『 白薔薇の剣 』

−最終王女、騎士録−

 

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 第18章 『竜の閂』 −3−

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「僕は何も知りません」
 マルコは首を振った。
「お前は両親と共に暮らしていた」
 だが男は許さない。そんな答えで、満足するはずがない。
「常に見ていたはずだ、父と母が何を成していたか。何をしようとしていたか」
「そんなの、知らない」
 聞かれても、聞かれても。
 答えられる事なんか、ない。
「僕は何も知りません」
 ――それに。
「お前の両親は、蟲を作ったとされている」
 男の言葉に、マルコは眉間にしわを寄せた。
「そんな物、作ってない」
 何も知らない、だけどそれだけは確か。
 あの日言わなければいけなかった、たった一つの言葉。
 だがそれを今口にするのは、正か、負か?
「そうだ……そうだな、お前の両親は、蟲など作っていない」
 目の前の男が言ったその言葉に、一瞬、マルコは希望を見た気がした。
 だがそれは仮初かりそめ。
 次に見る事になるのは、
「ならば何を作っていた?」
「――」
「マルコ・アールグレイ、お前の両親は蟲を作っていたか?」
「……違う、」
「ならば、何を成そうとしていた?」
「……」
 背中を這う、悪寒。
 だがもっと彼がぞっとした事は、目の前の男が優しい微笑みをその顔にたたえていた事。
 まるでそれは、絵に描いたような聖人の笑み。
「答えよ、マルコ・アールグレイ」
「……」
 笑顔なのに、マルコはそれが恐ろしいと思った。
 なぜだかわからない、だが気分が悪くなった。
 急激に膨らんだ吐き気が、言葉をせき止める。
 だが男はその顔を一層近づける。
「正直に、お前が知っている事をすべて話せ。さすれば何もせぬ」
 何もせぬよ。
 けれども今の時点でもう、マルコの両手は椅子に縛り付けられている。
 牢屋ではない。だがそこがいかに広く絢爛であろうとも、動けなければ同じ事。
 男は耳元で囁く。「自由になりたいだろう?」
「お前の両親がしていた事を、ここで私に言うのだ。何も、悪いようにはしない」
 もう一度、知っている事をすべて話せと言う男の笑みを見て、マルコは思った。
 ああ、目が笑っていないのだ。
 いかに口元を取り繕おうとも、男の目はまったく笑っていなかったのだ。
 レトゥに会いたいと、マルコは思った。
 縛られた自分の手で体温を確認する。そこに、レトゥの手のぬくもりを重ねた。
(先生……)
 知らず彼は、涙をこぼした。
 だが詰問はそれで終わらなかった。
 男は何度もマルコに尋ねた。
 そして同じように、マルコは知らないと言い続けた。
 両親があらぬ罪で汚名をかぶっている。それを返上したい。違うと叫びたい。
 だがマルコの中で何かが警告を唱える。言ってはいけないと。
 真実は、口に出してはいけない。
 だがもう、少年が口を閉ざせば闇に葬られる段階でもなかった。
 じっくりと、だが確実に。
 男は言葉を選び、やがて言葉にする。
「答えぬのならば、私が言おう」
 お前の両親がやろうとしていた事は。
「竜を蘇らせる事……そうではないか?」
 ぞっとした。
 もう、男には偽りの笑みすら浮かんでいなかった。
 そこにあったのは、無。
 怒りでもなく、悲しみでもない、こんな表情を。
 マルコは未だ、見た事がなかった。




 ビル・アールグレイとアンナ・アールグレイは、竜を蘇らせようとしていた。
 マルコがずっと隠し続けていた事。この世でそれを知っているのは、師であるレトゥただ1人だと。
 ずっと思っていた事を。
 目の前の剃髪の男は言った。
 それが、絶望の始まりだった。




 南の塔に監禁されたマルコへのドルターナの尋問は、それから連日続いた。
 その際、ドルターナは部屋に誰も入れなかった。だから誰も、そこで何を成されているかはわからなかった。
 外には容易には音も聞こえない。だからドルターナは、マルコに執拗にそれを問い続けた。
 お前の両親は、竜を蘇らせようとしていた。
 それがどういう事だか、お前はわかっているのか?
 お前の両親は蟲を作った罪を課せられた。だが実際にはそれどころではない。
「竜はかつて人類を滅亡の危機にまで陥れた存在だぞ?」
 それはおとぎ話ではない。その時の資料もある、痕跡も残っている。そして実際に竜は存在している。
 今は人里離れた場所にいる、だがもしもそれが数を増やし、再び空を黒く染めるような事になったら。
 炎は人など、一瞬で溶かす。町も国も大地も空をも。
 それがどういう事になるか。
「マルコ・アールグレイ、お前の両親がやろうとしていた事は、蟲を作るどころの騒ぎではない」
 マルコは何度も首を振った。耳を覆いたかったが、手が塞がれそれすらできない。
 だが違う、違う、そんなの違う。
 ひたすらそう言い続けた、違うと。自分は何も知らないと。
 だがドルターナはそんな言葉一切受け入れない。
「お前は知っているのだ。自宅を捜索したが何も見つけられなかった……お前は最後の鍵を、握っているのだ」
「そんなの知りません」
「竜を蘇らせる最後の鍵だ。それをお前は、」
「僕はそんなの、知りません」
「嘘を申すなッ!!」
 教会で、聖人君子とたたえられた男の顔は、そこにはなかった。
 彼は焦るように、マルコに詰め寄った。
 暴力はない、だがそれが何時間も何日も続く。
 幼い心にそれが、負荷とならないわけがなかった。
 マルコは段々と、わけがわからなくなってきた。
 だが必死に何かに問いかけた。
 それはレトゥか、それとも亡き両親か。
(僕は何も知らない)
 2人の研究の事など知らない。知らない事など、答えようがない。
 だが確実に、男が言っている事は間違っている。
 父と母は、世界を滅ぼそうとしていたのではなかった。
(父さんは、)
 夢だったんだ……ただ、父さんが幼い頃から描いた夢。
 いつも話して聞かせてくれた。
 もう、二度と聞く事できない物語だけれども。
「言わねば、お前も両親と同じ道を辿る事になるぞ」
 ……ならばそれでもいい。
 もう、自分は絶望を見た。
 何に怯える事があるかと思ったけれども、マルコは。
 泣いた。
 怖い事は何もないと自分には言い聞かせているのに。
 涙が溢れて止まらなかった。
 それは救いとは、ならないのに。




 そんな事が数日続き。
 ある日、ついにドルターナは魔術を使った。
「こんな事したくはなかった」
 彼はそう言った。その顔は苦しげだった。
 その頃にはもうマルコは、一切何も話さなくなった。否定の言葉すら、沈黙を貫いた。
 だから。
 ――魔術だ、とマルコが気づいた時にはもう、意識は朦朧もうろうとしていた。
 目の前で繰り返されるドルターナの手の動きが、徐々に違う景色へと変わって行った。
 それは夢だった、幻だった、そしてかつて確かにそこにあった現実でもあった。
 見えたのは様々な景色。そこには父と母がいた。
 家もあった。燃えてなくなる前の家。人が押し寄せすべてを洗いざらい持っていかれる前の家、光景。
 楽しかった。
 笑っていた。
 実際マルコは、声を立てて笑った。それをドルターナは黙って見ていた。
 彼もまた、マルコと共に記憶の映像を見ていた。
 ……裕福ではなかった。研究と言っても、教会から満足な資金が出るわけではなかった。
 研究の傍ら、ビルとアンナは町の仕事も手伝った。畑仕事もしたし、薬草を積んで薬も仕立てた。学問を教えるような事もあった。
 アンナが昔魔術師だった事は知っていた。だが結局、マルコは一度も母がそれを使ったのを見た事がなかった。
 貧しくても、穏やかな日々。
 父と母がいる、当たり前の光景。
 陽だまりの匂い。
 その中で、マルコはよく父の研究を眺めていた。
 父が私室にこもっている時は決して邪魔をしてはいけないと、よく母に叱られた。
 だがマルコはそれを破って、父がやる事を見ていた。
 ビルは咎めなかった。むしろ嬉しそうに息子に話しかけた。
『今父さんがやろうとしている事は、父さんの小さい頃からの夢だったんだ』
『ゆめ?』
『ああ。夢だよ』
 よくわからず、マルコは何度もその言葉を繰り返した。
 ビルはそんな息子を微笑ましく思い、それを語り始める。
『父さんは昔、竜に会ったんだ』
 竜。
 それが一体どんな存在なのか、その時マルコには想像もできなかった。
 ただ、父が目を輝かせて語るから。
『父さんがまだ……お前よりもうちょっと大きいくらいの頃だった。父さんの父さんに連れられて、あちこち旅をした事があってな。その時偶然、会ったんだ』
 嬉しそうに語るから。
『森の中で父さん達は道に迷って、ひどく困った。その時偶然出た場所にそれはいた。凄く大きくて……立派で、気高くて。何て言ったらいいんだろうなぁ……父さんはビックリした。そしてその姿に見惚れてしまったんだ』
『大きくてって……お家くらい?』
『ははは、もっとだ。この家なんか軽くまたがれちまうかもな』
 そんな大きな物想像できない。マルコは恐怖を覚えた。
 だが父は違った。懐かしそうに言った。
『竜は獰猛だと言われている。この世界を滅ぼそうとも言われている。だが父さんが会った竜は違った。あの時俺達は竜の領域に無断で入ったんだ。だが怒る事もなく彼は、俺達をじっと見ていた。とても静かな目だった。目が虹のように色を変えるのを見た。森の中で彼の姿は、まるで立派な樹木の1つのようでもあった』
 マルコの脳裏にも、滑り込んでくる映像。
 父が見たという、竜の姿。
『結局俺達が去るまで、竜は動かなかった。最後に振り返った時、竜はそっと目を細めた。それはまるで笑っているように見えたよ』
 竜が笑ってる。
『その後すぐだった。頭上を巨大な影が通り過ぎて行った。木々の間からでもわかる、天空を、竜が飛んでいたんだ。導かれるように、竜が行った方向へ走った。そしたら森を抜ける事ができたんだ』
 記憶の中でビル・アールグレイは、とても満足そうに微笑んだ。
『それからもう一度森の方を振り返ったら、まだ竜は飛んでいた。クルクルと弧を描くように。その姿は雄大で、美しくて。翼を広げ、雲を突き抜けていく様に、俺は涙を流した』
 ――あの日、竜に会った。
『もう一度、俺は会いたいんだ』
 伝承に語られる、凶悪な竜。
 でも本当に? ビルはかつて竜に会った。だがそれは、語られる物とは何一つ重ならない。
 美しく、気高く。
 驕りも、見下しも、怒りも悲しみも。
 何もなかったあの瞳。
 そこにあったのはただ、光。
『あれから父さんは、たくさん勉強した……竜の事もいっぱい調べた。歴史も、おとぎ話も全部読み漁った』
 竜と名のつく物ならば。
 実際に、ビルの書斎にはたくさんの本があった。マルコは小さくて見た事がなかったが、本がある事だけは知っていた。
『そうして勉強した末に思った事があるんだ……だから父さんは、もう一度、竜に会いたいと思う』
 何をどうやって、どのように、竜に会おうとしているのかはわからなかった。
 でもマルコは思った。僕も竜に会ってみたいと。
 父さんが会った、美しく気高い竜。
 いつか僕も会う日が来るんだと。
 ――その日から、マルコは竜の絵を描くようになった。
 父の書斎から引っ張り出した本の絵を頼りに、とてもそっくりには描けなかったけれども。
 空を翔ける竜と、その背中に乗った、自分と父と母の3人。
 それを見た父は笑いながら言った。「ああ」
『竜に乗って空を飛べたらいいな』
 と。


  ◇




 深夜でも、見張りは眠らない。
 警備に、連れて来た自分の兵士を使ってもいいドルターナは言ってくれたが、ガブリエルはそれを丁寧に断った。
 ゆえに、ここにいるのは気心が知れた者だけだ。
 ガブリエルは部下を信頼している。そして団員も同じように、ガブリエルを信頼している。
 その結束は、教会保有の騎士団の中でも最も固い。だからこそ、一の師団とも言われている。
「苦労をかける。様子は?」
「変わりありません」
 敬礼する騎士に、ガブリエルは頷いて見せた。
「少し外してくれ」
 ……騎士が去れば、そこに残されるのは2人だけ。
 ガブリエルと、デュラン。
 デュランは寝台の上に、以前見た時と同じように胡坐を掻いていた。
 一瞬眠っているのかと思われたが、松明の光の下でも良くわかる、彼は目を閉じたまま薄く笑った。
「何用ですかな、ガブリエル殿」
「……夜分にすまん」
「いいえ。ここでは夜も昼もない」
 むしろ今は夜分であったのかと、笑うほどだった。
 様相は乱れている。傷に障らぬ程度に衛生は心がけていたが、それでも、髪はいささか乱れ無精ひげもあった。
 だが開く瞳は変わらない。
 それを見、ガブリエルは感嘆の息を吐いた。
「……」
 だがそれきり、ガブリエルは言葉を見失った。
 用があった、だから来た。
 だが実際にデュランの前に立つと喉に詰まった。
 相手は檻の中にいる。身動きが取れないのはデュランの方。だがこうして向かい合えば、どちらが牢の中にいるのかわからない気持ちになる。
 恐ろしいと思った。
 このような状況でさえ、微笑を浮かべているこの男が。
(……いや、自分が恐れているのは別の何かか?)
 デュランがいる闇ではなく、本当はもっと。
 何か別の事を自分は――。
「マルコは息災ですか?」
 ガブリエルはハッと目線を戻した。
「……ああ」
「食事はきちんと摂っておりますか? また食べぬという事は?」
「……」
「ガブリエル殿?」
「……わからぬ、のだ」
「?」
 デュランが怪訝な顔をする。当然だ。
 ガブリエルは視線を外した。
「……連日、猊下はマルコ・アールグレイの尋問をされている。ただ1人、誰にも立ち合わせずにだ」
 デュランは黙って聞いていた。
「猊下は日に日に表情が険しくなっていかれる。あのような顔、私は一度も見た事がない。そしてマルコ・アールグレイも……」
 言葉を区切り、ガブリエルは一度言うのを躊躇ったが。やがて吐くようにして呟いた。
「まるで……抜け殻のようだ」
「抜け殻?」
「猊下の尋問が終わった後覗くと……まるで死んでいるようだ。意識も混濁している。猊下にその事を尋ねても、何も答えてはもらえない。必要な事をしているだけだから、何も心配する事はないと。口出し無用と言われるばかりで」
「……」
「猊下はあの部屋の中で……一体、何を……」
 言葉途切れたガブリエルに、やがてデュランは答えた。
「やぐら見の術」
「何……?」
「人の心、記憶を覗き見る術だ。一般には禁術とされているが、ある役職以上は使用を許されている。枢機卿もその内に入る」
 ガブリエルは絶句したが、デュランは続けた。
「使われた者は、直後、意識が夢と現を彷徨う。術の掛けようが強ければ、そのまま二度と正気に戻れぬ事もある。まして人の心を覗くのだ。術者とて正気でいられるはずがない。術を掛けた相手の辛い経験、胸を裂くような感情も全部、共に味わう事となる。鍛錬を積まねば、術者とてそのまま狂う」
「それは……ッ」
「ゆえに、禁術だ。禁を犯せば極刑。権限をもっている者でも、よほどの事がなければ使えぬ。難しい術だ」
「……」
「そうか、卿はマルコにやぐら見を使ったか」
「何ゆえ。猊下は一体何をなされようと……」
 マルコの姿は、騎士の心をぐらつかせた。意識が朦朧としている様は、それほどまでにひどい有様だった。
 呆けたように虚空に視線を漂わせる。息はかろうじてしている、だが開いた口元から涎がこぼれても何も感じた様子にない。
 首をもたげる事も忘れ、瞳を閉じる事も忘れたその様を見て、彼が唯一できたのは、せめてその双眸を閉ざしてやる事くらい。
 涙が出た。
 ガブリエルは人の親ではない。だがこんな姿を見たら、両親は何と思うだろうか。
 それを成しているのが……ドルターナ。
 疑った事などなかった、敬意以外に持った事なかった人が。
「まるで拷問だ」
 体は傷ついていない。だが心にどれほどの傷を負わせているのか。
 わからない……それが本当に必要な事なのか?
「猊下はマルコに何を聞いていた?」
「わからん。それは誰にもわからん……誰も中には入れない」
 デュランは少し考え、別の事を問うた。
「あの鴉」
「……鴉?」
 ガブリエルは瞬間、何を言われているかわからずにいたが、「八咫やた殿の事か?」
「八咫……」
「あの方は、猊下の相談役だ」
「いつから」
 デュランの声に含みがある事を、ガブリエルは気が付かなかった。
「最近、だろうか……? よく知らぬ。ただ、猊下が招聘しょうへいされたと、バジリスタより――」
 瞬間、デュランは目を見開いた。
「何?」
 ガブリエルは驚いた。座って動かなかった男が、突然立ち上がり格子に掴みかかったがゆえに。
「今何と言われた、ガブリエル殿」
「どうされた、デュラン殿、」
「八咫と申す者バジリスタより来た……真なのか?」
 頷くのも躊躇われる、その熱。
「八咫……」
 彼のその様に改め、ガブリエルは思い出す。
「そなたとあの方、何かあるのか?」
「……」
 デュランが騎士たちから逃げ出した発端が鴉の伝書だというのならば。
「なぜあなたは……猊下にあのような事を……」
 デュランに傷を負わせた者。
 それを囲っている、枢機卿。
 だがそこにとどまるか?
「……………」
 デュランは視線を外し、一度ひとたび思考に落ちる。
 そして、
「マルコを、頼みます」
「……なぜ私に言う?」
 あの時もそうだった。八咫に負わされた傷により、意識を失うその最中で、彼はガブリエルに託した。
 その問いに、デュランは少し驚き、やがて最初と同じ笑顔を浮かべた。「さあ」
「あなたこそ、なぜ私に気を掛けてくださる?」
「それは……」
 ――わからぬから。
「答えが必要ならば申しましょう。ガブリエル殿、あなたが騎士ゆえにだ」
「……」
 わからぬのだ。




 胸を引っかかる。何かが起ころうとしている。
 強大な、何か恐ろしい事が。
 だがわからないのは、自分がそれを見るべきなのか。
 それとも知らぬ振りをして目をそむけているべきなのか。
 わからぬ。どうすべきか、どちらこそが、
 ――騎士道に、背かぬ事となるのか。
 デュランに問うても結論はでなかった。
 だが運命は、迷う時間など与えてくれない。
 ――急転するのはその夜の事である。

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