の生と1度の死。ただそれだけと私は考える」
「……ほぅぅ?」
「それが絶対。それを、2度の死を味合わせるお前の業は、許されるものではない」
「ハッハッ!!」
「街に徘徊した屍人も、お前の仕業だな」
「……屍人だぁ? 的は射ているが、兵士に向かってひどい呼び名じゃ」
「兵士?」
「魔道師ギル・ティモ、この街の人々はどうした!? この城の兵士をいずこへやった!?」
オヴェリアとデュランの質問に。
ギル・ティモは少し呆れた様子で肩をすくめて見せた。
「街の人間? この城の兵士ども?」
そんなもの。
「見ておるじゃろ、主ら」
ずっと。
目の前に。
「え……」
オヴェリアは不思議そうに目を見開いたが。
デュランとカーキッドは、その言葉の意味を汲み取り。
「まさか、炎か」
「……!」
オヴェリアは真実に、言葉を失った。
「街を焼く炎、城を焼く炎……それは、」
ここにいた人々の。
変わり果てた、姿だと。
「ご明察ご明察」
ギル・ティモは手を叩いた。「よぉくできましたな」
「さすがはラッセル・ファーネリアの弟子」
「――ッ」
「よく燃える。人の命は焔同然。少しわしが手を下さば、これほどきれいな色をして燃える」
美しいじゃろ? とギル・ティモは炎を指した。
「貴様ッ……!」
「まぁこれは簡単な術ゆえに。わしが逝ねば簡単に解かれるがな」
「……!」
「人々を元に戻したくば? わしを殺してみせよ? ヒェッヘッヘ」
できるかなぁ? 若き戦士たちよ?
オヴェリアは我知らず、その形のいい唇を噛み締めていた。
「叔父上」
オヴェリアはアイザックに目を向け、言った。
「これは、あなたが本当に望んでいる事なのですか?」
その目には涙が浮かんでいた。
アイザックは答えなかった。
代わりに、辺りに不気味な声が鳴り響く。
――жсжбюаишжбоеи
「ラウナ・サンクトゥス、ラウナ・サンクトゥス、」
デュランがオヴェリアの前に、彼女をかばうように立ちふさがる。
「叔父上ッ!!!!」
その声を合図として。
そこに戦いは、幕を開ける。