『 白薔薇の剣 』

−最終王女、騎士録−

 

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 第15章 『咎人とがびとの息子』 −2−

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 その時マルコは、空を眺めていた。
 今夜は降るかもしれない。そう思った。
 こんな空を見るたびに少年は思う。あの日の事を。
「……」
 学校の中庭には子供達が遊んでいる。レトゥが伏している今、カーキッドとデュランがいなければすべて遊びの時間だ。
 いやそうでなくとも、子供達にとって学びも学問も同義なのだろう。
 そう思うとマルコは、はしゃぐ子らと自分が同じとはとても思えなかった。
 先生の所へ行こうと、マルコは空から目を離した。レトゥは寝台から出れるようにはなったが、まだ歩き回れるような状態ではない。誰かがついていなくてはならない。
 そしてそれは自分の役目だと、マルコは思い続けていた。
 レトゥ。師には恩がある。
(先生だけが唯一)
 自分にとってもう、これまでもこれからも。
 ふと建物の戸口を見ると、補修の跡があった。先日の蟲騒動の時マルコが蟲を倒すために使った柱は、別の板で直してあった。
 そこにそっと触れ、マルコは手を握り締めた。
 中庭の脇には畑がある。朝方見た時トマトがよく熟れていた。先生に持って行ってあげようと思い、マルコは外に出た。
 マルコが通り過ぎても子供達は振り返りもしない。もう慣れっこだった。最初はそうではなかったが、そう仕向けたのは自分自身。
(もう、誰もいらない)
 真っ赤に実ったトマトを一つもぎ取る。自然と笑みがこぼれた。
 そのまま建物に戻ろうと畑に背を向け、来た道を戻る。
 ――馬の嘶きが聞こえたのはその時だった。
 マルコはハッと振り返った。他の子供達は知らぬ様子で声を上げて笑っている。
 鳥が一斉に飛び立った。
 迫るような音が木々の間を抜けてくる。
「誰一人逃すな、良いな!!」
 知らぬ男の声、応という叫び。
 ようやく子供達が動きを止める。
 マルコはトマトを持ったまま、固まった様子で中庭の向こうを見ていた。そこには小さな木製の門がある。
 ここに来た時の事を、マルコはよく覚えている。最初はレトゥと2人切りだった。
 彼がここに子供達を集め、学び舎を作ろうと言い出した時、マルコは反対した。
 だがレトゥは言った。学問は宝だと。子供もまた同じだと。
 ――馬が来た。一頭二頭ではない。群。
 子供達の中から悲鳴が上がった。
「行け!!」
 馬から人が飛び降りた。ただの人ではない。銀の鎧をまとった兵士。
 あれは重くないのだろうか? そう思えるほどに、彼らの動きは俊敏で。
 中庭を、走り来る。
 子供達はマルコの隣をすり抜け建物へと逃げて行く。肩がぶつかる、思わずマルコはそこに倒れこんだ。その衝撃に、トマトが手から零れ落ちた。
 あれは先生の。慌てて拾い上げようと、手を伸ばしたその刹那影が落ちた。不安定な体制のまま、マルコは天を振り仰いだ。
 そこにあったのは、銀の甲冑。
 いやむしろそれは、太陽の光にすら背を向けた、黒。
 マルコは目を大きく開いた。そしてそのまま動けなくなった。
 甲冑の腕が伸びる。迫る。逃げなければいけないと思うのに、体がまったく動かない。
 ただ、トマトを拾わなきゃと。
 襟首を持ち上げられても、マルコはずっとそれを思っていた。
 地面が離れていく。首が苦しい。でも手を伸ばす。届かなくても、腕が虚空を舞ってしまっても。
 懸命に。懸命に。
 ――だから。
 その瞬間、マルコは自分の身に何が起きたのかわからなかった。
 ただ金属音がして、突然体が解き放たれた。重力が戻ってきた。おもむろに体が地面に叩きつけられた。
 顎を少し打った拍子に、口の端を切った。血を拭う代わりにトマトを掴んだ。
 そして再び自分に落ちた影に、マルコはもう一度頭上を見た。
 そこにあったのは銀の甲冑ではなかった。あったのは、今度は見紛う事なき黒の姿。
 だがその背をマルコは知っている。
「何だ貴様は」
 右手にダラリと抜かれているのは、黒い剣。それは、太陽の光を受けてもまだなお闇を放つ。
「そりゃこっちの台詞だ」
 黒の剣を持ちし男は、言外に笑いを含ませ言った。
「名を問うならば自分から名乗れと、お母ちゃんに教わらなかったか?」
「カーキッド……」
 マルコは呟く、その背に向かって。




 ズラリ。取り囲む、銀の集団。
 数は10強。だがその向こうにはまだ、馬上の者もいる。
 全身完全武装。鎧兜の下の顔は見えない。
 その有様はあまりに異様。
 カーキッドはペロリと唇を舐めた。その顔には、ニヤニヤとした笑いが張り付いている。
「そなたはここの者か?」
 その銀の一団から一人、スッと前に歩み出た。その者は兜の面甲を上げ、顔をさらす。
「突然の無礼は詫びる。我らは聖サンクトゥマリア大教会直属の神聖騎士団だ。命を受けこの地に参った」
 マルコもカーキッドの足の隙間から、その騎士を見ていた。
「ここに、ゼクレトル・フレイド殿がいらっしゃるはず。話がしたい」
「知らねぇな、そんな奴」
 存外若そうだが、彼がこの一団の長である。
 カーキッドはその男から一切視線を外さぬまま、剣の持ち手をスッと変えた。
「もう一度問う。ゼクレトル・フレイド、かつて水の賢者と称えられた方だ。ここにいるのはわかっている。隠せばただでは済まんぞ」
「知らねぇつってるだろうが」
 そんな名前に聞き覚えはない。だが心当たりがないわけでもない。
(じじぃか?)
 水の賢者。そんな呼び名を持っていても違和感のない人物はただ一人。レトゥしかいない。
 何しやがったじじぃ。思いながら、先ほどのデュランの言葉を思い出す。彼はこの騎士たちを絶対に中に入れるなと言っていた。
(何か知ってやがるな、あの野郎)
 内心で毒づきながら、だがその怒りはすべて目の前の騎士へと向ける。
「教会ってのは、人探しに完全鎧の騎士を送り込む慣習があるのか? 随分とご大層だな。教義ではなく力で人を押さえつけるのか」
「事が事ゆえにだ」
「事、だ?」
「ならば貴殿に問おう。ここにフレイド殿と共に、逃げた子供がおるはずだ。アールグレイという名に覚えは?」
 カーキッドは物言わず首を傾げた。その名に彼はピンとこなかった。その者の事は別の名で呼んでいたゆえに。
「大罪人ビル・アールグレイとマリア・アールグレイの息子だ。……マルコ・アールグレイ。その者を探している。ここにフレイド殿と共に暮らしているという情報を聞きつけ、我らは来た」
 背後でビクリと震える気配があった。
 だがカーキッドはただニヤリと笑った。
「知らねぇなぁ」
 その顔に騎士の長は特に顔色を変えるわけでもなく、「ならば全員捕らえるまでの事」
「そこを退いてもらおう」
「やだね」
「まさかお前、我ら相手に1人で討ち望む気か?」
 カーキッドは剣を構える。
「だったらどうする?」
「不毛な」
「そう思うならかかってこればいい」
 足場を固める。腰を落とす。
「第一に、お前らは剣士だろう? 剣士に物を問うならば、もっとシンプルな方法があるはずだ」
「……名を聞こう、異国の剣士よ。我が名は神聖騎士団団長・ガブリエル・ヴィンガー」
「カーキッド・J・ソウルだ」
 その名に、ガブリエルと名乗った騎士団長は一瞬眉を潜めた。
 だがそれも僅かの事。
「行け」
 彼の合図に、一斉に騎士たちがカーキッド目掛けて打ちかかる。
 受ける男の顔はただ一つ。
 喜色満面。




「始まったか」
 裏手から建物に入ったオヴェリアとデュランは、そっと窓から外を見ていた。表の出入り口付近で、カーキッドが騎士と打ち合いを始めた。
「デュラン様、一体どういう事ですか」
 デュランに問うオヴェリアの顔には、焦りと怒りがこもっている。
「あの者たちは何を? 何が起こっているというのですか?」
 デュランは一時オヴェリアを見つめたが、やがてそっと視線を外した。
「姫様はレトゥ様の様子を。私はカーキッドの所へ参ります」
「デュラン様」
「……奴らの狙いは、マルコです」
 なぜマルコが?
 だがそう問いかけようとするオヴェリアの前にデュランはスッと手の平を差し出した。
「今は話している時間が惜しい」
「デュラン様、」
「ただ……申さば、」
 言い置き、デュランはもう一度窓の外を見やった。その目は少し寂しげであった。
「この後何があろうとも、あなたはあなたの道を行きなさい。あなたには、やらなければならない使命がある」
「え?」
「ここで、お別れやもしれません」
 ポツリと言った彼の言葉をもう一度問い直そうとしたが、それより早くデュランが口を開いた。
「ともかく姫様はレトゥ様をお願い致します。では」
 言い終えると、彼は回廊を駆け出した。
 その背が去るのを見つめ、オヴェリアは心に不安のような物を感じた。
 だが立ち止まっている暇はない。確かに今は、レトゥの身が案じられる。
 レトゥの部屋は一番奥だ。城を思えば迷うほどの広さではない、いつも向かっているはずの場所なのに、この時はやけにそこは遠く感じられた。
 そして結局、オヴェリアは部屋にたどり着くより先にレトゥを見つける事になった。
「レトゥ様!!」
 部屋から数歩の所に、彼は倒れていたのである。
「大丈夫ですか、レトゥ様!」
「オヴェリア様……何が起きておりまするか」
 肩を貸す。オヴェリアは一瞬ためらったが、言わないわけにもいかなかった。
「神聖騎士団が参っております。今、カーキッドとデュラン様が押し留めておりますが」
「神聖騎士団……」
 その顔にレトゥの顔色は蒼白になった。
「彼らの狙いは一体何なのですか?」
「……オヴェリア様、私を連れて行ってはいただけませんか?」
 その時見たレトゥの顔に。オヴェリアは一瞬、別人かと思った。今まで見た事のない顔を彼はしていた。
「私が話します。……私を、彼らの元へ」




「――ッッ!!」
 カンッッ、何度目かの交差を、カーキッドは弾き返す。
 脇からの突きは腰元ギリギリで避け、その騎士に回し蹴りを入れる。
 左右から振りかぶった同時の攻撃を笑いながらかわし、代わりに胴体に一撃を入れる。
 普通の剣ならば鎧の前に弾かれてしまうであろうが、カーキッドの剣は違う。
 その重みに、騎士はくの字に倒れ込む。鎧の下で表情が歪む。鋼の上からでも、骨を砕く剣である。
 そうして倒れ込んだ者、この数刻に半数以上。まともに立っているのは団長含めたわずか2、3人ほどであった。
「こんなもんか?」
 その様にカーキッドはニヤリと笑い、それから溜め息を吐いた。
「ご大層な名前のワリに、大した事ねぇな。これなら、ハーランドの騎士連中の方がよっぽど骨がある」
「何だと貴様、我ら神聖騎士団を愚弄する気かッ」
 倒れた者が息絶え絶えに叫ぶが、遠吠えに過ぎぬ。
「つまらねぇ」
 カーキッドは剣を肩に掲げた。
「あんたは打ってこないのか、団長さんよ?」
「……」
 一歩出る。カーキッドは笑っている。
 二歩出る。カーキッドの笑いは消えない。
 だが――三歩目で。
 カーキッドは騎士団長目掛けて走り出した。剣を振る、ガブリエルも剣を抜く。
 ガギィ――――ンッ
「いい音だ」
 一端間合いを外し、再びカーキッドは下から脇へと切っ先を持ち上げる。
 それを払い、今度はガブリエルが上段からカーキッド目掛けて剣を振り下ろす。簡単に避ける。
 だがそれは誘い。
 すぐに切り替えした剣を、真っ向カーキッドの喉元目掛けて突いて出た。
 慌てて避けるが、切っ先が顔を掠める。僅かに血が飛んだ。
 一端間合いを外し、カーキッドはピッとその血を払った。
「あんた、中々やるな」
「再度申す。そこを退け。これは大教会の意向だぞ」
「そんなもん知らねぇ」
 俺は、俺が楽しいから剣を振る。それだけだ。
 そう思い再びガブリエル目掛けて剣を繰り出そうとしたその時。
「双方、剣を退け!!」
 デュランであった。
 建物から飛び出した彼は騎士たちとカーキッドの間に入った。
「チ、邪魔すんな」
「……話がしたい。抑えろカーキッド」
 小声で囁く。カーキッドはあからさまに嫌そうな顔をした。
「どういう事だ、デュラン。説明しろ」
 カーキッドは一瞬背後のマルコに気配を配る。少年は座り込んだままであった。
 デュランはそれを手で制し、騎士団長を見た。
「神聖騎士団団長、ガブリエル・ヴィンガー殿とお見受けした」
「いかにも」
「御用の向きは漏れ聞いた。水の賢者ゼクレトル・フレイド殿は確かにここにおいでになる。だが今フレイド殿は重傷を負ってとこに伏してみえる。先日ここであった蟲騒動の事は知っているであろう?」
 ガブリエルはじっとデュランを見た。
「その際フレイド殿はひどい傷を負われた。今は話せる状態ではない。お引取り願いたい」
「貴殿は何者だ?」
 様相を見ればデュランが神職である事は明らか。
 だが同時に彼が、一介の神父でないのもまた明らか。
 デュランは騎士団長の問いに答えなかった。
 双方一時、身じろぎもせずに互いの顔を見つめ合ったが。
 最終的に言葉を発したのは、ガブリエルの方だった。「できぬ」
「退く事は出来ぬ。これは枢機卿の御意志だ」
「枢機卿だと……?」
 その言葉にデュランの顔色がサッと変わった。
「枢機卿はマルコ・アールグレイの捕縛連行を我々に命じた。それを、ゼクレトル・フレイド殿ならびにこの場にいる全員に問う権限も。そしてその方法も問わぬと」
 ゆえに。
「口を割らねば、割るまで問うまでの事。手段は選ばぬぞ」
 そう言ってガブリエルは剣を構える。
 それに倣うように、倒れていた騎士たちも起き上がり剣を構える。切っ先をカーキッドとデュランへ向ける。
「上等だ」
 カーキッドは舌なめずりしたが、デュランは眉間にしわを寄せ唸った。
「水の賢者に剣を向けるか」
「それが命令だ」
 カーキッドの後ろで、マルコが立ち上がった。
 ――その時、オヴェリアに抱えられたレトゥが回廊を曲がり、現れた。
 周辺にいた子供達が一斉に彼を見る。泣いている者もいる。その中で。
 窓を隔て、レトゥはマルコの姿を見つけた。カーキッドとデュランの後ろに立っている。
 そんな所にいてはダメだと、レトゥは手を伸ばそうとした。その刹那体制を崩しかけ、オヴェリアが慌てて支えた。
 その瞬間、マルコが振り返った。
 レトゥとマルコの目が重なった。
「マルコ」
 少年は悲痛な顔をしていた。
 泣いていた。驚いていた。困惑していた。苦しげだった。
 しかしやがてそれは、無になった。
 そして口だけ笑った。彼は小さく頷いた。
 レトゥは叫んだ。
 だがその叫び声よりももっと響いた声は。
「僕が、マルコ・アールグレイです」
 決意と涙がにじんだ、声だった。




「連行する、捕らえよ」
 カーキッドが剣を構える。後ろ手に、マルコを建物の中へと押しやる。「馬鹿野郎が」
「構わん。抵抗する者は全員斬り捨てろ。マルコ・アールグレイの捕縛を最優先とする」
「気違い共が」
 怒りを顕にするカーキッドの腕を、マルコが握った。
 驚きカーキッドは彼を見つめたが。
「……」
 マルコは何も言わなかった。ただカーキッドを見つめ、小さく頷いた。
「僕は行きます。だから、皆には手を出さないで」
 ――先生に、危害を加えないで。
「先生は、今、町の医者の所に行ってるので……ここには、いません。だから。僕が行くから……もう、これ以上やめて……」
「ふざけんなクソガキ」
 カーキッドの脇をすり抜け、マルコが騎士の所へ向かう。その腕を掴もうとしたが、マルコが首を横に振ってそれを制した。
「行くから」
「――ッ」
 あっという間に騎士の一人が、マルコの小さな体を捕らえる。そのまま抱える。
 カーキッドはその様を呆然と見ていた。
「撤退する」
 それを見てガブリエルは彼らに背を向けた。
「お待ちください」
 その背に向かって、デュランが言った。
「私も同行いたします」
「何と……?」
「私は聖サンクトゥマリア大教会エイレン会所属、デュラン・フランシス」
「――」
「私も大教会に属する神職の身。負傷されたゼクレトル・フレイド殿の名代として同行する」
 カーキッドが驚愕の目でデュランを見た。
 デュランはチラとだけオヴェリアとレトゥを見て、仄かに笑みを浮かべた。




 馬が去っていく。
 まずは姿、やがて音も。
 残るのは砂煙と、その苦い臭いだけ。
 マルコは去った。デュランも共に行った。
 そして残された者たちは。
「どういうこった、じじぃ」
「やめてカーキッド!」
 レトゥに掴みかかったカーキッドを制したオヴェリアも。
 だが問わずにはいられなかった。
「レトゥ様、一体何が……」
 レトゥは地面を見つめ、ただ首を苦しげに振り続けた。

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