『 白薔薇の剣 』

−最終王女、騎士録−

 

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 第10章 『水の魔術師』 −3− 

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 宿を出た。
 町はまだ、眠りの中にいる。
 空はまだ暗い。だが漆黒ではない。
 この町に着いたのは夜だったし、今も全容が見える状態ではないが、小さな町ではない様子。家の数も多い。人もそれなりにいるだろう。
「おい、オヴェリア」
 ルトゥとマルコは町を足早に歩いて行く。オヴェリアはその後を、一定の距離を保ちながら追いかけていく。
「あの2人が何だってんだ」
「おかしいと思いませんか?」
「何が」
「こんな早朝に」
 カーキッドは首を横に振った。「全然」
「そういう事もあるだろ。俺らだって、早朝出発する事もあるだろうが」
「……そうだけど」
「帰るぞ。俺は腹が減ったんだ」
 私だってそうです、とはオヴェリアは言わない。ただ唇を噛んだ。
「もう少しだけ。気になるんです」
 カーキッドはクシャミをした。それが通りに響いたが、レトゥとマルコは気づいた様子になかった。
「静かにしてください!」
「……るっせぇなぁ。クシャミくらいさせろ」
「どこでもここでも脱ぐからそうなるんです」
 鼻をすすりながら、カーキッドは嘆息を吐く。
「町から出ますね」
「なぁ、もういいだろ?」
「峠道に入っていく」
 町の出入り口にある柱に隠れ、オヴェリアは2人の背中を見やる。
「行きましょう」
「マジかよ」
 カーキッドはあからさまに嫌そうな顔をした。
「いい加減にしろ。俺達には関係ないだろうが」
 それにお前もそんな軽装で……オヴェリアは鎖帷子もつけていない。今もし暗殺者に襲われたら最悪だ。カーキッドはそれを思って渋るのだが。
「あの子の顔が」
「あん?」
「あの子は昨晩……ずっと、怯えたような顔をしていた」
「?」
「……カーキッドは戻ってて。私はもう少しだけ見届けます」
 言い置きまた走り出したオヴェリアに、カーキッドは大きくため息を吐いた。
「んなわけに行くか」
 後ろをついてきたカーキッドにオヴェリアは少し驚いた顔をした。
「ついてこなくてもいいのに」
「馬鹿野郎。俺はただ、小便するのにいい場所を探してるだけだ!」
 峠道は上り坂になり、やがて山道へ入って行く。
「お、誰かいる」
 山道に入る手前で、レトゥとマルコを待つ者がいた。戦士や魔術師の類ではない。身なりは一般の町人のようだ。
 3人が何を言っているかはわからないが、待っていた町人が頭を下げている。どうやら彼が案内人のようだ。その男に促されるまま、レトゥとマルコは山へと入っていく。
「腹減った」
「静かに」
 しかしオヴェリアはようやくこの段階で自分の状態に気づく。山へ入るには身なりも準備もなさ過ぎる。
 この先着いて行っていいものか。やはり引き返すべきなのか?
 カーキッドを見れば当たり前のように「さぁさっさと帰るぞ」と言わんばかりの顔をしている。
 悩んだ末、オヴェリアは山道に踏み入った。
「おい、お姫様。いい加減にしとけ」
「……」
「俺達にゃ関係ないぞ」
「……そうですけど」
 それはわかってる。わかってるが。
「理屈では、ないんです」
「……」
 ポロっと出たその言葉に、カーキッドは少し目を見開いた。
「とにかくもう少し。無理となったら引き返しますから」
 なぜあの2人を追いかけるのか、オヴェリアにもよくわからないまま。
 カーキッドは頭を掻いた。
「面倒くせぇ」
 ――だが、道は思ったよりも長くはなかった。
 山道に入ったレトゥたちは、すぐさま脇道へとそれた。
 そして10分とかからぬうちにたどり着いた先に。
「――!! これはッ!!」
 先に行ったレトゥの叫び声に、オヴェリアたちは岩陰に隠れその光景を目の当たりにする。
 オヴェリアは唖然と口を塞ぎ、カーキッドも目を見張った。
 そこにあったのは、繭。
 並みの大きさではない。まるで人でも入れそうなほどの大きさの繭が。
 白んできた空の薄い明かりの下にも、10や15は数見える。
「あれは、」
 ほぉ? とカーキッドが目を細めた。
「ありゃ、羽蟲はむしの卵だ」
 言われた言葉に、オヴェリアは愕然とする。




 ――蟲。
 正式名称はギョウライチュウ。
 その姿を、オヴェリアは旅に出て最初に目の当たりにしている。
 人ほどの大きさを持つ異形の存在。それによって村が壊滅し、そして人が食われていく様を。
「あんな……」
 あの時の様を思い出し、オヴェリアの息が荒くなる。全身に汗が噴き出す。
「まずいな、ありゃもうすぐ孵化するぞ」
「えッ……」
「そうか、だから魔術師か」
「どういう事?」
「あれは普通の人間にはどうにもできん。例えば火をつけて燃やすとしても、並みの火力じゃ繭が燃える程度だ。お前も見ただろう? あの時の村は火の海になってたってのに、あいつらが平然と飛んでた様を。繭が燃えて孵化が早くなる。そうして出てきた連中は、生まれた途端に暴れ狂うぞ」
「……ッ!!」
「そうして火に頼ってあいつらに滅ぼされた村や町は、1つや2つじゃねぇ」
「兵士は……」
「駐屯兵か? 奴らに頼っても無駄さ。腰抜けばかりだ」
 どの道あれをどうこうする事はできんだろうがな、とカーキッドは不敵に笑った。
「さぁて、どうするのかね? 魔術の先生は?」
 先ほどまでの気乗りのなさから一転、興味津々といった様子でカーキッドは目を輝かせて様子を伺っている。
 オヴェリアはどうしたものかと迷いながらも、彼女もまた彼らを見守る。




「先生……」
 押さえようとしても、心が震える。心が震えれば、唇もまた必然に。
 マルコは師を見上げる。持ってきたたいまつの光が、淡くその横顔を照らした。
 空には月もなければ、太陽も未だあらず。
「レトゥ先生」
「マルコ、ここはお前に任せる」
「えっ」
「やってみなさい」
 言い、自分を見るレトゥの顔は穏やかで。
 目の前の状態に似つかわしくないほどに、静かで温かな物だった。
「……」
 マルコは考えた。絶句したと言い換えるべきか。
 だがやがて、
「…………はい」
 予感が、なかったわけではなかったのだ。師が自分を供にすると言った時から。
「順番通り、練習のままに」
 落ち着き、やれ。
 少し不安そうな案内人の男の顔は見ず、マルコはポケットから緑色のケースを取り出した。
 そこから、1本白墨を取り出す。ウキザラシという貝を原材料にした、白のチョークである。
 それを手にしもう一度レトゥを見てから、改め繭に向き直る。
 ざっと見、数は20。
 3本の巨木に渡ってギッシリと、肩を寄せ合うように産み付けられている。
 繭……と言っても表面はぬめりを帯びている。粘着質を思わせるような密着の仕方だ。
 ゴクリと唾を呑み込み、マルコは地面に白墨を滑らせた。そこからグルリと円を描くように、繭のある一体を囲んでいく。
「レトゥ様……」
「大丈夫。あれは我が一番弟子」
 案内人とレトゥの会話は、マルコの耳を素通りする。
 肌寒いはずなのに、皮膚を汗が伝う。
 円を描き、その外周に文字を並べていく。
「我ここに、魂を刻む」
 ピっとレ点を打つ。
 円に沿って3歩歩く。そこにまた文字を描いていく。
「我ここに、魂を刻む」
 レ点を書いて、また3歩。
 腕を伸ばす、筆を走らせる、鼓動が激しくなってくる。
「我ここに、魂を刻む」
 ガサゴソと音がする。見上げれば間近に繭がある。その中で蟲が確かに蠢いている。
 今にも音を立てて、中から噴き出しそうな感覚に。
 マルコは息を呑み、師を振り返った。レトゥは何も言わず、ただ彼を見つめていた。
「……」
 息が荒くて。体が震えて。
 白墨で描く文字の列は、本当に意味をなしているのか?
「我ここに、魂を刻む」
 言葉は本当に、言霊となってここに打ち付けられているのか?
(失敗したらどうなるんだろう……)
 蟲の事は知っている。
 もしここで自分の術が失敗して、もしここにあるすべての蟲が繭から飛び出して暴れ狂ったら。
 先生は、……そして、町の人々は?
 ――町を助けてください
 救いを求められたのは先生。
 その先生の名を、もしここで僕が失敗したら。
「……我ここに、魂を」
 助けてください、先生。そんな気持ちでもう一度師の顔を見たけれども。
 レトゥは表情を変えず、ただ見ている。
 震える自分を、怯える自分を、ためらう自分を。
「……」
 我ここに、魂を刻む。
 汗が流れる。
 白墨が折れた。
 半分になったそれで、文字を滑らせる。
 ――最後、始まりの場所へとつなぐ。
「我ここに」
 魂を刻み。
 描くのは。
 何の想いか。




 立つ。
 深く呼吸する。でも息が胸まで入ってこない。
 手をかざす。重ねて、左の手で、逃げようとする右手を押し出すように。
 練習の通りに。大丈夫。
 陣形は出来た。後は最後の呪文を唱えるだけ。
「開門」


  万物の神ヘラ
  太陽の神ラヴォス、闇無の神オーディーヌ
  我ここに魂を刻む、我ここにこの名を捧ぐ
  我、悠久の時、先人オルカ・トルカ・マサライアの血を受け継げし者なり
  大地との契約、御剣の証
  糾うは十字架の梢
  切り刻むは天宝の縁
  我ここに魂を刻む、我ここにこの名を捧ぐ
  須らざりし一輪の結得にて
  抗うは日責じっせきの抗
  今我に答えよ、願わくば
  結晶の石、今ここに解かれたし


「立て、業火の舞い」




 唱えたその瞬間。
 一瞬の沈黙。――だが。
 空気がチリリと光った。蛍が現れ待っているような淡い光が1つ2つ、3つ4つと次第に増えて行き。
 それが幾多の星の海のように集積する――マルコが描いた円の内に。
 それがパッと一斉に消えたと思ったその刹那。
 轟音と共に、宙に、火の柱が立ち上った。
「ッ!!」
 炎は、密集する蟲の卵を一瞬にして覆い隠した。
 マルコは自分の成した術に一瞬たじろぎ、一歩後ろへと下がった。腕がぶれた。
「凄い」
 それを、遠巻きにオヴェリアとカーキッドも見ている。オヴェリアは歓声を上げた。
「あの年で、あんな魔術が使えるなんて」
 魔術の力は個々の潜在能力。練習の数もそうだが、術の相性といい、持って生まれた素質というものがかなり関係してくる。
 実際に魔術の勉強をした事があったオヴェリアは、それがいかなる事かを知っている。自分ができなかった事、だからこそ腕をかざす少年の姿が眩しく見えた。
 だが。
 嬉々と少年を見つめるオヴェリアの横で、カーキッドは冷静に見つめ。むしろ眉間にしわを寄せた。
「……まずいな」
「え?」
「あれは……」




 ――火力が足りない。
 腕をかざしながらマルコは思った。ダメだ、この術は失敗だ。
 術は繭を捉えている、だが。
(繭だけが燃える)
 その原型は崩れない。……むしろ外側だけが溶けていく。
 そして今の火力では蟲は、焼ききれない。
 実際、炎の中から鳴き声がしてきた。足が飛び出した。頭が抜け出した。光る目が現れた。
「ひ……」
「マルコ! 立て直せ!!」
 師の声がする。しかしどうやって立て直せと?
「怯むな!!」
 蟲が、繭から這い出してくる。人ほどもあるその体が、蠢きもがき、産声を上げて。
 そのうちの1匹が、炎から飛び出した。
 羽根に火が移っているのに。それでも飛んでいる。いやだからか? 苦しみもがき、生まれた瞬間から、
 ――怒りを携えて。
 その声は悪魔の声か。
 マルコは悲鳴を上げた。彼が腕を下ろした瞬間に、炎は勢いを完全に失ったけれども。
 繭に点いているそれは消えない。
「いかん」
 師の声がした。だがもうマルコはそれどころじゃない。逃げたかった。もう一刻も早くこの場から。
 ――だが。
 次の瞬間、彼が見たのは蟲ではなく。
 一陣の、黒い風。




「逃げんじゃねぇよ」




 大きな背。巨大な黒い影。
 この男をマルコは知っている。
 カーキッド・J・ソウル。
 生まれたばかりの羽蟲を、縦から一刀両断する。
 その斬り様は、あまりに見事。炎と、包まれた繭すらも真っ二つにする。
 返す刀でもう一匹。
 黒い太刀が、紅蓮に染まる。
「あ、あ……」
「マルコ!!」
 オヴェリアが彼の傍へと駆け寄った。
「大丈夫!?」
「あ、わ………」
「オヴェリア手伝え!! 逃がすなッ!!」
 オヴェリアは一度レトゥを見、サッと剣を抜いた。
 まだら模様の羽根に、オヴェリアの脳裏に痛い記憶が蘇る。燃えた村、蟲に食われた人々の姿……だが、そんな物に構ってられない。残像ごと蟲を薙ぎ払う。
 ドサっと落ちた塊に、マルコは後退った。内臓が飛び出していた。剣士達が剣を振るえばそこに、屍の山が出来ていく。大地が血に染まっていく。
 その様が、マルコの胸にある傷にも障っていく。
「…………」
 頭上に羽根の音が聞こえた。ハッとマルコが顔を上げると。
 そこには。
 目前、蟲が1匹。
 大きすぎる目には無数の斑点が。
 一枚じゃない皮膚と、グチャグチャと蠢く口元が。
 ガバリと、開き。
 マルコの目の前に開かれた巨大な口の中には。
 ここにはないはずの、見知った頭が。
 見えた、そんな気が。
 した、刹那。




「うぁぁあああっぁぁぁぁっぁぁぁぁああああああああぁぁぁぁぉあ!!!!!!!!」




 突き出した腕。
 我を失ったその身から放たれる、その内に眠る本当の才能。
 ――水。
 先ほどの炎など比ではない。昨日のレトゥの術すら及ばないほどの、とてつもない量の水が。彼の手のひらの先にある空間から蟲に向かって一気に吹き付けられた。
「なッ!!?」
 その前方にはオヴェリアとカーキッドもいる。異変を察知したカーキッドが咄嗟にオヴェリアを引っつかみ、脇へと飛んで逃げる。
「マルコッ!!」
 レトゥがマルコの頬を叩く。「落ち着けマルコ!!」
「せ、せんせ……」
「まずい、山が崩れる。逃げるぞ!!」
 レトゥの言葉を皮切りに、全員、どうにか立ち上がってその場から走る。
 だがマルコはそのまま気を失ってしまう。それを見たカーキッドが大業に舌を打ち、その首根っこを引っつかんで抱えて走った。
 もつれる足でカーキッドの後を追いかけながら、オヴェリアが振り返り見た光景は。
 蟲どころか、そこにあった木すらも。圧倒的なあの水により、なぎ倒されていた。
「……」
 オヴェリアは息を呑み、カーキッドの肩に担がれた少年を見た。
 ――この子は水なのだと、オヴェリアは思った。
 魔術には相性がある。発動方法もさる事ながら、その属性にも。
 火、地、風、雷、氷、光、闇、癒、……様々あるその中で。
 良い相性を持ち、一番力を発揮できる属性。
 それが。恐らくこの少年は水なのだと。
 言葉、文字、陣を使わずにまで発動できるほどに。




 すぐに山は土砂崩れを起こした。
 だが幸いにもそれは町とは反対側へと下っていった。
 オヴェリアたちはもちろん、ふもとの町にも被害はなかった。
 だが少年はその日一日、目を覚まさなかった。
 すべての力を使い果たしたように、眠り続けていた。

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