『 白薔薇の剣 』

−最終王女、騎士録−

 

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 第19章 『伝承の炎』 −1−

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 覚悟はできていた。
 ずっと、そう思っていた。
 この剣を手にしたその瞬間から。
 こうなる事を望んで、ここまで歩いてきたのだから。
 ――風が叫んでいる。
 吹き起こった衝撃に、オヴェリアは地面に叩きつけられた。
 背中を打った。痛む。
 だが動けないほどではない。オヴェリアはすぐに、身を起こそうとした。
 砂煙がひどい。
 松明しかない闇の中、それでも白く見えるその視界に、一瞬目をこすり。
 やがてその先に、彼女は見た。
 黒い、巨大な、獣の足
 ――ドクンと、心臓が打つ。
 粉塵が、上に向かって吹き上がっていく。
 それに目を辿たどる。風が目指すのと同じ方向へ。
 仰ぎ見るほどの高みへ。
 ――闇の空に、月はない。
 だが見つけた2つの光。
 赤い、目だ。
 血のように赤いそれが、彼女を見下ろし。
 牙がはみ出る口元が、笑うかのように割け広がり。
 開き。
 無数の牙を見せ付けるかのように。
 それは、そこに、圧倒的な咆哮を上げた。
 大地が木々が世界のすべてが。
 そしてオヴェリアの心も身体も。
 震え出す。
 ――竜。
 そして初めて気がつく。
 覚悟はできている……そんな物。
 本当は何一つ、自分は、出来ていなかったのだと。




 竜を倒せと命じられた。
 そうなる事は、最初からわかっていた。
 この剣を手にすれば。そのために、あの場に幾多の戦士は集められたのだから。
 だからこそ、彼女はこの剣を求めた。
 父が手にした剣。だがもう、父は剣を振るう事できない。
 かつて武王として名を馳せたヴァロック・ウィル・ハーランド。
 この国を守るために戦った、父と。
 その父と共に戦った母、ローゼン・リルカ・ハーランド。
 2人が持ったこの剣を。どうしても、誰かに渡したくはなかった。
 この国は私が守る。
 2人が愛し、人生を賭して守ってきたこの国を。2人のために。それができるのはもう、自分しかいないと思ったから。
 だから。
 オヴェリアは戦った。誰に何と言われようともよかった。
 そして白薔薇の騎士の称号を得た。
 ……大衆の面前で父に竜退治を命じられた瞬間、恐れよりも誇らしかった。
 自分は女である。女では父の後は継げない。
 それにずっと、負い目を感じてきたから。
 父の手足となる事。
 母の魂と共に戦う事。
 ……やっとあの瞬間、自分は、認められたのだと。この存在を。
 剣を持つ事封じられ、それでも磨いてきたこの腕を。
 ようやく、父母のために振るう事が出来ると。
 ――そう思っていたけれども。
 どうしてだろう、とオヴェリアは思った。
 足が動かない。
 腕も、身体も。
 全部凍りついて。
 地面に杭を打たれたかのように。
 ――竜が見てる。真っ赤な目で。
 立ち上がらなければいけない。なのに。
 動けないのに、勝手に震える。
 指先、背中、首筋、魂。
 声も出ない。
 こんな、こんな事はと。オヴェリアは心の中で首を振るけれども。
 身体が。
 ――牙が光ってる。無数の牙。ああ、剣は一太刀しかないのに。どうやって、あれを砕けというの?
 息が荒ぶる。
 視線だけは外せない。
 ズンと音を立て、1歩、竜が動く。
 風が、空気がそれに鼓動して震える。
 闇が笑う。
 天すらももう、高みにはない。
 すべての事象が圧し掛かり。
 オヴェリアはそこに、もう。




 動けない。









「オヴェリア」






 ――声に。
 オヴェリアの肩が呼応して震えた。
「立て」
 初めて気づいた。見上げるばかりで。
 ――斜め前に、カーキッドが立っている事に。
「剣を持て」
 構えろ。
「あ……」
 呪縛が、解ける。ああ、そうだ。
 立ち上がらなければならない。
 ――この道は、誰に強要されたわけでもない。自らで選んだ。
 彼女は、剣すらも手から放り出していた事に気づいた。
 白い薔薇の刻印を持つ剣。
 これは、自分にしか握れない。
 この剣ならば、竜をも倒せると。
 ハーランドに受け継がれてきた、聖母の力を宿す剣。
 父と母の魂がここに。
 何があってもこの剣だけは、手放してはいけない。
 握らなければいけない。私が。
 ――立ち上がっても、まだ足が拒んでいる。
 でも剣を構える。
 赤い目が見つめている。
 その目が、スッと曲線を描いた。
 笑った、そう思った。
 その刹那、再びむき出しになった牙が。
 もっと、大きく開かれて。
 ――喉の奥が光って行く。
 赤と白の、光。
 吸い寄せられるように目を奪われ。
 ああ、あれは炎だ、そう思ったその時に。
「オヴェリア様ッ!!」
 横から取られた腕に、オヴェリアは転がるように引き寄せられた。
「カーキッド避けろッ!!」
 叫び声に、カーキッドがいた方を振り返る。その瞬間、炎は解き放たれた。
「走ってッ!!!」
 竜が、火を噴いた。




 竜の炎は、伝承にも描かれる。
 かつてこの世界を支配した存在。
 その翼は世界のすべてを翔け。
 空をも覆う、黒い影となった。
 そして一度ひとたび炎を噴けば。
 空も海も大地も赤く焦がした。
 ――今に、僅かに生き残ったその末裔も同様。
 その存在に脅威して剣を振り上げた国は、伝承のその炎に焼かれ、堕ちたと。
 その炎は書物にこう書かれている。
 神をも滅ぼす、炎だと。




「ギャァァアァァァァアッァァァッァア!!!!!」
 つんざくような、悲鳴。
 人が燃えていく。
 それはさながら、地獄の業火。
 竜の炎、避け切れなかった騎士たちが。
「鎧は駄目だ」
 熱の前に、ひとたまりもない。
 デュランが言う、走る。
 たった一噴きで。
 庭園だったその場所の半分は、炎の園となった。
 竜は、その火の海を見ている。
 その横手に回ったオヴェリアは、改め、その全容を見た。
 巨大な体躯。
「本当に、」
 竜が。
 いるというのか。
「すげぇな」
 いつの間に来たのか、オヴェリアの脇にカーキッドが立っていた。
「無事ですか、カーキッド」
「そりゃこっちの台詞だ」
 そしてオヴェリアは「あっ」と思わず声を上げた。カーキッドは腕にマルコを抱えていた。
 彼の事すら、気に留めていられなかった。
 もう、自分の事だけで手一杯で。
「どう見る、神父」
 竜が、ふと黒い空を見上げた。
 だがそれもつかの間、また動き出す。
「あれを呼んだのは、あの魔道師の野郎か」
「間違いない」
 デュランは腕の袖を手早く捲り上げた。
「扉が見えた。……あれは、召還の魔術」
 ――召還。
「闇から魔を引っ張り出す。あれも、禁忌の術法の1つだ」
 悲鳴を上げて、周りの兵士達が逃げて行く。
 それも当然。
 だがオヴェリア達は後ろは見ない。
 兵士達が逃げ行っても、もう、松明は必要ない。
 そして彼女達と共に去らなかったのは。
「どういう事だ、デュラン・フランシス殿」
 ガブリエル・ヴィンガー率いる、神聖騎士団。
 仲間を焼かれた騎士たちの目には、恐怖と共に、困惑、そして怒りがあった。
「あれは一体……何なのだ。一体何が起こっているというのだ」
 デュランはガブリエルを向き、一瞬躊躇ったが1つ、呟いた。
「あれは、八咫やたと名乗ったあの男が成したわざ
「八咫殿が……」
「奴の本名は、ギル・ティモ」
 その名に。瞬間、ガブリエルを含めその場にいた全員が目を見開いた。
「ギル・ティモ……? まさか」
 その名を知らぬ者は教会組織内にはいない。
 西の賢者ラッセル・ファーネリアを殺害したとして、国内外に手配された男。
 その捕縛は急務、そして絶対。組織に属するすべての者に向けて第一級事項として発布されている。
 組織を挙げての捜索、追尾、捕縛。それを、信じていたその男が。
「招いたのは猊下ご自身なのだぞ?」
 枢機卿ドルターナ・ウィグルが。
「似たような話を聞いたな、フォルストだったか?」
 笑みを浮かべながら、カーキッドが割って入った。
「あいつを招いたのは、宰相だったか? 領主のアイザック何たらだったか?」
「……ガブリエル殿、今は詳しく話している暇はない。だが確かだ。奴はギル・ティモ。西の賢者を殺害し禁断の術を手にした男。私は奴を追ってきた。そして奴はここに至るまでに……レイザランの領主を貶め、フォルストをも混乱に落とした」
 竜が見ている。
 点在する、人々の中で、最も多く固まった場所へ。
「来るぞ」
「馬鹿な。そんな……猊下だぞ!? なぜ猊下がッ」
 ガブリエルの中に、迷いがなかったわけではなかった。だが。耳にした事、にわかに信じられる物ではない。
 ならば。
「自分で見た物で答え、出せや」
 カーキッドが剣を構えた。
「ぶった斬る。いいな? でなきゃ進まん」
 カーキッドはオヴェリアを見た。そしてもう一度、
「いいな?」
 返事の代わりに、オヴェリアも白薔薇の剣を構えた。
「無論です」
 竜を倒す事。それがここまできた理由なのだから。




 赤い瞳が歪む。
 口が開かれる。再び、光が集約されていく。
 第二砲までに、最初ほど時間は掛からなかった。
 オヴェリア達はすでに走り出していた。だが逃げ遅れた何人かが、炎に包まれた。
 悲鳴が、心を貫く。
 だが振り向いてはいられない。横から回り込んで、オヴェリアは竜に一点集中する。
 切っ先を、その身体に。
 一閃させようとした刹那、その首が動いた。
 オヴェリア目掛け、竜は炎を放射する。
 転がって何とか避けるが、次は避けられない。
 完全に捉えられたと思った刹那。
「ディア・サンクトゥス!!」
 デュランがオヴェリアの前に立ち、術を繰り出した。
 デュランが得手とするのは炎の術。
 だがその炎、竜の炎には到底叶わない。
 神を射る炎の前に、人が作った物など所詮は幻。
 だが一時の猶予を作った。それだけでも充分。
 デュランはオヴェリアの腕を取り、走る。
「余所見してんじゃねぇぞ!」
 そしてその間に、反対側からカーキッドが、がら空きの首を。
 掻っ攫う。
 一閃、入った。
 だがその成果を確かめる間もなく、そのカーキッド目掛けて背後から尾が飛んできた。
 直撃こそ間逃れたが、だが避け切れなかった。
 飛ばされ地面に叩きつけられ、一瞬カーキッドでも気を失いかけた。
「……ソッタレがッ」
 吐き出す唾には血が混ざる。
 だが構わず、走り出す。足元がたたら踏むが、走ってそれを吹き飛ばす。
 思い出せ、走り方。
 振るう剣に、風を込めて。
 相手が竜だろうが、何だろうが。
「ラウナ・サンクトゥス、ラウナ・サンクトゥス」
 竜を周回しながら、デュランは呪文を唱える。矢があれば射るものを。
「目を狙え、カーキッドッ!!」
 その間に、オヴェリアも走る。
(何て巨体、)
 これぞ圧巻。これが竜か。
「簡単に言うな、バカ神父がッ!!」
 詠唱完成、デュランが腕をかざす。
「オーラン・マルディ・アルカ・ウリトモラディーヌ!!」
 大地が揺れる。竜の足場が割れる、避けるほどではないが、揺れてできた高低差に足を取られた瞬間を。
 カーキッドがの剣が、下からの一閃を掛ける。狙いは右の眼。
 だがそれを、竜は首を振ってかわす。
 そこにできた隙を付き、今度はオヴェリアが飛んだ。
 狙えるようなタイミングではなかった。だが、ただがむしゃらに。
 顔の、どこでもいい、入れ。
 一閃させる、その剣が、一文字の白い光を描く。
 目の下を、確かにその剣は斬った。
 だが。
(手ごたえが)
 なかった。
 宙を舞うオヴェリアは、竜の鼻先にいる。
 赤い瞳がその姿を捉え。
 牙が並ぶ口が巨大に、開いた。
 オヴェリアの痩身をかじり、
 食らう、そのために。
「オヴェリアッッ!!!」
 着地した刹那のカーキッドは、まだ建て直しが出来ていない。
 デュランの詠唱も間に合わない。
 竜の喉の奥に闇を見る。
 オヴェリアはだが、恐ろしくはなかった。
 最後の瞬間まで、赤い瞳を、睨んでやると。
 その瞬間そう思えた。




 だが次の瞬間オヴェリアの身に降りかかったのは。
 強大な、水。




 竜が噛み締めたのは、水。
 波に押し流されるように、オヴェリアは地に逃れ。
 この水は、と振り返り見た先に立っていたのは。
 マルコ・アールグレイ。
 手にする白墨。地面に書きなぐられた小さな陣形。
「ハァッ、ハァッ」
 描いた、それだけでもう、少年の息は上がっている。
 だが。
「走れマルコッ!!!」
 怒ったように竜が、今度はマルコに向かって咆哮する。
 魂が弾かれたように、マルコは必死に走った。
(あれが、竜)
 父と母が蘇らせようとしていた物。
 マルコの脳裏に、剃髪の男の言葉が蘇る。
 ――お前の両親がやろうとしていた事は大罪だ。それは、人類すべてに仇なす行為と言っても過言ではないぞ。
(父さん、)
 でも父は言っていた。
 もう一度会いたいと言っていた。
『竜に乗って空を飛べたらいいな』
 そう言って2人で笑ったんだ。
「父さん……ッ」
 わかんないよ、とマルコは呟いた。
 何がなんだかわからないよ。
 でも今は。
「我ここに、魂を刻む」
 何もわからないけれども今は。
 できる事を、やらなければいけない。
 もう、わけがわからないけれども。
 地面にレ点を打つ。
「我ここに、魂を刻む」
 あの人たちが走っているから。
 あんな物を前にしても。
 あの人たちは、ひるまず。
 迷わず。
 戦っているから。
(僕だけが)
 逃げている時ではないのだと。




 竜が咆哮する。
 大地が轟く。
 人などひとたまりもない。
 それだけで魂を脆く砕いても仕方がない中で。
 4人は走った。

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