『 白薔薇の剣 』
−最終王女、騎士録−
第10章 『水の魔術師』 −2−
「助かりました、改めて礼を申します」
「いえいえ、それはこちらの方でございます。危ない所を本当に。あなた方がおらねばどうなっていたか。良き方たちと乗り合わせました」
老人はそう言って笑ったが、オヴェリアはどうだろうか? と思った。
自分達がいなくても、この老人がいればどうにかなったのではないだろうか? オヴェリアは横目でカーキッドを見たが、彼はそ知らぬ顔で料理をつついていた。
――町である。
盗賊の襲撃された場所より30分ほど歩いた先に、この町はあった。
老人と少年、そして先に逃げていた馬車に乗り合わせた者とも合流して、歩きここまで至った。町の者に盗賊に襲われた事を話した所、すぐに、駐屯の兵士が現場を見に行った様子だった。
そこに加わる事はせず、オヴェリアたちは宿を取り、とりあえず濡れた衣服を脱いだ。湯浴みをし、今は宿で借りた部屋着を身にまとっている。
そして老人に誘われ、共に食事をしているのだが。
カーキッドがクシャミをした。さっきから連発している。風邪を引いたのかもしれないとオヴェリアは思った。
「大丈夫?」
「……で? あんた何もんだい?」
オヴェリアの声を無視し、カーキッドは肉を頬張りながら聞いた。
「どこぞの名だたる魔術師か?」
「そんな大それた者ではございません」
老人は薄くなった頭部を掻きながら、苦笑を浮かべた。
「ここから南西にある町で、子供達に魔術を教えている者です」
「へぇ、魔術学校の先生かい」
そんな大業な物でもないですがね、と老人は笑った。
「申し送れました。私はレトゥ。この子はマルコと申します」
マルコと紹介された少年は少し頷いて、すぐにオヴェリアたちから目を逸らした。
「あなたも……魔術を習っているの?」
「……」
「そう……」
無言で頷き下を向いたままの少年を、オヴェリアは少しの間見ていた。
「しかしこのご時世、魔術を子供に説いてやる輩がいるとはね……」
――魔術。
大地の理を理解し、その力を特殊な媒体式に乗せて形成、具現化させる呪術である。
その方式は様々。神父・デュラン・フランシスのように言葉や言語を紙に書いたものを使う方法もあれば、大地に刻む方法もある。
音∞文字∞形∞数式∞天候≠るいはある種の道具=B
多々ある具現方法において専ら難易度が高いとされるのが音=B特にある一定の言葉を口から放つだけで術を成り立たせる事ができるのは、相当の達人と言える。それも、それが短ければ短いほど、その術者の腕前が伺える。
ただしこれも、個々の相性は存在する。
いかに秀でた術者とて、音≠ノ相性が悪ければ口頭での術の発動はできない。この世には、同じ術でも音≠ナは無理でも文字≠ニすれば使える術者はいくらでもいる。
……そして、そうした教育を行っている主な機関は。
教会。
聖サンクトゥマリア大教会を中心とした、国内最大の宗教組織。
「私は元々教会に属しておりましてな。末端ですが、魔術教練所で講師を勤めておりました」
「元々は……って事は、今は違うと?」
「数年前に。サンクトゥマリア教会まで行けぬが勉学に励みたい子供達のためにと、教会の許可をいただいてやっております」
「へぇ……」
「ですが実際には魔術の指南よりこの世の理、歴史、経済、土地の成り立ちなどの勉学が主ですかな。どれほど学びの心があろうとも、実際に魔術を操る才があるのは極々稀」
――ハーランド王家にもお抱えの魔術団はある。
だがその数は極々少数。その数はとても、騎士団には到底及ばない。
魔術を操る事、言語を理解し世界を理解し、そして自分が最も相性のいい媒体を見つけだし、技を極める。
華々しい世界ではあるがその道はあまりにも険しい。生涯を尽くしても極めつくせる物ではないのだろう。
「レトゥ様は言語のみで術を操ってみえた。相当の使い手とお見受けしました」
「カイン様も魔術を?」
この老人と少年に、オヴェリアは自らの名をカイン・ウォルツと名乗っていた。
「幼少の頃、両親の勧めで少しだけ。でも開花できるような物はありませんでした」
「そうですか。ですがあなた方は私の術に動じなかった。常人ならばもっと驚かれたでしょう。どこかで魔術を見た事が?」
その問いにオヴェリアとカーキッドは目を合わせ、「ちょっと、な」と言った。
「それで、カイン様とカーキッド様はこれからどちらへ?」
「所用でエンドリアへ向かってる」
エンドリアはこの北の地。
そこから東へ、海を横断してまた北へ。
その先にあるのだ、2人が目指す場所が。
――ゴルディア。
黒い竜が現れたと言われる場所が。
「エンドリアですか……先日竜巻騒ぎがあったと聞きましたが。道も少々荒れてるかもしれませんな」
「ジィさんたちは? 南西の町から来たつったよな?」
その問いは、話のついで。カーキッド、何気に聞いた物であったが。
それには答えずニコリと笑って。レトゥはゆっくりとした口調で言った。
「この町の滞在は?」
「……明日食料調達して、遅くても明後日の朝には立とうと思ってる」
「左様ですか。……荷物整えられたら、早々にこの町を去らるのがいい」
「……? レトゥ様?」
「雨が、迫っております。直に嵐が来るかもしれません」
そう言い、レトゥは少しまた笑った。
それにオヴェリアは曖昧に笑って見せたが。
彼女が気になったのは老人の横に座る少年。
彼はずっと皿の料理を見ていた。
睨むように。
手をつけるわけではなくずっと。顔を上げる事もなく。
◇
「今日はゆっくり眠れ。明朝出立する」
ひと時の食事を終えて部屋に戻るなり、カーキッドはそう言った。
「え? 先ほどは明日は食料の調達をすると言っていたではないですか?」
「気が変わった」
レトゥとマルコも同じ宿であったが、彼らの部屋は1階の奥。オヴェリアたちは2階だった。
そして例によってまたしても、2人、同じ部屋である。
「そんな。まだ2人にまともに挨拶をしていないのに」
「明日の朝すりゃいいだろ」
「……」
「……あんだよ、その目は」
じっと見つめるその青い瞳に。異国で鬼神≠ニ呼ばれたほどの男が一瞬たじろぐ。
「何だってんだ」
「……何かある、そう思ったのでしょう?」
「あん?」
「あの2人の事です」
言われ少し眉にしわを寄せたカーキッドだったが。すぐに顔を背けた。「知らねぇよ」
「いいから、さっさと寝ろ」
カーキッドは言うなりシャツを脱ぎ捨てた。それにオヴェリアは悲鳴を上げて顔を手で覆う。
「勝手に裸にならないでください!!」
「うっせぇ。俺がどこで脱ぎ着しようが、お前には関係ねぇ」
「充分あります!!」
言い置き、オヴェリアは赤面しながら布団に潜り込んだ。
「もうっ、嫌っ」
「そーかいそーかい。さっさと寝ろ」
ニヒヒと笑って、カーキッドは布団に潜り込んだオヴェリアを見た。そして小さなランプの下で剣を抜き磨き始めた。
隙間風だろうか、ランプの炎が仄かに揺れる。
カーキッドは息を吐いた。それには炎はピクリともしなかった。
「……ねぇ、カーキッド」
「あん? 寝てねぇのかよ」
「そんなにすぐには眠れません」
ゴソゴソと音がする。頭まで布団をかぶったまま、オヴェリアはカーキッドの方を向いた。
「そんなに寝て欲しかったら、子守歌を歌って?」
「……誰が?」
「ダメ?」
「……てめぇで歌え」
「それじゃ眠れません」
剣が曇ってる。少し刃が欠けている。研ぎに出さなければならない。
小さな光の中それを見極め、カーキッドは嘆息を吐く。
「カーキッド、」
「あん?」
「……」
「……」
――フォルストを出たのは3日前。
そしてあの地に王都よりの第一報が届いたのは、2人がデュランと別れてから2日後の事だった。
書簡は城へ。そして教会にいるオヴェリアへ2通、もたらされた。
それを見届けオヴェリアたちは旅に出た。王都より兵が派遣されたのは、その後の事である。
よって、オヴェリアたちの傷はまだ完全には癒えてはいない。デュランが2人のために置いて行った薬は、魔術によるものか、普通よりは数段傷の癒えは早い。それでもまだ2人の体には布がいくらか巻きつけてある。カーキッドの右腕にも、肘から手首にかけて巻いた布はフォルストを出てから未だ取れない。
そして癒えぬのは体の傷だけではなく。
「……」
アイザック・レン・カーネル。フォルストで戦ったあの男。
オヴェリアの叔父。その行方が知れない事と、彼が言った言葉。それがオヴェリアをずっと悩ましている事をカーキッドは知っている。
――お前の父は、母を殺したのだ!
――私は父を信じます!
カーキッドはもう一度息を吐いた。諦めに似たような吐息だった。
「エンドリアは湾沿いの町だ。うまい食べ物がある」
「……」
「お前が見た事ないような魚もいるぞ」
「……魚?」
「ああ、それに交易港だからな、食い物だけじゃない、色んな人や物で溢れてるさ。面白いぞ」
「……カーキッド、」
「明日経つ。食料を調達してそのまま行く。エンドリアに着けるのを楽しみにしとけ」
「……」
あと……それから。カーキッドは言葉を探す。
「エンドリアから船に乗って北へ行けば、ゴルディアまでは目と鼻の先だ」
そこまで言って一呼吸置き、決したようにカーキッドは言った。
「お前には言ってなかったが。……俺は実は、昔一度ゴルディアに行った事があるんだ」
この沈黙と夜陰に紛れて。
言ってしまおう、そう思ったけれども。
「……」
「……、オヴェリア?」
「……」
「……」
「……」
「…………寝てやがる」
やれやれと、カーキッドは息を漏らした。
「てめぇなら、歌いながらでも眠れるさ」
頭はかぶっているが、背中は丸々出ている。カーキッドはオヴェリアが眠る寝台に寄り、布団をかけ直してやった。寝息とあどけない寝顔が中から顔を出す。
「ん……」
「俺はお前の母ちゃんじゃねぇぞ」
「……」
「ったくよぉ」
おやすみ、と呟き再び自身の寝台に戻り、剣を手にしかけ。
カーキッドは、包帯の巻かれた腕を見た。
「……」
やがて剣を取り、もう一度。その刃を見る。
――その部屋の明かりが消えるのは、もう少し後の事であった。
肌寒さで目が覚めた。
「……」
朝かしら、とオヴェリアは重い目をこすって窓を見る。まだ外は暗かった。
カーキッドは? 旅に出てついてしまった習慣。起きて最初にカーキッドの姿を探す事。
隣の寝台を覗く。だがそこに彼はいなかった。
用でも足しに言ったのかと思ったけれども。同時に、彼の剣もない事に気づく。
オヴェリアは少し心配になり、布団から這い出た。少し寒かった。
一瞬置いて行かれたのかとも思ったが、剣の他の荷物は残っている。
オヴェリアは戸口を見た。
心臓が、なぜか早鐘に打った。
(待っていれば戻ってくる)
ここにいればいいと思う。……だが。
何となく嫌な予感を覚え、オヴェリアは上着を取った。まだ少し湿っぽかったが、構わず羽織る。
そのまま部屋を出ようとしたが、一瞬考え。
立てかけてあった白薔薇の剣を振り返る。
(まさか、何事もないとは思うけれども)
念のためにと掴んで、部屋を出る。
廊下は暗かった。
(確か洗面所は1階に)
城にいた頃は夜だろうが明かりは絶える事なかった。だがここは城ではない。そしてこういう所にも少し慣れた。
目は直に慣れてくる。
輪郭と記憶を頼りに、階下へと降りていく。
じゅうたんの軽い弾力に、靴が少し沈む。
もちろん城や、彼女が使っていた部屋に敷いてあったそれとは雲泥の差だ。厚みも違う。
それでも、足に優しい。1枚敷いてあるだけでも足は喜ぶ。心がほっとする。
(私は変わったかもしれない)
階段を下りながら、オヴェリアは思った。
旅に出て、もう1ヶ月になろうとしている。
その間生活は一変した。野宿もしたし、宿とは言えないような場所でも休んだ。
だがそれでも、岩肌で眠るのと建物で眠るのは雲泥の差。
あの城がいかに、過ぎるほどの場所であったのか。人々がどういう所でどのように暮らしているのか。
生活も料理も待遇も、何もかも違う。それでも。
人々は笑っている。たとえそれが、王族、貴族、そうした者から比べれば幸福とも呼べぬ状態の中でも。
それでも、皆、その中に幸せを見つけて過ごしている。
――宿の階段はあっという間に下へとたどり着く。
途端、いい匂いが鼻をついた。焼き立てのパンの匂いだ。
生活の匂い、そして音がする。
朝が、今日がまた、始まろうとしている。
「……」
そうして見ると、窓の外の空が先ほどよりは白んできているように見えた。
パンの匂いに誘われるように、オヴェリアのお腹が鳴った。
ここにフェリーナがいたら「まぁ大変! 姫様、少々お待ちくださいませ!」と大騒ぎして、厨房に朝食の準備をせっつきに走るだろう。もしかしたら自分でパンケーキを焼いてくるかもしれない。
そう思いクスクスと笑う。
(フェリーナは元気かしら)
フォルストにいた時、父への文と共にフェリーナにも1通手紙を書いた。
その返事は、それより数日後ハーランドからの使者によってもたらされた。
少し慌ててように文字は乱れていたが、小さな女の子らしい文字は確かにフェリーナの物。ひたすらに、オヴェリアの安否を気遣う文章だった。
城は変わりないから。とにかく無事に早く帰ってきて欲しいと。何なら今すぐにでも。竜退治なんてどうでもいいからと。
(そうはいかないの、フェリーナ)
竜を退治する、その目的で旅に出たけれども。
オヴェリアはもう一度思う。そうはいかないのだと。
(この国はそれだけではない)
フォルストの顛末、レイザランの事、すべてはヴァロック・ウィル・ハーランドにも書簡で告げた。
父王も気づき始めている。この国で何かが起ころうとしている事を。
「……」
ゴルディアには竜がいる。そしてオヴェリアの懐には、竜の命を宿す石がある。
そしてそれを狙う者がいて、この国を滅ぼそうとする意志が生まれ始めている。
何かが。
「父上、母上……」
ぐっと目を閉じ、オヴェリアは思う。
『わしの代わりに世界を見よ』
ヴァロックからはそう書かれた手紙が届いた。
オヴェリアはアイザックが言った事を、父には告げてはいない。
告げてどうなる? 今ここでその真実を問うてどうする?
そしてもし真実を知ったとして、そしてどうする?
「父上……」
呑み込む、想い。
腕の中にある薔薇を見る。
白い薔薇の章。
それが今目に映る真実、そして事実。
この薔薇の元に。
「母上」
2人の意志がある。
それだけでが、今胸にあればいいと。そう願う。
ガタリと音がした。扉が開く音だ。
カーキッドかと一瞬オヴェリアはそちらを見やったが、開いたのは客室だった。
「先生……」
その言葉に、オヴェリアは咄嗟に階段の影に隠れた。
「マルコ、よいな」
「はい」
マルコ。その言葉に少し胸がヒヤリとした。あの2人だ。
「行くぞ」
2人は宿の玄関に向かって歩いて行く。オヴェリアは身を小さくした。
老人と少年は、共に、カーキ色のローブを身にまとっている。老人も小柄だが、マルコはそれよりもっと小さかった。
その背を眺めるオヴェリアの脳裏には、昨晩、凍ったように俯いたままの少年の姿が目に過ぎった。
「何してんだお前」
2人が出て行った頃、裏手からカーキッドが現れた。
「あ、カーキッド」
「何だ? こんな所で何してる」
「あなたこそ」
「俺は裏で剣の鍛錬を……あん?」
皆まで言わせず、オヴェリアはその腕を取る。
「行きましょう」
「は? どこへ?」
「わかりません」
「あん??」
何かある。
オヴェリアは戸惑うカーキッドを引っ張り、走り出す。
マルコがしていたああいう目を。
オヴェリアは、よく知っている。
あれは何かに怯えた目だ。