『 白薔薇の剣 』
−最終王女、騎士録−
第18章 『竜の閂』 −2−
寝台の上に、座を正す。
「デュラン・フランシス……聞き間違いかと思っていた」
待っていた、この時を。
「だがやはりそなたであったか。……このような再会を、残念に思う」
ここはカビ臭いが、まだマシだとデュランは思った。
格子の向こうに立っているのは、枢機卿ドルターナ・ウィグル。横にいるのは神聖騎士団団長ガブリエル・ヴィンガー。
ガブリエルは複雑な表情でデュランを見つめている。礼を言いたいとデュランは思ったが、今は他に優先させる事がある。
「ご無沙汰しております、ドルターナ卿」
口がうまく動かない。頬に当てた布のせいだ。だが精一杯デュランは笑って見せた。
垂れ目の彼が笑えば一層、笑みは深くなり。
ドルターナでさえも、その笑顔に一時場所も置かれた状況もすべて忘れた。彼の笑顔にはそうした力があった。
そしてそれを、デュラン自身がよく知っていた。
この顔が、彼はずっと嫌いだった。
だが笑おうと思った。いつも笑っていようと思った。
――あの日から。
残酷な運命により大切な物を失って。
もう、自分の心から何もなくなったと感じたあの日から。
彼は笑みを浮かべた。自らを、欺くために。
「お元気そうで何よりです。奥様も息災でございますか?」
「ああ……変わりない」
「それは良かった。……ガリオス山は今時分、雪が降っておるのでしょうな」
一面の白の世界。
その清浄の白が、デュランは苦手だった。
もはやあの白は、私にはそぐわぬ。そう感じ、今日まできた。
「デュラン・フランシス……前置きはよい」
デュランは言葉を止め、「左様でございますな」と言った。
「私に言いたい事があるか」
「はい。ございます」
ここでようやくデュランは、ガブリエルを向いて一つ頷いた。
それには礼と、同時にもう1つの意味が含まれていた。
退出して欲しい。
「……」
それに対しガブリエルは動かなかった。ただ小さく、首を横に振った。
一時デュランはそれを見ていたが、諦めたように2度小さく頷いた。
「マルコ・アールグレイの件です」
ならば行こう、このまま。
「デュラン……アールグレイの息子を連れて、逃亡を謀ったと聞いた。事実か?」
「ええ、事実です」
「なぜだ、デュラン。申し開きがあるなら聞く」
「……それより先に、枢機卿にお尋ねしたい事が」
闇の中、彼の目は光をたたえている。
「マルコ・アールグレイに何をお尋ねになるつもりでしょうか?」
この人は恩人だと、デュランは思っていた。
だがもう、引けない。戻れない。
「何をとは? 決まっているであろう」
「アールグレイ夫妻が犯した罪に関する事、ですか?」
「ああ、そうだ」
「夫妻の処刑からもう3年。いささか間が開きすぎていると思われますが」
「行方がわからなかったからだ。水の賢者が共に姿を隠した。ようやく所在が掴めたゆえに、今となった。それがどうした?」
ドルターナの表情に変化はない。だがそれはデュランも同じ。
「だとしても、あの子に何を問うつもりですか? 今更」
「……何を言いたい、デュラン・フランシス」
「事の真偽でございます、猊下」
「真偽?」
デュランは瞬き一つせず続ける。
「アールグレイ夫妻は蟲を作ったと言われている。3年前、初めて蟲が発見された時より現在、その生態はほとんど解明されていない。繭のような卵から孵化する事、火により凶暴化する事くらいです。どのように発生し、何が決定的な弱点となるのか何一つわからないままに」
町は襲われ、人が食われ。
ただ命は、打ちのめされていく。
「だからこそ、だ」
ドルターナの眉間に初めてしわが寄った。
「解明は急務」
「……ゆえにマルコに?」
「そうだ」
「……それは真でございますか?」
デュランはじっとドルターナを見た。
「仮にアールグレイ夫妻が蟲を作っていたとしても、あの子が何を知っているというのですか?」
「……」
「それを成すならば、なぜ軽率にアールグレイ夫妻を処刑された?」
視線は一切、外さない。ただドルターナの様子とその瞳を。
――瞳の奥の奥まで、見透かさんとするかのように。
「マルコから、蟲の何たるかなどわかるはずがないと思われます」
「それは私が判断する」
「いえ、無理だ」
「……」
「そしてあなただってそれはわかっているはずだ」
デュランは気配を研ぎ澄ませた。
――だから一層、煽 り立てる。
「マルコからは、何も得られない」
「……私が判断すると言うておる」
聖人君子と謳われる枢機卿の気配が、明らかに曇りを見せ始めた。
「お前の言いたい事はそれか、デュラン」
ドルターナの言葉からは、会話を終わらせようとする雰囲気がにおってきていた。
だが構わず一層、声を増しデュランは続けた。「なぜ、蟲の解明を前にアールグレイ夫妻を処刑したのか」
「ずっとおかしいと思ってきた……何か引っかかると思って参りましたが」
――デュランはこれまで見てきた。
あの男に関わった者がどうなっていたか。
最初はレイザラン。領主はその男によって獣とされ、赤子には呪いをかけられた。
次はフォルスト。人々は死を陵辱され屍人とされ、領主もまた同じように命を弄ばれた。
共通するのは、恐ろしき魔道師の存在。
そしてその魔道師が今傍にいるのは、
「アールグレイ夫妻を簡単に処刑したのは……本当は、原因が蟲などではなかったからではないのですか?」
「――」
ドルターナとガブリエルの様相が変わる。
「何を言っている、デュラン」
「2人の死の真相は別にある、違いますか? 2人は問うような事はない、だから即座に始末した」
「デュラン・フランシス、」
「むしろあの当時2人には一刻も早く消えて欲しい理由があった。だが2人を軽率に処刑した事により同時に闇に消えてしまった何かしらの事が、今になって必要になった。だから2人の忘れ形見であるマルコに問い正そうとしている、違いますか」
「……」
「改めて問います、マルコに何をお尋ねになるつもりか?」
「お前には関係ない」
そしてデュランにはわかる。もしもそこに、暗黒魔術が関わっているというのならば。
その気配は隠しとおせる物ではない。必ずどこかしらに出 るから。
「いいや、関係ある。だから問うているのです」
そう言い、デュランは腕をかざした。包帯が巻き締められたその腕には、確かに護符が1枚握られていた。
向けるのは、枢機卿ドルターナ・ウィグル。
「答えられよ。あなたは何を成そうとしている」
「控えよ、デュラン殿!!」
驚きガブリエルが2人の間に入ろうとしたが、それをドルターナが制した。
「……そなたには関係ない」
「あなたはあの日、涙をくれた」
岩肌に、デュランの声が一瞬響いた。
「あれは嘘か」
「……何の事だ」
「マルコ・アールグレイを使って何を成そうとする」
いや、とデュランは一つ視線を外した。
「マルコではない、鴉だ」
「……」
「ドルターナ卿ッ……!!」
デュランは叫んだ。ドルターナは身じろぎ一つしなかった。ガブリエルも剣の柄に手をかけたまま、動かなかった。
「……亡き両親が何を成していたか。共に生活し、何を見てきたのか。問い正すはその一点」
最終、ドルターナから口をついて出てきたのは、静かな調べのような声だった。
「避けては通れない。問わねば終わりも始まりもせぬ。これは人類のためでもある」
「……」
「残念だ、デュラン・フランシス」
それだけ言い、ドルターナは彼に背を向けた。
「ドルターナ卿!!」
その背中にデュランは叫ぶ。
「それを、我が師の前でも言えますか!?」
「……」
答える者はいなかった。
2人が消えてもしばらく、デュランは腕を下ろさなかった。
再び辺りに落ちた沈黙と闇の中にも、まだ何かを見ようとしているかのように。
デュランは真っ向を見据えたまま、虚空を睨み続けていた。
◇
「申し訳ありません、猊下」
牢を出るとすぐ、ガブリエルは深々と頭を垂れた。
「私が面会を願い出たばかりに、あのような」
「……よい、お前が気にする事ではない」
笑って答えるが、そこにガブリエルは違和感を感じた。
「猊下、」
「すまん、少し庭を歩く」
一人にしてくれ、とガブリエルはもちろん他の兵士にも言う。
そのままドルターナは庭へと歩み出た。
花が色とりどりに咲いている。ドルターナがこの城に来る事は滅多にないが、それでも、城の手入れは行き届かせていた。
一人庭を歩いて行くと、やがて小さな池にたどり着いた。覗けば鯉が泳いでいる。
そしてそこに浮かんでいる花。
――睡蓮。それが、ドルターナ家のハーランドにおける紋章であった。
それを眺め、ドルターナは息を吐いた。
彼はドルターナ家の四男だった。だから家を継ぐ事はない、そう思い幼き頃より教会に身を置いた。
だが奇しくも、兄3人は亡くなった。
両親も同じく。だから彼がドルターナ家を継ぐ事になった。
「……」
運命とは数奇。誰がそんな事思っていたか。両親と兄3人……揃って同じ病で倒れるなどと。
だが彼はそれを、ずっと昔から予期していた気がした。だから彼は早くにこの家を出た。
ドルターナ・ウィグル――この屋敷において彼が与えられた本当の名は、ミゼル・ドルターナ・ウィグル。だが枢機卿となったその日、ミゼルの名は捨てた。
彼はこの家が嫌いだった。恐れていた。
なぜならば、
「睡蓮の花言葉は、清純な心≠ナしたか」
――声は、不意に降って来た。
「そしてもう一つ。滅亡=v
「……」
だがドルターナは対して驚いた様子もなく、ただ目を伏せた。
「……そんな物、誰も知らぬよ」
ドルターナ家の先祖は確かに怪死が多い。だがそんな事は、どの家柄も同じ。
名が大きくなれば比例して、幸せの価値も遠のいて行くのか。
「だがあなたはその縛りから逃げておられる」
「五月蝿い」
「ヒェッヘッヘ、猊下はご機嫌斜めじゃ」
振り返りたくもない。そう思い、ドルターナは水面を見続けた。
「伝書は受け取った。デュランを止めたのはお前か」
「そうじゃ。労 ってもらわねば」
声は背後からする、横からもする。
だが姿を見たいとは思えない。
「ここからは、主の仕事じゃ」
「……」
「どうした? 迷うたか?」
「…………」
この男は心の内を見透かす。
だからドルターナは心を固く閉ざしてきたつもりであったが。
不意に外れた、閂 が。
「わかっておるはずじゃ。主に残された道は1つ」
「……」
「あの童が握っている……アールグレイが完成させようとしていた実験の最後の鍵。それが必要なのじゃ」
「……それが完成すれば、本当に」
助かるというのか? あの方が?
「ああ」
見ずともわかる。笑っている。
「そのウロコを煎じて飲めば、どんな病もたちまち治る。そしてその血をすすれば得られるのは不死じゃ」
「……」
「後一歩じゃ。そこまできているのだ」
欠片 は揃いつつある。残っているのはあとわずか。
「あの童が知る事すべてを聞き出せ――すべてはお前を救う、竜のためじゃ」
風が凪いだ。水面に漣が起きた。
声はもうしなかった。気配は消えていた。
ドルターナはしかし動かなかった。
――わかっている、もう後戻りはできない。
やるしかないのだ。
「……すまん」
それは誰に対して言ったものか。
だが視線を上げた彼の目に過ぎったのは、後悔でも迷いでもなく。
決意の念、ただ1つ。
そのためにここに来たのだ。
――滅亡の章を抱く、ドルターナの家。
ミゼル・ドルターナ・ウィグルは決意する。
これが定めだと。
ならばもう、行くしかないのだと。