『 白薔薇の剣 』
−最終王女、騎士録−
第18章 『竜の閂』 −1−
――母さんは、笑ってた。
いい子にしてねと。すぐに戻るからねと。
あの時母さんは思っただろうか? 二度ともう、ここには帰れないと。僕らはもう、会う事はできないと。
あの日から僕は、わからなくなった。
父さんと母さんは蟲を作ったんだと言われた。だから捕まえると言われた。
そんなの嘘だ。そんな事しない。
叫ぶべきだった。でも、できなかった。
あの時は、2人共すぐに戻ってくると思っていた。だって……2人は何もしていない。そんな事していない。
町の人達に何を言われようとも、気にしなかった。そんな事あり得ないから。
けれども。
……数日後、町は蟲に襲われた。
火はあっという間に回った。
僕は2人の名前を呼び続けた。
だけど、答えてはくれなかった。
蟲は怖かった、死ぬ事も恐ろしかった。
でも1番怖かったのは。
1人になる事だった。
父さんと母さんは帰ってこなかった。
代わりに、知らないお爺さんが僕の所に来た。
お爺さんは泣いていた。僕を抱いてずっと、泣き続けた。
そしてお爺さんは、僕の手を取って歩き出した。
その手はとても温かくて。
ぬくもりは今でも手に残ってる。
父さんの最後の言葉を聞かされたのはそれから少し経った後だったけれども。
それを聞いた時は、もう、僕はわからなかった。
聞きたくないと思った。
何も思い出したくない。痛い、痛い。もう聞きたくない。
父さんと母さんがどうだったとか。
僕が知らない2人の事。そんな事聞かされたって。
……結局2人は戻ってこない。
◇
――目を開けても、暗かった。
石畳の上で、抱いた膝を見つめたまま。
また1人だと、マルコは思った。
僕はまた、1人ぼっち。
「先生……」
燃え盛る町で、何度呼んでも父と母が現れなかったように。
今度もまた、レトゥは現れない。
そしてまたあの時と同じ事を思うんだ。
無事でいてと。
……姿を見せないのならその代わりに、どうか、無事でいて。
生きていてと。
願いながらまた、1人、泣くんだと。
18
昼過ぎ、伝令は届いた。
「すぐ行く」
書き物を中断し、すぐに上着を羽織る。
鎧は脱いだ。今は騎士服。
――ガブリエル・ヴィンガーは急ぎ、回廊を渡った。その後ろに同じように、3人の側近が足早に続く。
「ヴィンガー団長、こちらです」
角を曲がるとすぐ別の騎士が現れ、先導に立つ。
その背を追いながら、ガブリエルはこの数日の事を頭に過ぎらせた。
軍靴の速度は落ちない。
そして考えがまとまらないままに、目的の部屋へとたどり着く。
皆がまとめて、彼を見やる。ガブリエルは黙って頷いた。
腹をくくるしかないか。そう思い目を閉じた。
「ガブリエル・ヴィンガー団長がお見えです」
「入れ」
「――失礼します」
重い。
扉も開く音も、そしてガブリエルの心も。
だが足は動く、幸か不幸か痛む事もなく。
部下は待たせ、一人中へと入る。そして部屋に入ったガブリエルが最初に見たのは光だった。
薄暗い城内を歩いてきたせいか、しばらく目が利かなかった。それほどの光だった。
それは、室内にある大きな窓から漏れる光。
その前にいる男の姿が影のように浮かび上がるまでに、少し時間が掛かった。
「ヴィンガー、ご苦労だった」
ようやく目が慣れてきた頃、それを待っていたかのように影の主が言った。
この声には覚えがある。無論、惑う事なき主の声。
枢機卿ドルターナ・ウィグル。
ガブリエルは目を伏せ胸に手を当てた。「もったいないお言葉でございます」目を閉じても、視界はまだ白かった。
「しかしまさか、猊下 が自らおいでとは」
声に若干戸惑いが出た。一瞬それにガブリエルは焦りを感じたが、ドルターナは笑って流した。
「近くまで来ていた。急の変更すまんな」
「いえ」
声はいつもと同じ。微笑みが含まれている。だが不安を覚えるのは、逆光で顔が見えないからか。
明るすぎる室内は、逆にガブリエルに影を落とす。
「それで問題の子供は?」光の前に座していた黒い影の気配がスッと変わった。「会おう」
「マルコ・アールグレイは南塔の方に隔離しております」
「そうか」
「その前に……猊下、」
ようやく見えてきた主の輪郭に向かって、知らずガブリエルは拳を握り締めて言った。
「マルコ・アールグレイに会う前に、会っていただきたい人物がおります」
影は答えなかった。沈黙を嫌い、ガブリエルは急ぎ続けた。
「猊下と話がしたいと。できれば、マルコ・アールグレイの尋問の前に面会したいとその者が申しております」
「……デュラン・フランシスか」
出てきたその名にガブリエルは驚いた。
ドルターナは答える。
「聞いている。アールグレイの息子と共について参ったそうだな」
ドルターナにデュランの事を話した人物に、心当たりは1人しかいない。
「そして彼はここへ至る途中で、アールグレイの息子を連れ逃亡を謀ったと」
「……はい」
「彼はそれで? 今どうしている」
「地下牢に閉じ込めてあります」
しかし猊下、と言葉を続けようとして。それより先にドルターナの方が立ち上がった。
「デュラン・フランシス……彼の事をお前は知っているか?」
ガブリエルは一瞬躊躇ったが、「名前だけならば」と答えた。
「破壊僧デュラン」
「その通り名が有名か」
だがそれよりももっと、彼の事を語る上で外せない事は。
「西の賢者ラッセル・ファーネリア様のただ1人の弟子であったと聞きます」
ドルターナは含み笑い、窓に向かい背を向けた。「そうだ」
「デュラン・フランシス……西の賢者の弟子。その最期に居合わせた男。今はアイレン会に席を置いている」
「アイレン……」
それは、教会の中でも最高の術師が位置する場所。
そもそも教会には、教えを説き人々を導くといった活動の他に3つの会派が存在する。
1つ目は学問を究める者が集う会派。教会が保存する様々な書物を紐解き、その管理と維持、研究を発展させ新たな物を生み出す事を目的とする者が所属する所だ。
2つ目は腕を磨きを鍛え、神のために剣を取る者が集う会派。神聖騎士団がそこに属し、それ以外にも7つの大きな騎士団が存在する。彼らは教会の盾となり、神に命を捧げる覚悟を持ち日々励んでいる。
そして3つ目が魔術師の会派。
教会が保有する幾多の魔術書を使い、常に彼らは魔術を使える者を養成している。魔術には相性がある、鍛錬すれば全員が使えるというわけではない。だけに、非常に貴重な存在である。
ハーランド国も魔術師による特別師団を保有はしているが、その規模は教会の比ではない。訓練施設、そして養成の体制が格段に違うのである。ハーランド国の師団に属していても、出身は教会の訓練所という者が圧倒的だ。
その魔術師の会の中にも、称号により上下は分けられる。
魔術師の上を行く魔道師、そして賢者。
その中でアイレン会と呼ばれる一団は更に特別とされていた。教皇の直結として選ばれた者達、魔術を扱う者としては最高の地位とも呼べる場所なのだ。
だからガブリエルは、デュランに留めを刺そうとするその手を止めた。教皇は教会で1番の存在、現在聖母・サンクトゥマリアに一番近いとされる者だ。その直属たるアイレン会に属する彼の生死を、こんな場所で決める事などできないと判断したためだった。
それ以上の考えは、あの場ではなかった。
「お前の判断は間違っていない」
ガブリエルの心を覗き見たかのようにドルターナは言った。
「アイレン会に属する者を、何の詮議もなしに処刑というわけにはいかない」
「猊下、」
「だが……私も信じられないよ。まさか彼が、そのような事をするとは」
デュランは、マルコ連行の指示をしたのが枢機卿だと知っている。
だが彼は逃げた。それもガブリエルと会談を果たした数時間後だ。
あの時のデュランの顔に、ガブリエルはそんな感情を見抜けなかった。
(俺の目が浅はかだったのか?)
だがもっと不可解だったのは、捕らえた彼が言った言葉。
逃亡に気づき慌て馬を走らせた結果、デュランは死の一歩手前まで追い詰められていた。
慌て駆けつけたガブリエルが身を起こすと、彼の顔を見止めたデュランは朦朧とした意識の中言ったのである。
『マルコを……頼みます』
逃げてきた、その相手にマルコを頼むと。
――前夜、ガブリエルに会った直後にデュランはマルコのテントに行っている。見張りの騎士はその会話を聞いていたが、特におかしな点はなかったと言っていた。
だがテントを出た彼の様子はいつもと違っていた。
デュランはつねに笑みをたたえていた。それが、いつになく動揺している様子だったと。
彼がテントで直前にしていた会話が。
(鴉の伝書)
確かに枢機卿からの伝令を運んできたのは一羽の黒い鴉だった。だがそれを成したのは無論枢機卿ではなかった。
あれは魔術だった。そしてガブリエルは知っている、ドルターナの傍にいる、鴉を使う輩 。
そしてあの夜、デュランを死に際まで追い詰めていたのもその男。
(八咫……)
ガブリエルはその事をドルターナに告げようか迷った。だが彼が時間を要している間にも、ドルターナは彼を振り返り溜め息を吐いた。
「わかった、会おう。だがまずはマルコ・アールグレイの尋問が先だ」
言い、歩き出そうとした彼をガブリエルは慌てて止めた。
「猊下、先にデュラン・フランシスに会っては……いただけませんか?」
言ってから自分でも驚く。本来ならばこのような事言える立場ではない。枢機卿は教皇に次ぐ存在、対しガブリエルは一師団の団長である。
だが言ってしまってはもう戻れない。
「なぜだ」
「本人たっての希望です」
「……」
「マルコより先にお話したい事があると、くれぐれもと願い出ております。猊下」
――デュランは命を取り留めた。だがもう、何も語らない。
ガブリエルは自分でも不思議だった。だが彼自身も、迷う所があったのだ。
(デュランは猊下にしか語らない)
それが何なのかはわからない。だが。
……今の彼のあの様子を見たら。願い出る他なかった。
それはガブリエルに長年培われてきた騎士道に因る。
ドルターナは今は輪郭ではなく、はっきりと顔がわかる所に立っていた。雲が隠したか、逆光がにわかに緩んだ。
「……デュラン・フランシスか」
「猊下」
「……わかった、行こう」
その声も顔も、ガブリエルのよく知るそれだ。
だが何が不安だ?
ガブリエルは頭を垂れた。もう後は、そのまま顔を上げなかった。
ドルターナが部屋を出る、ガブリエルは後ろに続いた。
室内を思えばあまりにも、回廊は暗かった。今度は目がその闇に、何も見えなくなるようだった。
そしてそんな回廊よりも一層濃い闇の中に、デュランはいる。
この城はドルターナの物だが、実際に彼が地下牢まで赴いた事は今まで一度もなかった。
まして彼は枢機卿、それ以前も教会に身を置いていた。この城に来る事すら今では数える程度しかない。
その彼が、地下へと進む。
――ガブリエルが見つけた時、デュランは全身傷だらけとなっていた。
手当ては早かった。だがその傷はどれも、急所は外してあった。
まるで、わざとそうされていたかのように。
首筋にできた一本の傷。それは見事皮一枚だけ切り裂かれていた。そんな事、普通では到底できようにない。
傷を見てガブリエルは正直に思った、これはなぶられている。
これを成した人物は楽しんでいる。
人が、苦しむ様を。
……命は取り留めた。そしてガブリエルは彼はこの城の一番下に押し込めた。
見張りに騎士が立っている。枢機卿と共にきた兵士ではない、念のためにと、ガブリエルが指示を出し部下を立てた。
迷うような構造ではない。シンプルな造りだ。入り口から内部は一本道になっている。
だがその間にも1人、そして直接の見張りも1人。
内部は漆黒ではないが、昼の光は一切入らない。松明が消えれば一切の闇が落ちるだろう。
そこに、デュランはいた。
「顔を上げろ、デュラン・フランシス。枢機卿がお見えだ」
格子の向こうには一つ寝台がある。その上に男は胡坐を掻いて座っている。その姿は眠っているようにも見えた。
だがその双眸はガブリエルの声と同時に見開かれた。
そして彼は顔を向けた。その首にも顔にも、むしろ全身に、白い布が巻きつけられていた。
「久しいな、デュラン」
「枢機卿……」
掠れて聞こえぬほどの音をも拾う、ここはそんな静寂の間であった。