『 白薔薇の剣 』

−最終王女、騎士録−

 

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 第17章 『反流の嚆矢』 −2−

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 思えば昨晩の夢はひどかった。
 何かに食われるような夢だった。それが何かはっきりとは覚えていないが、デュランは悪夢に跳ねるように起きた。
 幸い悲鳴を上げる事まではなかったようで、同じテントの騎士は眠っていたので安堵した。
 それから夢の事は忘れてしまっていたが、今更ながら思い出す。
 あれは予兆だった。
 そして恐らくこの息苦しさも。背中に這うように走る悪寒も。
 鼓動は早鐘に打ち続けている。まるで何かを警告しているかのように。


  ◇


 ――明け方というにはまだ早い、まして夜中というには朝に近い、そんな時分であった。
 デュランはそっとテントを抜け出た。同室の騎士は1人しかいなかった。残りは今夜は見回りだと言っていた。
 騎士が交代で深夜も見回りに立っているのは知っていた。おおよそ3時間交代だ。注意して見ていたわけではなかったが、大体の場所も把握していた。
 中央の焚き火は完全に消えている。硝煙の臭いが微かに掠めた。風は湿っぽい。
 焚き火の向こうに騎士が座り込んでいた。見張りだろうが、うたた寝をしていては意味を成さない。その間にテントの裏へと身を隠す。
 荷物はすべて持ってきた。背には愛用の弓矢もある。
(問題はマルコか)
 今日、逃げなければならないと、デュランは思った。
 これまで、マルコを連れてここから逃げる事を考えていなくもなかった。この3日で起こった事はあまりにもおかしい。
 だがそれをしなかったのは、思ったほど騎士たちの態度が厳しい物ではなかった事。マルコへの監視の目は厳しかったが、彼に暴力や無体を振るう様子はなかった。単純に、命令を受け連れて行くための措置としての行動だと見えた。
 そしてもう1つはデュラン自身も知りたかったのである。マルコを連れて来いと命じた者の真意を。
(ドルターナ卿)
 一体何のために、何を彼に問おうと言うのか。なぜそれが今なのか、こんなに多くの騎士まで使って。
 記憶の中で笑う枢機卿の姿。師の不幸を前に涙を流してくれた男を、デュランは信じたいと思った。もし要らぬ詮議があったとしても、彼ならば話し合えると。あの人が、幼子に無理を強いるような真似はしないと。
 だから彼は黙って、道を共にした。このままマルコと共にドルターナ卿の前に立つつもりであった。
 だが事態は変わった。
 数時間前マルコが言った一言によって。デュランは、一つの決断を下した。
 ――マルコのテントにはやはり警備がついている。
 だがその頭は垂れている。
 そっと近寄る。だが動く気配はない。
 デュランがした事は1つ。ねぎらいいに渡した酒に、少し強めの眠り薬を混ぜた事。
 それでも音を立てないように中へ忍び込み、寝入っているマルコの頬を軽く叩いた。
 マルコはすぐに目を覚まし、目の前にいた男に驚愕した。
「デュ……」
「静かに」
 軽く口元を押さえ、デュランはマルコの耳元で囁いた。
「行けるか?」
 逃げるぞとは言わなかったが、マルコはさらに驚愕した。
 少年に荷物はなかった。身一つでここまで連れてこられた。
 外にいる騎士の様子に、一層マルコは身を硬くした。
「死んでるの……?」
「まさか」
 小さく笑い、デュランは答えた。「私が服用している物を、少々分けてやっただけだよ」
 腰を低くし、そのまま駆ける。見張りは立っていたが、掻い潜るデュランの方が何枚も上手だった。
「行こう」
 騎士の陣を抜け出すと、2人は走った。
 ランタンを持たない2人にとり、月の光だけが頼りだった。
 そして闇は沈黙と共にあった。その闇は重く、2人の地を掻くような音も反響を待たず飲み込んで行ってしまう。
 マルコはそれを怯えたが、デュランは臆せず闇の中へと駆けて行った。
 深い紺の衣は今は闇同然。
 足場も悪い。まるで泥沼を泳いでいるようだとデュランも思った。
「デュラン様……ッ」
 どれだけ走ったか、それは大した時間ではなかっただろうが、マルコの足はそろそろ限界の様子だった。
 一度立ち止まり、崖のくぼみにサッと身を隠した。マルコも続く。
「デュラン様、どうして」
 はっきり見えなくても、マルコの表情には戸惑いが浮かんでいる。デュランは軽く汗を拭った。
「このまま東へ。とりあえず来た道を戻ろう」
 来た道を戻っても決定的な行き場はない。だがここにいるよりはマシだ。
 とにかく落ち着いて考えたかった。一体何が起こっているのか、起ころうとしているのか。
 もしかしたら、とデュランは思う。すべての事象は自分の想像を遥かに越えているのかもしれない。
 もし万が一――マルコが言っていた事が事実だったとしたならば。
 彼は言ったのだ、黒い鴉が手紙を運んだのだと。
「デュラン様……」
 だが、デュランは胸の不安を吐露するわけにはいかなかった。マルコに気取られぬように笑顔を見せる。闇の中見えようが見えまいが関係なかった。己のためにも、口元を引き上げた。
「すまんな。急に走らせて」
「……」
「どうにも、もう……連中の出す食事を食べる気がしなくてな。塩辛いばかりで、風味がない。もう少し料理が美味しかったら一緒にいてやってもよかったが。後は、むさ苦しい男ばかりではなく美しい女騎士でもいれば」
「……」
「すまん、つき合わせて。どうにも一人じゃ、抜けにくくて」
 どこかで虫の音がした。ジジとリリの中間の、濁ったような音だった。
 マルコはしばらく、デュランを眺めていたがやがて、
「……それって、オヴェリアさんみたいな?」
「ん?」
「美しい女騎士」
「……」
 マルコはオヴェリアの素性を知らない。彼女が白薔薇の騎士という称号を持っている事は無論。だが白い鎧をまとった姿に、デュランの言った女騎士の像は自然と彼女へと当てはまった。
 デュランは少し笑顔を崩し、「そうだな」と答えた。
「あんな美女がいるならば、確かに、地獄まででも共をしよう」
 デュランの言葉に、初めてマルコが笑った。「うん」
 デュランはクシャリと少年の髪を掻いてやり、再び歩き出した。マルコも後に続く。
(どこまで行けるか?)
 馬を盗むべきだったかと思ったが、それは無理だっただろうとも思う。馬置き場にも騎士はいた。その目を盗んでマルコと共に馬を連れ出す事は不可能だった。
 ならばとにかく走るしかない。少しでも遠く、空気に紛れるように。
 だがデュランが本当に恐れているのは騎士たちが追ってくる事ではない。
 彼の本当の敵は闇。
(鴉)
 考えたくはない。だから走る。
 だが考えなければならない。真実を探し当てなければならない。
 そしてこの目で直視しなければならない。
 ――いつの間にか、虫の音が止んでいる。
 いかなる真実とも、事実とも。
 ――その代わりに聞こえたのは。
 目の前に立ちふさがる以上は、




 ――鴉。




「ヒェッヘッヘッヘ」
 闇の中から唐突に、その笑い声は聞こえてくる。
 初めは耳が疑うほどに遠く。
 そして次に聞こえてきた時は。
 ほんの耳先、真横で。
「!!??」
 突然の声に、マルコが驚いて転がる。
 それと同時にデュランはもう、護符を取り出し放っていた。
「ディア・サンクトゥス!!」
 闇の中、放った紙は赤い光をまとって虚空へ飛ぶ。
 だがそれも唐突に消える。
 食われたと思った。食ったのは、
 闇だ。
「ヒェッヘッヘ………」
 また声は遠ざかる。デュランは再び腕を構える。
「マルコ!! 大丈夫かッ!!」
「は、はい」
「私の後ろから離れるな!! 絶対だ!!」
 足場固める。石がごろつく。ここでは転がっただけで皮膚は軽く裂けそうだ。
 だが問題はそうではない。その程度ならば上々。杞憂すべきは、生きてここを抜けられるかどうか。
「やはりお前か」
 首筋を流れた汗を拭く余裕はない。
 見据える闇の中が揺らめいた。違う、そうじゃない。
(闇の中に、一層の闇がある)
「ギル・ティモ……ッ!!」
 デュランの怒声にまた、闇が笑った。
「このような場所でまた、お前とまみえるとはの?」
「……こちらの台詞だ」
「ヒッヒ、わっぱは眠る時間じゃ」
 小馬鹿にしたようなその声に。
 デュランも顔に笑みを浮かべた。
「その安寧を脅かすのは誰だ」
 一呼吸の間。そして末に。
「ああ、わしか」
 闇の中に、三日月が浮かんだ。
 それが笑ったギル・ティモの口元だと知れたのは、すぐの事であった。
 マルコが小さく悲鳴を上げた。それを打ち消すように、デュランは声を張り上げた。
「なぜお前がここにいる」
 ――鴉を使う術者を、他には知らぬ。
 禍々しきものとして、特に神職を司る者の中でそれは忌み嫌われてきた。
 だがただ一人、好んでそれを使っていた人物。
 魔道師、ギル・ティモ。
 彼の名が、後に決定的になる以前より。
 男の周りにいつも張り付いていたのは、黒き鴉。
 デュランは眉間に、深く深くしわを刻んだ。
「……答えろ、なぜお前が、」
 進路を変えたのは昨日の夕刻。
 鴉が書を届けた、その末の結果。
 受け取り主は神聖騎士団。
 それは教会に属する、神を守るための兵団。
「なぜ? なぜじゃろうなぁ??」
 さも面白そうにギル・ティモは歯を剥いた。
 ――決まりきっている。
 否、結論を出すには早すぎる。
(やはり進路は西のまま)
 行くべきだったか、あの人の所へ。
 だが今となってはもう、走り出した。
 デュランは腕を構える。
「立ちふさがるならば、容赦はせぬ」
「ヒャハハッッ!!」
 大声で笑うと同時に、闇の中に輪郭が浮かぶ。全身をすっぽりと覆うマントが、たなびき生き物のように舞った。
「その目、よう似ておる」
「……」
「西の賢者の弟子、デュラン・フランシス」
 ドクンと、一層心臓が跳ねた。
 懐かしや、懐かしや。歌うような口ぶりは、右へ左へと抜けていく。
「お前に会ったあの日から、ずっと考えおった。ラッセル・ファーネリア。あの時の事、忘れておった自分が何とも不思議。あれほどの甘美な瞬間」
「忘れていた……?」
 グツグツと煮える。これは何だ?
「俺は忘れた事は、ない」
 一瞬たりとも。
 体も心も魂も、生けるすべてを懸けて。
 あの日から、デュランは誓い続けている。
 ――マルコはデュランの異変を感じている。
 いつも冷静で、笑みを絶やさぬ神父が。今、
「俺は、お前にずっと、会いたかった」
「ほうほう? わしにか」
「ああ」
 忘れるなんてできなかったさ、と呟き、デュランはその口元に笑みを浮かべた。
 そしてギル・ティモは、デュランが何を言おうとしているかちゃんとわかっていた。それでも問うのだ。
「わしに会いたかったか」
「ああ」
 ――絶対に。
「お前は、俺が殺す」
 ギル・ティモは笑わなかった。その代わり、口元の歪みがいびつな曲線を描いた。
「師の仇、か」
 返事はしない。
「そうじゃそうじゃ。……ラッセル・ファーネリア。あの男のう? いたのう確か、たった1人の」
 ――娘が。
 デュランの魂がいよいよ燃えて。
「そうじゃそうじゃ。ヒッヒッヒ……そうじゃったわ。あの娘、何日もった?」
 弾けて。
 飛んだ。




「ディア・サンクトゥス!!!」
「ヒヒヒ!」
 腕を一閃。デュランの技を、ギル・ティモは笑いながら消し去る。
 その姿が消える。「ラウナ・サンクトゥス、ラウナ・サンクトゥス」詠唱を始める、辺りへ五感を走らせる。
 だが、今デュランは決定的に不利である。
 ――まず第一に、庇うべき者がいる事。
「фбшыёюип」
 何が飛び来たかはわからない。だが瞬間全身に切り裂かれたような痛みが走った。
 ――第二に、視界が悪い事。
 その痛みに我に還る。首を巡らせ、姿を追いかける。
 空間の揺らぎが見える、見えた瞬間に放っていては遅いのはわかっている。無論、護符はただ消えていく。
 ――第三に、辺りを取り巻いていたのが、闇だったという事。
「どうしたどうした?」
 右手から何かが飛び来る。咄嗟、デュランはマルコを押し飛ばす。そしてその場に、無数の刃は突き刺さる。
「ぐはッ」
「デュラン様ッ!!!」
 いや、刃なんかない。幻覚だ。
 だが感覚がそうは思わせてくれない。ふらついた足元から、今度は突き上げるように風が刃となって押し寄せた。
 すべて避けきれない。だが懸命に、マルコだけは身に隠す。
 マルコだけは。
「ラウナ、サンクトゥス……」
 少年を背に回し、詠唱を始めたその刹那。
「――ッ」
 口の中に、何かが押し寄せた。
 鼻は塞がれていない、だが口の中から喉を塞がれた感触に、デュランは目を見開き首を押さえた。
(声が)
 術者が喉を塞がれたら終わり。
 言葉、音。それは言うなればすべての術における引鉄ひきがね
 術者の限界がそこにある。
「無様無様」
 ギル・ティモの声は、次の風によって消し去られた。
 言葉をなくしたデュランに、術を防ぐすべはなく。
「デュラン様ッ!!!」
 血を吹き、倒れた男に、マルコは耳元で叫んだ。
まこと、哀れ」
 ――マルコは懐から白墨を取り出した。これだけは肌身離さず持っていた。
 震える手で白墨を走らせようとして、彼は愕然とする。地面に転がる無数の石粒。そこには書けない、書けなければ彼の力は発動しない。
「聖魔術の限界」
 闇は砕けんよ、と独り言のように言いながら、ギル・ティモが近づいてくる。はっきりとその姿が見えていた。
 デュランはその様をじっと睨んだ。息が荒ぶる、流れているのが汗なのか血なのかわからない。
 だが彼は、背中に手をやった。
「なぜお前の師が死んだか。なぜこの世の誰も、わしには敵わぬか」
 背に抱えた弓を取り。矢を引き抜く。
 ――魔術師が声をなくせばそれで終わり。
 だからデュランは弓を持つ。
「ほう? そんな物でわしが射抜けるか?」
 そしてもし彼の口が利けたなら、デュランはこう言ったであろう。
 師が最初に自分に教えたのは、魔術じゃない。
 弓の打ち方だと。




 立て続けに4本打った。
 矢は見事にまっすぐ、ギル・ティモへと向かった。
 だがすべて、見えない壁によって叩き潰された。
 5本目の矢を番える。込める願いは1つだけ。
 射抜け。
 一念の元に放たれたそれは。一陣の風を起こし、空気を切り裂き。
 だが、叩き潰すのにも飽きたかかのように、ギル・ティモはすんなりと避けた。
 闇へと飛んで行く。その姿を見届ける事もせず。
 次の瞬間、ギル・ティモはデュランの真正面に現れ、その喉元に手を当てた。
 当てているのは手だ。だが、
「一枚」
 その指がスッと上下するだけで、デュランの首の皮が薄くさけた。「2枚目は血管を巻き込む。血潮吹く」
 デュランは動かなかった。
「残念じゃの」
 目の前にいるのが人なのか闇なのか。ただ、デュランは目をそらさなかった。
 体中が痛む。マルコが泣いている。もがこうにも、足が動かない。
 そんな彼にギル・ティモは尋ねる。心底不思議そうに。
「一つ聞く。なぁ、お前は使えるんだろう?」
「……」
「なのになぜその術を使う? なぜ使わぬ? わしを射抜くために必要な物が何なのか、もう答えは出ているだろうに」
「……」
「お前の師が考案した聖魔術、それでわしを仕留めるのが誇りとでも言うか?」
「……」
 喉に詰まっていた物はなくなった。息が通る。だがデュランは答えなかった。
 代わりにジッと目の前の闇を見続けた。
「少し惜しいが」
 これにて別れか。
 ギル・ティモの手が一端離れ。やがて青いような光を放ち、デュランの喉元を目掛け振り下ろされる。
 ――その瞬間。
 ギル・ティモは顔を上げた。
 馬だ。
 押し寄せる馬脚の音は、デュランの耳にも入った。
 そして。
「待たれよ!!」
 聞こえたのは、威厳持つ団長の声。
「その2人は、我らの客人」
「ヒヒヒ」
「……これは、八咫やた殿」
 八咫。神の使いの鴉かと、デュランは朦朧とする意識の中思った。
「2人をお渡し願いたい」
「ホッホ、こいつは意に逆らい逃亡をはかった罪人ぞ?」
「……そのようですな」
 ギル・ティモを見据えるデュランには、ガブリエルの顔はわからない。どの道この闇だ。振り返っても見えはしまい。
「ならばこの場にてわしが処刑しても、よいな?」
 しかしガブリエルは首を横に振った。「いいえ」
「デュラン殿も連れて行きます」
「何と?」
「我らに彼の罪に対する罰を決定する権利はない」
「……」
「マルコ・アールグレイと共にドルターナ様の裁断を受けるべきかと存ずる」
「どの道同じ事じゃ」
「彼はエイレン会所属と名乗った。この場での処断は出来ぬ」
 ――いつか、
「お放しください、八咫殿」
「……ッ」
 八咫が手を離すと、デュランは地面にそのまま伏した。
 その様に慌ててガブリエルが駆け寄る。名を呼ぶと薄目を開けてニヤリと笑った。
「愚かな事をしたな」と、その顔に向けガブリエルは言ったが。
 抱え上げられながらデュランは思う。
 ――いつか、この日、俺を仕留めなかった事を――。
 マルコが泣いている。
 大丈夫だと言ってやりたいが、それより先に意識が落ちた。




 昨晩の悪夢、食われたのは闇だった。
 ――もう一度食われ、初めてそれに気づく。

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