『 白薔薇の剣 』
−最終王女、騎士録−
第18章 『竜の閂』 −4−
目を覚ますと夜だった。
ここ数日、そんな事が続いている。
いつ眠ったかもわからなかった。
だがマルコは覚えている。いつも、始まりはあの男。
剃髪の男。彼は教会の者だと言った。最初に名乗っていた気がするが、覚えていない。枢機卿などという役職はもっと頭に入ってこない。
あの人が部屋に現れる。2、3問答をされる。そしてその後、意識は混濁していく。
夢を見るような感覚だった。その人が使う魔術だった。いつも男はそれを成す前に何度も何度も謝罪の言葉を述べていた。だがそれがマルコの頭へと達する前に、もう術は完成されていた。
マルコの目の前に広がるのは無。そして、記憶の映像。
過去に見た様々な景色。
だがそれを見ているマルコは、その時の自分となる。それは過去の映像ではなく、現実に今起こっている事だった。
1度見たはずの映像。世界。
マルコはその中で、同じ場面で笑い、泣いた。喜び、悲しみ、跳ねた。
でもその当時と決定的に違う事は。
わかっていたから。
夢でもあり、現実でもある世界。でも薄々とマルコはその世界に浸りながら気づいているのだ。これが幻であるという事を。
……それでも、その世界から覚めた後はわけがわからなくなる。一体どちらが、今≠ネのか。
今夜もそうだった。目覚めた、夜だと思った。だがここがどこなのか一瞬わからない。家か? よく遊びに行った友達の家か? テール爺の所か?
そして最終的にたどり着く、ここが、名も知らぬ城である事に。
気づいた瞬間の絶望は、言いようがない。
(ここは城)
父さんも母さんもいない。村もない。何もない……。
でも涙はこぼれなかった。
度重なる絶望が彼の心を苛み、壊しかけていた。
心の痛みが麻痺していく。
だが体の痛みは逆に増していく。
腕が痛い、足が痛い。全身が軋む。
皮肉にも、その痛みだけが彼を現実につなぎとめていた。
「……」
マルコは周りを見た。
いつもならば部屋には誰かがいる。剃髪の男がいる時は人払いされていたが、他は常に監視の目があった。
そして彼が目を覚ますと、一時縄を解かれ食事が与えられた。
出された食事をマルコは、食べた。気分が悪くてまったく食欲がなくても。後で吐いてしまったとしても。
それは前にデュランに言われたから。
かつてここに来る最中、まったく食事を摂らなかったマルコにデュランは言ったのである。
望みは絶つな。自分自身で、希望の糸を切るような事をするなと。
今は走れずとも、いつか必ず走る事できる日が来る。その時のために、与えられるというのならば何でも食べろと。生きよと言うのならば、何としてでも生きよと。
「……」
だがマルコには、正直今、その日が来るとは思えない。自分が今何としてでも生きたいかと問われたら、違うと答えただろう。
それでも言いつけを守っているのは、彼が恩人であったから。
ここに来る途中、デュランはひどい傷を負った。
その傷は、自分を庇って成された物であったから。
(デュラン様……)
城に着てからは、まだ一度も会っていない。ただ安否だけは尋ねた。今は地下の牢獄にいるものの、治療をされ命に別状はないのだと。
この暗い絶望の中、それだけが唯一安堵した瞬間だった。
(先生……)
見せられた幻の中に、レトゥの姿も出てきた事があった。初めて会った頃の老人。彼は優しく微笑み、そして泣いていた。
デュランの姿と師の涙を思い出し、初めて、マルコの目に涙が浮かんだ。
「まだ泣けるんだ……」
思わず呟き苦笑した。
僕はまだ、壊れていないのだろうか?
自分が壊れていく感覚。きっとそう遠くない未来、自分は、自分ではなくなってしまうだろうと思った。ここ数日、そんな事を考え夜を過ごしていたけれども。
こぼれた涙は、まるで泥水のようだった。砂が混ざって落ちていく。
涙を拭う事も出来ない今。頬がこそばゆい。それにまた少しだけ笑った。
――そして。
落とした涙で目が蘇る。曇っていた視界がはっきりと映り出す。
だから気づいた。
「あ」
目の前に、ユリがある事に。
正確には、ユリの紋章。
この紋章を抱く者達を、マルコは知っている。
神聖騎士団。レトゥの元から彼をここまで連れ来た者達。彼らは一様にその背にユリの章を描いたマントを羽織っていた。
そのユリこそが、大教会の紋章。
……見知ったユリの章。それがすぐそこに横たわっている。
それを背にした騎士と、共に。
「――」
マルコは驚き目を見張った。思わず体が揺れた。つながれていた椅子がそれに合わせて、安定を失う。
そのままマルコは、椅子ごとその場に転がった。
床に打った衝撃に、体が驚き悲鳴を上げたが。
だがさらに驚くべき事が起こった。
椅子に、マルコの腕をつないでいた縄が。
その瞬間、音もなく切れたのである。
人が倒れている、そして縄が切れた。
突然起こった2つの出来事に、マルコは混乱した。自分の腕と縄と、そして倒れた人の姿を何度も何度も見返した。
「何で、」
縄は綺麗に切れていた。まるで刃物か何かで切られたかのように。
しかしマルコはその時はそれどころではなかった。
倒れた男を見て、死んでいるのだと思った。
明るければもう少し違った物が見えていたかもしれない。だが、そこに血が流れていようがいまいが、マルコには関係なかった。
「……」
彼は知らずと後退りしていた。足が震え出した。
誰かに知らせなきゃ。……でも、誰に?
もしこの状態を見られたら、一番に疑われるのは自分だ。
そしたらどうなるのだろうか。騎士を殺したとして、あらぬ罪を着せられるのか? ――父と母がそうであったように。
2人の笑顔が浮かんだ。それは幸いにもたった先ほどまで見ていた笑顔。数日前よりもずっと鮮明に浮かんだ。
震えが止まらなかった。
そして、逃げなくてはと思った。
動かない騎士を避けて戸口へと向かう。後ろ手にドアノブを、ゆっくりと回す。
それからそっと外を覗いて見るが……誰もいなかった。
恐る恐る部屋から出て見ても同じ。見える所に人はいない。
ただそれも、視界は限られている。
部屋の中も確かに薄暗かった。もうすっかり夜になっている。廊下はさらに闇が占めていた。
長い回廊の先までは見通せない。
どうしようかと一瞬マルコは迷った。やはり部屋にいるべきか?
しかし……足は、自由を求めた。
ここにいてはいけない。どちらにしても、この部屋から逃げなければ。
少しでも遠くへ。
……この部屋に連れて来られる前に、1度は牢屋のような所にもいた。かと言って、どうやってここまでたどり着いたかは覚えていなかったが、ここが上の方だという事はわかっていた。
とにかく階段を探そう。降りていけばきっとどこかにたどり着ける。
足も手も震える。でもマルコは歯を食いしばり、1歩ずつ進んでいた。
(デュラン様が地下牢にいる)
叶うならば助けたい。あの人はあの時自分を庇って傷ついたのだから。
騎士たちの宿舎から抜け出る時、デュランは言った。もうここにいるのもうんざりだから、一緒に抜け出すのに付き合ってくれないかと。
でもあれは違う。本当はデュランは、自分を逃すためにあそこから離れようとした。
そして凶刃に遭った。
デュランはずっと、マルコの盾となっていた。闇から降り注がれる刃から、身を挺して守ってくれた。
(行かなきゃ)
階段があった。足が、降り方を忘れてしまったかのようにぎこちない。思うように進まない。
(デュラン様を助けなきゃ……)
どうすればいいかはわからない。だがその一念で、マルコは階段を下りて行った。
不思議と、その道に兵士も騎士も現れる事はなかった。
だがそんな都合のいい事がずっと続くわけがない。
行けるだけ階段を降り、長い回廊をどこともわからず彷徨っている時、バタリと兵士に出会った。
兵士とマルコ、どちらもがその出会いに固まったが、先に動く事ができたのはマルコの方だった。
知らず、走り出した。
マルコが走るなら、兵士も走り追いかけてくる。
怒号が飛んでくる。子供が逃げたぞと、そんな声が聞こえてきた。
背の低いマルコには窓から外は見渡せない。だがまだ地上ではない、もっと下を目指さなければいけない。
だが目の前にまた別の兵士が現れた。
「捕らえよ!!」
直前の回廊を左へ走り込む。階段はあった。だがその直前には3人の騎士の姿があった。
後ろから追いかけてくる兵士の数も増えている。
マルコは、階段の手前の部屋へと逃げ込んだ。
もう駄目かもしれないと、思った。
その絶望に追い討ちをかけたのは。
逃げ込んだその部屋に、すでに兵士が2人いた事。
「あ、あ……」
「この部屋に逃げ込んだぞ!!」
「どうした!?」
「塔の上のガキが逃げた!!」
足がクタリと、折れ曲がった。
もう、走れない。
吐き気がする。頭痛がする。
だがそれ以上に。
影が自分を、覆い隠して行った。
部屋にいた兵士が、マルコに向かってくる。
抵抗はできそうになかった。呆然と、マルコはその姿を見上げていた。
「捕らえろ!!」
――そして。
「……へへへ」
兵士は笑った。
鎧兜をかぶっていたが、止め具がされていなかった。口元が露出していた。
「手間が省けたぜ」
その兵士の背後に、部屋にいたもう一人の兵士が立った。
その兵士は、マルコを追って部屋になだれ込んで来た面々に立ち向かい。
ザラリと剣を、引き抜いた。
それに一同は息を呑んだ。
「な、何だ貴様……」
「全員一歩退け」
その声に、マルコは覚えがあった。
鈴のように凛とした響きは、まるで刃物のように。
「それ以上近づく事、何人 たりとも許さぬ」
誇り高きその姿はまるで。孤高に咲く、一輪の、
――白薔薇のように。
鎧兜を脱ぎ捨てる。
そこに現れるは金の糸。
そして気高き一人の少女。
「オヴェリア様……」
オヴェリア・リザ・ハーランド。
彼女がそこに、立っていた。
無論オヴェリアがそこにいるのならば。
「息が詰まって参ったぜ」
床に兜を叩きつけたその男は、黒い髪をかきむしるように掻き上げた。
マルコはその姿に言葉が出なかった。代わりにカーキッドがくしゃくしゃとマルコの髪を掻いた。
「元気にしてたか、坊主」
「カーキッドさん……」
喉の奥が………熱い。何かがこみ上げてくる。
「どうしてここに……」
「説明は後だ」
カーキッドもまた、部屋の入り口に立つ兵士達を振り返った。
「さてさて、どうする? 姫様よ?」
カーキッドはニヤニヤ笑いながら、だが姫ではなく兵士達を眺め見た。
オヴェリアはカーキッドには答えず、朗々と向かう兵士達に向かって言った。
「マルコ・アールグレイは師の元へ返す。そこを退いてもらいたい」
真っ向勝負だな、とカーキッドは苦笑を浮かべたが、兵士達は驚愕した。
「何者だ貴様ら」
「そんな事許されるわけがない」
「……ならばこのまま、この城の主の元へ案内せよ。枢機卿ドルターナ・ウィグルはいずこだ。直接話す」
誰もが、目の前の少女に気圧されていた。
唯人 ではない。明らかに、まとう空気が違う。
――だが誰が思えようか? そこにいる少女が、国王の娘などと。
そしてこの場で最も正常な判断は。
「全員捕らえろ!!」
「侵入者だ!!」
カーキッドは溜め息を吐いたが、その顔はとても嬉しそうだった。
「だとさ。どうする? 姫様?」
「控えよ!!」
「いいんでないの? もう、真っ向勝負と行こうや」
カーキッドも黒の剣を抜く。その剣はまるで飢えた子供のように金音を鳴かせた。
「正面突破あるのみ」
「出来れば無益な争いは避けたい」
「甘ぇよ」
向こうが剣を向けて斬りかかってくるんだ。
「黙って斬られるなんざ、反吐が出る」
「……やむを得ないか」
その言葉聞こえたか、カーキッドが走り出した。だがそれを誰も見えなかった。
気づいた時にはもう、兵士が2人。壁に叩きつけられていた。
圧倒的な振り速度。
その場にいた騎士もが凍りつく。たった一刀で兵士が2人飛ばされるなど。
だがその刹那にももう、カーキッドは次の獲物を狙っている。
「重いッ!!」
その一刀を僅差でどうにか騎士が受け止めたが。
速さ以上の重さが、腕と足の骨に絶対的な衝撃を与える。
距離を開けようと後ろに飛んだそこへ。
白い影が、舞い降りた。
強面の男と美しい女性、無意識に天秤にかけた。油断をした。
だがそれに気づいた時にはもう。
一閃する、光と闇の風。
あっという間だった。
マルコは瞬きすら忘れていた。
唖然と、起こった事を一生懸命理解しようとしている間に。
オヴェリアが、彼の元へと歩み来た。
それでもまだマルコは、呆然としていた。
彼が瞬きを思い出すより先に。
ぐいと、オヴェリアがマルコの体を抱き寄せた。
強く、強く。
こんなに、痛いほどに。誰かに抱きしめられた事はなかった。
苦しい。やっと思い出す、瞬きどろこか……息の仕方も。
「あ……」
涙が出た。
思い出した。
自分は生きてる。まだ生きてる。
誰が決めた? もう自分は壊れるだけなどと。
もう死ぬだけなのだと。
誰が決めた? まだ――。
「無事で良かった……」
オヴェリアは、温かかった。
母のようだと思った。
カーキッドが一服を終えるまで。
マルコはその腕の中で、ひと時、泣いた。