『 白薔薇の剣 』

 

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 第13章 『希望の花』 

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 カーキッドの呪い。あの腕を見た時からオヴェリアは。
 ずっとずっと、衝動に堪えてここまできた。
 泣きたいのを、叫び出したいのを。
 我慢して。
 本当に苦しいのはカーキッドなのだと。だから、私が泣いている場合ではないのだのだと。
(私にできる事は泣く事じゃない)
 それよりも先に自分に何ができるのか、優先すべ事がある。
 カーキッドが剣を振れぬのならば、その分も自分が。1日も早く彼の呪いを解く事が、唯一できる事だから。
(ごめんなさい、カーキッド)
 心の中で彼女は何度、彼にそう呟いたかわからない。
 すべては自分のせいだと、彼女は思っていた。
 カーキッドは恐らく自分を庇って呪いを受けた。だがその瞬間に自分は気づけなかった。その事にオヴェリアは深く傷ついていた。
(私は、)
 そして彼がそんな呪いを受けたのも……ひとえに、この旅に付き添ったがゆえ。彼女と共に黒竜討伐の道へと歩み出してしまったから。
(私のせい)
 甘かった何もかもが。もうそんなのは痛いほどわかってる。
 白薔薇の騎士を目指してあの試合に出た事も、そして選ばれてしまった事も。
 その道が容易い物ではないとわかっていたのに。
(全部自分だけでどうにかなると過信して)
 ただ一人で背負ったつもりでいた。
 竜退治の旅。
 だが実際には自分は何もできないただの娘。いや、普通の娘が成せる事の1つも、本当はできないのかもしれない。
 王女だ姫だと崇められて。
 けれども自分は何をしてきた? 
 何が姫だ、……こんな未熟な私が、どうして民の上に立てるというのか。
 ……まして。
(カーキッドがもしここで倒れたら)
 自分は……。
 自分の未熟さを呪う。無知を呪う、無能さを呪う。
 全部知った。己という存在の小ささ。
 だが同時に。彼女はこの旅で、
(大事……)
 己の中で何が大事かを。本当に守るべき物は何なのかを初めて知った。
 国。父王が背負ってきた物、母がその身で守った物。
 そして、仲間。
「……絶対に」
 カーキッドは守る。
 こんな所で、彼が倒れる事など許さない。
 ――カーキッドという存在。その男はオヴェリアにとり、今、国事と同等ほどに。
 大事な大事な物だから。
 そういう存在を、こういう気持ちを、初めて知ったから。
(失いたくない)
 大事な人をこれ以上失いたくない。
 その悲しみはもう、真っ平だ。二度と味わいたくはない。
 ……だから。




「――ッ!!!」
 丘を上がり見た光景は。
 ただ一色、紅蓮。
 天には太陽が火の玉のように、空一面を赤く赤く燃やし。
 大地には炎が。
 まるでそれは、伝え聞いた地獄の絵図であるかのように。
「……こんな、」
 この町に来た時に雪かと思った花畑が。轟音と共に、黒い煙をたゆらせ燃えていた。
 オヴェリアの後に続いて駆けてきたカーキッドもその光景に絶句し、遅れて現れたデュランは口元を覆う。
「オヴェリア様、煙を吸ってはなりません。危険でございます」
「……」
 退いてください、そう叫ぶデュランの声など聞こえぬように。
 オヴェリアは深紅の海を前に呆然と立ち尽くしていた。
「探さなきゃ……」
 そして気づく。ここへ来た目的を。そうだ、探さねばならないのだ。
 それが今ある、唯一の希望なのだから。
 幻と呼ばれる草は手に入れた。後はこのカスミソウの畑の中から、光る花を見つければ。
 見つけなければ、カーキッドの腕の呪いは解けない。そしてもし呪いが解けなければ、
(カーキッドが死ぬ)
 彼女は唇を噛み締めた。その瞳には涙がにじんでいた。
 だがそれを手の甲で拭い、彼女は一歩踏み出す。泣いてなどいられない。
 マントを脱ぐ。カーキッドが何かを言うより先に、手近の炎へと叩きつける。
「馬鹿野郎ッ!! そのマントは」
「構いませんッ!!!」
 これがどんな高価で希少の物かなど、知らぬ。
 それに、今この場の何をもってしてもカーキッドの命以上の物など。
「火を消して!! 花を探してッ!!」
 ない。
 その様子を見たデュランも「水の術は不得手でございますが、」
 仕方ございませんな、そう言いながら胸元から護符を取り出す。いつもより随分長めの呪文を唱え始めた。
「僕も手伝います」
 3人の後ろから追いかけてきたマルコも息を切らしながらそう叫び、地面に白墨を滑らせる。
 その中でカーキッドは。
「……そったれッ!!」
 黒の上着を脱ぎ捨て、明らかに根負けしたような顔で。
 だが彼も懸命に、炎に向かって飛び込んで行く。




 辛い、苦しい、痛い、悲しい。
 涙溢れる。でも邪魔。皆邪魔。
 今はただ信じたい。信じなければ進めない。踏み出せない。
 神様、と彼女は呟く。炎の中でただ一心に。
 腰元にある白薔薇に向かって。どうか神様と何度も何度も。
 必要ならば、この命をくれてもいい。だから。
(お願い……)
 お願いだから。
 希望を消さないでと――。




 そして。
 炎を消し、地面を這うようにしていたオヴェリアが、その気配に気づいたのはどれくらい経った頃か。
 気配……風と言い換えるべきか。実際にはそこには、何の気配もなかったのだから。
 殺気も、剣気も。
 ただ、少し冷たい風が吹いた。デュランかマルコが使った魔術の水のためかと思い、ふと顔を上げた視線の先に。
 彼女は黒い物を見た。
 ……すでに太陽が堕ちて幾ばくか経っている。辺りは闇へと沈み込もうとしている。
 だがそこにいたのは、夜の闇よりももっと暗いほどの黒。
 人影だと気づくまでには、少し時間がかかった。
「あ……」
 炎すら、その闇の前には恐れをなしたかのように、息吹を潜め。
 だが漆黒の人物が身じろぎしたのを合図とするように、一瞬ボッと大きく燃え立った。
「あなたは」
 この感覚を彼女は覚えている。
 フォルストの森で対峙した人物。黒装束をまとった、暗殺者の1人。
 疾風のごときオヴェリアの剣を持ってしても、捉える事できなかった者。瀕死のデュランの援護がなかったらあの場で、オヴェリアの命は終わっていたであろう。
 気配を持たぬ暗殺者。
 あの時負った傷は、跡になって残っている。
「……」
 闇は何も語らぬ。だがその足元がジリと動いた。
 何となくそこを見たオヴェリアは、次の瞬間目を疑った。
 黒装束の足元にあったのだ。一輪。
 ほとんどが炎に巻かれてしまったこのカスミソウの畑の中で、燃え残ったそれが。
 遠目なれど薄っすらと、だが確かに光っていたのである。
「その花、」
 だが。
 オヴェリアが手を差し出した瞬間、黒装束の者は小さく動いたかと思うと。
 グシャリと。その花を踏み潰した。
「――」
 オヴェリア・リザ・ハーランド。
 かつてこの時ほど、この身がもどかしいと思った事はない。
 意識が飛ぶような感覚がした。だがすぐに彼女は思った。
 熱いと。胸が。
 炎が立ったかのように。
「……退きなさい」
「……」
「今すぐその場を、退きなさい」
「……」
「聞こえぬか、退けと申しておる!!」
 いつにない彼女の声に、聞きつけたカーキッドとデュランが顔を上げる。
「オヴェリア」
 だが黒装束は動かない。その様はまるで、あざ笑っているように見えた。
 もう、オヴェリアは剣を抜いている。
 その顔はすでに煤に汚れてしまっている。だがそれ以上に、彼女が浮かべたその表情は。
 ――ただ怒り。
 国の至宝と歌われたローゼン・リルカ・ハーランドの娘。美しさはひけを取らぬ。
 その娘のそんな顔を。誰もかつて、見た事はない。
「姫様ッ」
 誰の声ももう届かない。
 ただ彼女はじっと、黒きその者を見る。
 膝を落とす。剣を構える。ジワリと滴る汗など知らぬ。
 ただ見据え。
 オヴェリアの心情を知ってか知らずか、黒装束は足場を固めるためにさらに足元の花をにじり踏んだ。それが合図となった。
「――ッッ!!!!!」
 向こうの得物は短剣。もう見慣れた。つい先ほどもそういう輩と剣を交えた。
 だが忘れてはいない。彼らが持っていた剣よりも、目の前の相手の剣が少し長い事。
 ――最初の一閃を、黒装束は右へ飛んで避ける。そこから顎先へ向かって突き上げてくる。
 間隔は短い。だがオヴェリアはそれを体をひねらせかわす。
 そこから剣ごと回転させながら、胴体の真ん中向かって切っ先を走らせる。
 空気に真空の一文字が出来る。上がった火の粉さえ、それによって打ち飛ばされる。
 黒装束の服の一片を捉えるが、その身には及ばない。
 そしてそのまま、黒装束はオヴェリアの懐に入り込んで胴体を薙ぐ。
 鎖帷子の上に衝撃が走る。だが斬られてはいない。斬られてなどたまるか。
 オヴェリアの海のような瞳がいつになく。
 絶海の炎を取り巻き、ひた輝く。
 両腕で構え、横から薙ぐのではなく突く。薙ぐために必要な一瞬の隙も、目の前の相手に与える猶予となるゆえ。
 かわされるが、切っ先が弾く。肉の感触。
 そして続いて連続に、左手だけ外し今度は右から剣を突き出す。
 その技は、彼女のいつもの型を破った物であったが。
 無我夢中に。
 怒涛の剣気を伴った腕が、体が、声が。
 足が。
 踏み出した一歩に、黒装束が後ろへ大きく間合いを取った。
 その隙に彼女は急ぎ踏まれたカスミソウの前に、闇の使者から庇うように立つと。
 剣構え。
 正眼見据え。
 闇に真っ直ぐ向かい合う。
 睨む、挑む。
「……」
 渡しはせぬ。
 この花。この身に変えても。
(守る)
 スッと剣を引く。右奥へ。支えた左手を剣腹に抱くようにして添えて。
 眼光は、2つ目の刃。
「……」
 そしてそんな彼女の元に、カーキッドも駆け寄る。すでに剣は抜いている。
 背後にはデュランが、術を解き放つ寸前の状態で護符を構えている。
 マルコも怯えた様子で見ているが、足元には小さな円陣が描かれている。
「……」
 すべてを見、そしてもう一度オヴェリアを見た上で。
 黒装束は、サッと背を翻した。
「エリトモラディーヌ!!」
 その背に向かってデュランは術を放ったが、すぐに闇の中へと溶けて消えた。
「無事か!? オヴェリア」
 カーキッドの声にオヴェリアはハッと我に還った。ああ、そんな事よりも。
「花が……」
 地面に倒れこむように伏し、手をかざす。
「ああ……」
 踏まれ、茎は折れ、地面にめり込むように伏しているけれども。
 その中で花だけはまだ。
 空に向かって反り返っていた。
 そしてそれは。
「光ってる……」
 青い光? 違う。これは。
 ――金色。
「カーキッド、見て……光ってる」
「ああ……」
「光ってる……デュラン様、光るカスミソウです」
「誠に。確かに」
 もう、彼女は。
 流れる涙を止める事、できなかった。
 カーキッドの前では泣かぬと決めたけれども。もう。
「良かった……」
 泣いても、いいだろうか……?
「オヴェリア……」
「これで治る……カーキッド、治る、治るよ」
「……ああ」
 そう言って男は、そっと彼女の肩を抱いた。「ありがとうな……」
 デュランは苦笑し、背後にいた少年に向かって言った。
「後少しだ。さっさと火を消してしまおう。手伝ってくれるな?」
「はい」
 その返事に、デュランは満足そうに微笑み。それからカーキッドの肩をポンと叩いた。




 カスミソウ畑の炎が完全に消えたのは、それから間もなくの事である。




  ◇

 ――そして。
 夜陰に紛れて駆けながら、黒装束のその者は斬られた脇にそっと触れた。
 奇しくもそれは、先刻彼が彼女に手負わせたのと同じ場所であった。
「オヴェリア・リザ・ハーランド……」
 その声はまるで――。




 ……答えは、闇のみが知る事実。

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