『 白薔薇の剣 』
−最終王女、騎士録−
<第2部>
第10章 『水の魔術師』 −1−
――僕はあの時、言わなければいけなかった。
大声を上げて、叫ばなければいけなかった。
それは間違ってると。父さんと母さんはそんな事しないと。
だけど僕は凍りついたように立ちすくむだけで。
ただ、
むしろ叫ぶ2人の声を呆然と聞き続けるばかりだった。
『その子は関係ない!!』
『すぐに戻るから。いい子にしてて。ね?』
……でも。
何時間待っても、何日待っても。2人は戻ってこなかった。
二度と、2人には会えなかった。
その後たくさんの人がやってきて、書斎の本棚も何もかも洗いざらい持っていかれてしまったけれども。
……破り捨てられていた1枚の紙を、僕はそっと拾ってポケットに隠した。
大好きだった父さんの、見慣れた文字。
そこに殴り書かれていたのと同じ言葉を、僕は何度父さんから聞かされただろう?
もうその話は僕の心の中にしかなくて。父さんからは二度と直接聞く事できない物語。
そう、それは。
――その日私は、竜に会った。
10
太陽が落ちた。
夕闇が世界を染めている。
その闇の中で、太陽が残した最後の光を頼りに、人々は今日に別れを告げる準備を始めている。
その赤い光は世界を一時、鮮やかに染め上げ.
空を美しく彩る。
闇と光が混ざり合い奏でる、ひと時の協奏曲のように。
「きれいですね」
その空を見ながら、少年は素直にそう言った。
少年の連れの老人は「そうだの」と呟き、空とそれを見上げる少年の横顔を眺め見た。
「お待たせしました、出発します」
その間に、御者がランプに火を点け終える。馬車がジワリと動き出す。
「直に町だ」
「はい」
少年は窓の向こうの空を眺めた。
硝子ははめられていない。吹きさらしのそこからは、風と、草木の匂いが飛び込んでくる。
(少し、雨の匂いがする)
そう思って空を見上げたが、雲は多くない。
少年は透かすように空を見上げ、やがて視線を内へと戻した。
――乗り合い馬車であった。
街道を行くこの馬車に、乗客はそれなりに多かった。立ち乗り客がいるほどではないが、グルリと縁取るように設けられた座席に余裕があるといった様子でもない。
そして乗りあう客の姿も色々だ。行商人もいれば、ただぶらりと町から飛び出してきただけのような者もいる。大荷物を抱えた者もいれば、剣を携え鎧を身にまとったような者も。男もいれば女も、老人も子供もいる。
だが一様にどこか影があるように見えるのは、夕の光のせいであろうか?
(きっと僕も)
周りの人から見れば、影があるように見えるのだろう。儚げに映るのだろう。
「皆、どこへ行くんでしょう」
馬車が向かう先は同じだけれども。
皆、どこを目指しているのだろうかと少年は思った。
少年は窓に目を戻した。
向かいに座る俯いた戦士の向こうの空は、灰色の雲が紅蓮の空に散らばっていた。
「ドォオオオオオ!!」
走り出して間もなく。馬車が、突如として大きく揺れた。
右へ倒れこむような揺さぶりに、全員が座席から投げ出された。
「止まれェェェェ!!!」
馬の鳴き声と共に聞こえたのはその声。
「大丈夫か、マルコ」
はい先生。答えようとして、少年は錆の味がする事に気づく。座席から放り出された時に口の中を切ったようだった。
「大人しくしろッ!! 動くなッッ!!」
「盗賊だ……」
誰かが呟いた。それに慌てて少年は窓の外を覗き見た。黒い身なりの集団が見えた。茶色い馬にまたがっている。
他の窓を振り返っても様相は同じ。囲まれている。
「全員大人しく出て来い!! 後ろの荷台の積荷を開けろ!!」
「ま、待ってくださいませ、それはッ」
「うるせぇ!!」
悲鳴が聞こえた。絶叫と言った方がいいだろうか。
それに少年は「ヒッ…」と肩を震わせた。
「先生ッ、」
「……」
「全員降りろッ!! 早くしろッ!!」
――盗賊に馬車が襲われる事は、少なくはない。
多くは荷馬車。積荷を狙って、行商のそれが襲われたという話は常に流れている。大商人の物ならば護衛もついているが、そんな者を雇う余裕のない商人の物は、道で襲われればひとたまりもない。
だがこれは乗り合いの馬車だ。確かに馬車の後ろには1つ荷台がついていたが、商人が運ぶ物とはわけが違う。
かといってもちろん、乗合馬車が襲われた事がないというわけではない。奴隷商人などがこういった馬車を狙う事もままあるのだ。
「キャァァアア!!!」
叫び声に少年は驚き振り返る。と、馬車の戸が無理矢理開けられた所であった。
「騒ぐな」
窓からも、人が飛び乗ってこようとしている。
「マルコ、こちらへ」
「せ、せんせ」
投げ出された少年と老人の間には、1mほどの感覚がある。老人が必死の形相でそう言ったが、少年は動けなかった。小刻みに震える事はできているというのに。
「ガキとジジィと……お! 女がいるな」
「女子供は傷つけるな! 男は殺せ」
だが動けないのは他の者も同じ。踏み入ってきた賊に、ほとんどの人間は固まったままその姿を見ていた。
そう、ほとんどの人間≠ェ。
「ん?」
「へへへ」
「貴様は……剣士か? 騎士じゃねぇな? 動くな、動けばこいつら皆殺しにするぞ!!」
――皆、座席から放り出されたままの状態の中。
2人の人間だけが、すでに身を起こし、体勢を立て直している。
盗賊は、そのうちの1人に早口でそう言った。言われたその男≠ヘただ、ニヤリと笑った。
何やら、至極、面白そうに。
それに賊は癇に障ったように眉を吊り上げたが。すぐに、「おい!!」
「隣にいるお前!! 顔出せ!!」
「……」
「顔を見せろと言ってる!!」
「……」
首元のマフラーを暑苦しいまでに引き上げ、半分以上顔を覆ったその者。
見た目は戦士。
マントの下の白い鎧が、夕の光に桃色に光っている。
「聞こえねぇのか!! 顔を出せと言ってるだろうが!!」
反応見せぬその白き鎧の者に激怒した賊が、そのマフラーを無理に引き剥がそうとしたその刹那。
「無礼者」
その手を振り払い、白い鎧は立ち上がった。
「カーキッド、これ以上は我慢ならぬ」
「……へぇへぇ。どうぞご勝手に」
「な、何だ何だテメェらは!」
――誰に言われずとも、誰の手を借りなくとも。
時がくればマフラーなど用はない。
かなぐり捨てる、その面は白日にさらされる。それに周りは息を呑む。
「女……!?」
「貴公らの行動、許される物ではない」
金の髪は黄金に燃え立ち。
青の瞳はもまた、赤の光を帯びて煉獄のごとく光を解き放つ。
そして彼女が抜いたその剣の柄には。
白い薔薇がキラリと。吠えるごとく。
「武器を捨て、投降せよ。さすれば見逃す」
輝いていた。
「な、何だテメェは」
「女剣士だ!! 上物だぞ!!」
「捕まえろ!! こりゃ高く売れるぞ!!!」
投降の様子、なし。
回答を求める気にならなかった彼女は、剣を構えた。
「カーキッド、やる気がないなら、乗客の守護を」
「あん?」
彼はそれに少しだけ笑い、ゆったりとした様子で立ち上がった。
「誰がやる気がないつった?」
そして、その黒塗りの剣をザラリと抜いた。
その様子をチラと振り向き、彼女――オヴェリアは少し笑みを浮かべた。
「斬るぞ」
「殺生は無用」
「まだ言うか」
「――男は斬れッ!!!」
言うなり、まず馬車に乗り込んでいた賊がオヴェリアに向かって斬りかかっていた。獲物はタガーだ。少し短めの、だが刃が太い。斬られれば肉が裂けるのは必定。
だが。それがオヴェリアに届くよりずっと早く。
カーキッドが放つ剣が、その腹をくの字に割る。
賊は人とは思えぬ呻き声を上げて、そのまま馬車の外まで吹っ飛ばされた。
「あーあ、やだやだ。男女差別」
軽くため息を吐きながら、カーキッドはそれを追って馬車の外へ出た。オヴェリアは、窓から侵入しようとしていた盗賊の顔面へと剣の腹を叩き入れる。
「窓のないあちらへ!! 動かず待機をッ!! ここは我々が!!」
指示を出し、窓から外へと飛び出した。
そこを囲む盗賊賊の数、5人。
「こりゃ確かに上玉だ!!」
どよめく一同に、オヴェリアは眉根に力を込めた。
「やめとけ。そいつはそんじょそこらの男よりずっと性質 が悪いぞ」
そんな彼らに説いて聞かせるカーキッドの足元には、すでに2、3人転がっている。
「見た目だけは、お人形さんみたいだけどな」
言いながら、飛び掛ってきた盗賊の刃を軽いステップで避け、その背中を思い切り蹴飛ばす。
「だけ、とは何ですか」
オヴェリアは、打ち方をあぐねている盗賊に向かって猛然ダッシュした。
迎える賊に一瞬の躊躇いが浮かぶ。そんな物があって、彼女の剣が受けきれるわけがない。
剣は前から入る。だが狙われた者は、足の激痛に地面に転がり込んだ。
「だけ、だろうが」
「無礼な」
「あれだけ男を次から次へと打ち負かした奴が、よく言う」
「……ッ」
言葉に詰まりながらも、彼女の剣が鈍る事はない。
右から左から斬りつけてくる者達を、風のような身のこなしでかわし、薙ぎ、堕としていく。
崩れながら盗賊は思う。自分は今、何をされたのかと。どこから何を打ち込まれたのかと。
「クソ、護衛をつけてやがった!! 2人とも斬れ!!」
残った盗賊のうちの1人がそう叫んだが、カーキッドは心外そうに目を見張った。
「馬鹿野郎、こっちは完全なタダ働きだッ!!」
こうなりゃ全員ブチのめして、御者から礼金ふんだくってやる。カーキッドがそう決心した時。
振り返り様に1人をのしたオヴェリアが、そこに見た光景に息を呑んだ。
「カーキッド!! 火が!!」
馬車に吊るされていたランプが砕け、火が、草木に燃え移っていた。
その一端が馬車にまで及んでいる。オヴェリアは急ぎ、馬車へと飛び乗った。
「外へッ!!」
彼女の背中を追いかけようとしていた1人の背中を回し蹴りし、もう一人を柄で顔面叩き割りながら。
「あーあ、面倒くせぇ展開だ」
カーキッドは欠伸をして見せた。
「どっちを選ぶ?」
寝ぼけたように振舞うカーキッドが、次に盗賊へ向けた瞳は。
ギラリと深い、刃のごとく。
「炎に巻かれて死ぬか、斬られて死ぬか」
選ばせてやるよ。言いながら再び、黒の剣を構えるカーキッドに。
残った盗賊数名は、最終的に転がるように彼に背を向け去っていった。
カーキッドはそれを追わなかった。ただ、舌を打った。
オヴェリアに追い立てられて、乗客たちが馬車から這い出てくる。
それを横目にしながら、カーキッドは伏して呻いている盗賊の髪を掴んだ。
「おい、誰の差し金だ」
「……」
「……チ。もういい」
その身なりといい、腕前といい、これまで彼らを狙ってきた暗殺者達とは違う。
カーキッドはもう一度その者を蹴飛ばして、オヴェリアへと向かった。
「ズラかるぞ」
乗客たちは蜘蛛の子を散らすごとく逃げていく。
火は草から木へ、街道を包む森へと広がっていこうとしている。ここは間もなく火に飲まれるだろう。
「オヴェリア」
少女を促し叫ぶカーキッドに。彼女はだが凛然と炎を見つめ言った。
「このままにはしておけません」
「あん?」
「このままでは、この森は死んでしまう」
しかし炎はすでに高くなろうとしている。煙が辺りに立ち込め、オヴェリア自身咳き込み始めた。
「馬鹿言ってないで逃げるぞ」
「火を消さねば、この者たちも危ない」
伏した盗賊たち。
カーキッドがのした者は特に。今までの経験から、このカーキッドが、生かしておいても再び動けるようにしているわけがない。骨が砕け、その場を一歩も動けないような者ばかりがここには転がっている。
「放っておけ」
そう言ったカーキッドに対して、オヴェリアは自身のマントを脱ぎ始めた。
「何始める気だボケ!!」
「火を、」
「そのマントがどんな物か、お前わかって言ってんのか!?」
カーキッドは血相を変えた。彼女のマントは先日フォルストの神父にもらった物。ラシルという皮で、そこらの市場で見かけられるものではない。まして運良く見かけても、早々気安く買えるような物ではないのだ。
「ダメだオヴェリア。そのマントはダメだ」
「ではどうやって火を消すと? 一刻の猶予もありません!!」
その眼光に、カーキッドでさえも一瞬たじろぐ。
逃げるべき。この炎は手に負えない。どうする? オヴェリアを担いでこの場を離れるか?
カーキッドは考え、オヴェリアの腕を取った。そのまま抱ええてしまおうとしたが。
「――ッ」
「ちょ、カーキッド!?」
その顔が怪訝に見開かれる。
だがオヴェリアがカーキッドのその顔を見る事はなかった。なぜなら。
「炎は私が消しましょう」
その声に振り返ったから。
「あなたは……」
老人。傍らに少年が1人、老人の背に隠れるように怯えた目をして立っている。
「少し下がってください」
言うなり。老人はピっと炎に向けて杖をかざした。
「――――」
その口元が微かに動いていたが、オヴェリアは彼が何を言っているのかわからなかった。
だが次の光景は理解できた。
風が吹いたのを。
辺りがキラキラと光ったのを。
その光が吸い込まれるようにその杖に向かって集い。
弾けて。
次の瞬間地面から水柱が立ち上ったのを。
「ッ!!」
地表から吹き上げる水。それは天高くのぼり。
火を、一瞬にして消し飛ばしてしまった。
……火を飲み込んだ水は雨のように大地に再び降り注ぎ。オヴェリアたちにもそれは降りかかった。
煙の匂いのする、苦い、雨だった。
「あなたは……」
見た光景に呆然としながら、オヴェリアは老人に問うた。
老人は目じりにしわを寄せ、苦笑した。
「濡れてしまわれた。申し訳ない」
中でもとりわけ水の被害に遭ったカーキッドは、ズブ濡れの状態で言葉もないまま立ち尽くしている。
「町は直です。とにかくそちらへ参りましょう」
カーキッドが巨大なクシャミをした。伝染したようにオヴェリアも、クシュンとかわいく息を吐いた。
あれほどの夕の光を放っていた空が、今は完全に闇に落ちている。
火は消えた。
オヴェリアは空を見て安堵を覚えながら。
もう一度、クシュンとクシャミをこぼした。