『 白薔薇の剣 』
−最終王女、騎士録−
第20章 『騎士の誇り』
20
「……終わったか」
カーキッドは大きく息を吸い込んだ。
空気は随分、甘かった。
随分長い事息をしていなかったのか、胸が、ただそれだけの行為で満たされる。
こういう感覚をカーキッドはこれまでにも何度も味わってきた。死地を越えたという事だろう。
そしてこの感覚を覚えるたびに彼は、知らずと苦笑を浮かべる。ああ、生きてると。人並みに、そんな事に喜んでいる自分がいると。
「おい、立てるか」
苦笑を噛み捨て、やがてカーキッドは彼女に手を差し伸べた。
地面に転がったままオヴェリアは、呆然と燃える竜を見ていたが。差し出された手にようやく我に返り、その腕を差し出した。
「ありがとう」
「……ったくよ、忘れてたぜ」
カーキッドの腕に、オヴェリアの体は簡単に引き上げられる。
「お前、あの石持ってたんだったな」
別に火から守る事もなかったなと、カーキッドはいたずらっぽく笑った。
「そのような事、関係ありません」
それに対し、ポツリポツリと歩いてきたデュランが反論する。
「姫君を守るのが、従者の役目」
「チ、俺は従者じゃねぇ」
「では何だというのだ」
問われ、カーキッドは言葉に詰まった。そして、
「ただの、旅の共だ」
「それを従者というのだ」
「あのな。俺はこいつのお守りでもなければ、まして部下でも護衛でもねぇぞ」
オヴェリアは、デュランの後ろにマルコを見つけた。戸惑った様子で立っている彼に駆け寄り、「怪我はない?」と尋ねた。マルコは無言でただ頷いた。
「にしてもこいつは一体、何だったんだ」
カーキッドが改めて燃える竜を振り返る。
そこにあるのは、一つの命の終わり。
「お前の剣と、姫様の剣はあの中か」
「ああ。こんだけ燃えてたら、取りにも行けねぇ。焼け落ちるのを待つしかないか」
カーキッドの手が、寂しそうに所在をなくしてうろついた。
オヴェリアもまた、もう一度炎を見た。
竜であった物。
最初こそ地響きのような音を立てていたが、今はもう何も音を発しない。
ただ、完全に炎によって消されるのを待っているだけ。
そこにあるのは、とても静かな世界だった。
「……ともかく、周りの火を消さねば。マルコ、手伝ってくれるか?」
デュランがそう声を掛けた時。
ザッザッと音がした。全員が音の方を振り返る。
騎士たちが、そこに立っていた。
神聖騎士団。
団長ガブリエル・ヴィンガーを筆頭に、だが居並ぶその数は初めて見た時の半分以下となっていた。
「おう、今度はてめぇらが相手か」
気色ばむカーキッドを退け、デュランが一歩前に踏み出す。
「ガブリエル殿、先ほどは加勢いただき、誠に感謝致します」
オヴェリアもデュランの脇に立ち、頭を下げた。
その様にガブリエルたちは反応を見せなかった――否、彼らは呆然としていた。
今起こったすべての出来事に。
竜が現れた。その姿は圧倒的で、絶対的で。
仲間は簡単に焼かれ、噛み砕かれた。
騎士の名を持っている彼らでさえ、もうその姿には、魂を震えさせるしかない。
命が凍る。足がすくんで動かない。……その体感は本来屈辱的な物であろうが。それすら感じないほどに。
身を占めたのは、恐怖。ただそれだけ。
……なのに。
「なぜ……」
呻くように、ようやくガブリエルが口にした言葉はそれだった。
「なぜあなた方はあんな物に」
ひるみもせず。
恐れはないのか?
あんな物を前にして。恐ろしい牙、恐ろしい様相、絶望的な炎。
全部が。
決定的な死にしか見えない、あんな物を前にしているのに。
「立ち向かっていけるのか……」
まっすぐに。
走って行けるのか。
跳んで行けるのか。
瞬いて。
技を駆使して。
全身全霊の、己の魂。
もがき抗い。
叩きつける事が。
可能だとういうのか、己の自身の剣を。
命を。
「あなたはなぜ」
ガブリエルは呆然と、オヴェリアを見た。
その目を受け、オヴェリアは一瞬戸惑った。
「姫様は、なぜあんな物と平然と……」
だがやがて深く目を閉じると、彼女はゆっくり言葉を紡ぎ出した。
「……恐ろしいかったから、です」
「……」
「平然となど……それは違う」
「……」
「怖くてたまらなかった……でも、」
だから。
「私にも、よくわかりません……」
――怖いからこそ、走った。
恐ろしいからこそ、剣を振った。
逃げてしまいたい現実。衝動。
でも。
足は、勝手に、走った。
――本当に恐ろしい物は、竜ではなかったゆえに。
「大事な物を守りたかったから」
それは、考えて口にした言葉ではなかったが。
それこそが、彼女の中の真実であった。
ガブリエルは黙ってオヴェリアを見つめた。他の騎士も同様に。
だがその目には、最初のような呆然とした色はなかった。
「守るために、戦われたか」
「……」
「……まさにそれこそ、騎士の本分」
ガブリエルは天を見上げた。
「私達はどこかで、何か大事な物を見誤っていたのやもしれませぬ」
「……」
ガブリエルの呟きに、デュランが笑った。
「何を言われるやら」
「……デュラン殿」
「あなた方は我らを救ってくれたではないか」
「救うなど、とても……」
「いいや、我らは救われた。共に戦ってくれる者がいる、ただそれだけで」
救われた。戦う力を、与えられ分けられたのだ。
「ガブリエル殿、私とて竜は恐ろしかったよ。本音を言えば、あんな物目にしたらさっさと逃げてしまいたい。でもさすがに、姫様が戦うのに放って逃げられまい? カーキッドがただ1人で竜に立ち向かっていたというのならば、迷わず逃げたがな」
「何だとこの野郎……」
「何にせよ我ら、共に戦った。そして亡くした命は多い。ここに彼らを、一緒に弔おう」
もう我らが剣を交える理由はないだろう?
そう言って笑う、この目尻の垂れた男を。
ガブリエルは初めて、口の端に笑みを浮かべて見た。
「あなたはやはり、騎士だよ」
「……」
ガブリエルは思った。
本物の騎士は我らではない。
(それは、)
「カーキッド、オヴェリア様を守れ。我らは火を消す。マルコ、行くぞ」
「俺に指図すんな」
「デュラン殿、我らも手伝います」
「助かります。急ぎましょう」
悔しきかな、あの少女こそが。
(我らが持たねばならない物を持っている)
ガブリエルは姫の前に立ち、恭しく礼をした。
姫はそれに一瞬驚いたが。
だがすぐに微笑を返した。
至宝だと、ガブリエルは思った。
「行くぞ!!」
叫び、他の騎士に号令を掛け。
彼女に背を向けようとしたその刹那。
――その胸を。
腕が貫いたのは。
……一瞬の事で、あった。
「あ……」
「姫様ッ」
抜かった。カーキッドとデュラン、同時に呟く。カーキッドはオヴェリアの腕を引き、自分の背に回すが。
「……クソッタレが」
剣がない。
白薔薇の剣と黒の剣は、炎の中にある。
振り返るが竜の炎は勢いを弱めてはいない。
その間にも、ガブリエルの胸から突き出た手は、蠢くようにクネクネと動き回り。それに合わせて、ガブリエルも身をよじり、口から血を吹いた。
見れば他の騎士も同じ様。
彼らは白銀の鎧をまとっている。だがそれすらも打ち砕いて突き出た腕は。
やがて、異質の形へと変化していく。
指が口ばしとなり、手の甲が突起し頭となり。
黒い瞳が生まれ。
鳴く。
胸から突き出た、その形は。
「鴉……ッ」
マルコが膝をつき、吐いた。
オヴェリアもまた、愕然とそれを見つめる。
「剣を」
「待て、カーキッド」
デュランの制止も構わず炎の中へ剣を取りに向かったカーキッドを止めたのは、意外な声だった。
「その炎、手を出さばお前も食らうぞ?」
「――」
ギル・ティモ。
ガブリエルの背後に、彼を抱えるように、忽然とその姿は現れた。
その背後では他の騎士たちが、地面に転がりのた打ち回っている。
「ただの炎ではない。地獄のそれじゃ」
わかるじゃろ? デュラン・フランシス。そう言いギル・ティモはデュランに目を向けた。
「あの竜がどこからやってきた物か」
「ギル・ティモ……」
「お前ならわかるはずじゃ……ヒェッヘッヘ、お前なら、な」
含み。
だが動ぜず、むしろデュランは一歩踏み出した。
「何が目的だ、ギル・ティモ」
何ゆえ国を脅かす? 人を弄ぶ?
お前が望む世界はどこにある?
我が師を殺し――デュランの眉間のしわが一層深くなり。
だが逆にギル・ティモは面白そうに高く笑った。
「そうじゃ。その娘、姫君は焔石をお持ちであったな」
「……」
「試されるか? その石の効力が、地獄の炎にも打ち勝てるか」
矛先が向いたオヴェリアを、デュランはハッと振り返った。
「剣が必要じゃろ? わしを斬るにはな。剣を取りに行かねばほれ、こいつの胸はこの通り」
鴉が鳴く。鳴いたそばから暴れだす。ガブリエルは血を吹きながら、恐ろしい悲鳴を上げる。
胸がかき回されているのだ。
目玉が、飛び出まいかと思われるほどに、苦痛に見開かれている。
その様を、オヴェリアは見ていられない。
絶叫が、彼女の背を押す。
「ほぉれ、剣を取り行け、王女オヴェリア」
「姫様、罠だッ!! 炎に近寄ってはならない!!」
「ヒェッヘッヘッヘッ!! 時間は待ってはくれないぞ?」
聖なる剣で、我を討て?
「……ッッ」
炎に。飛び込もうとしたオヴェリアを。
だが、留めたのは。
――ガブリエル、本人だった。
呻いていた彼が発した言葉。
末期の言葉。
それは、オヴェリア達全員の耳に、しかと、届けられた。
「我は、騎士だ」
言い放つと。
ガブリエルは自身の腰の剣を抜き。
鴉に向けて。
――己の胸目掛けて、その剣を一気に突き立てた。
鮮血が飛んだ。
そしてガブリエルに倣うように。その場にいた全員の騎士も成した。
己は騎士だと。
その剣に、思いを託して。
「ガブリエル、殿……」
唖然としたのは、デュランだけではなかった。
ギル・ティモ自身も、一瞬呆けたようにそこに立ち尽くした。
「こやつ、鴉諸共わしをも突き刺さんとしたわ」
面白い奴だった。
だが同時に、愚かな男だった。
「これが騎士が選ぶ道か?」
口の端に笑いがこぼれる。
何たる滑稽な。
もう我慢ならぬ。叫び、大笑いしようとしたその視界に。
さらに浅はかな光景が映った。
オヴェリア・リザ・ハーランドだ。
その娘が歩き出していた。
竜の炎に向かって。
その炎は地獄の炎。
ただの火ではないのだ……竜の心臓の石の加護など簡単に砕く。
異界から招いた竜、その存在を支えていたすべての炎が今そこに溢れているのだ。
その中に飛び込むなど、自殺行為。
――だが。
オヴェリアは、残骸に手を入れた。
燃えてしまえと、ギル・ティモは思った。
浅はかな娘。愚かな娘。今ここで果てよ。
激昂と共に己もその炎で朽ちてしまえ。
「オヴェリアッッ!!」
カーキッドが慌てその背に向かって叫んだ時。
オヴェリアは炎の中から、それを抜き取った。
白薔薇の剣。
彼女にしか持てぬ、その聖なる剣は。
今、その刀身に光を宿し。
同時に、炎をまとっていた。
紅蓮の、薔薇。
ギル・ティモは慌てふためいた。まさか。
「そ、その炎は」
地獄の炎だ。
恐ろしき、人の手になど収まらぬ。そんなものをも。
身にまとうというのか、この娘は。
紅蓮の剣を手にしたオヴェリアはそのまま、ギル・ティモ目掛けて駆け出した。
ギル・ティモは風の刃をオヴェリア目掛けて繰り出すが。
薙いだ、その剣の方が早かった。
ザンッと、一刀。
オヴェリアはギル・ティモを斬った。
驚愕にその顔が歪む。
だがそれも直に溶けるように消えると。
天から降るように笑い声だけが、彼女達に落ちてきた。
「誠、見事」
オヴェリアは天を見上げる。星すらない。夜明けの気配もない。
あるのは無限の闇。
「まさかただの人の身で、ここまでわしに迫るとは」
「ギル・ティモ……」
「見たくなった。お前達が、本物の竜を相手にどう立ち回るか」
本物の竜。
「おいで、ゴルディアだ……そこで待つ」
誘う、甘い声で。
やはりその地が終点か。
否むしろ、始点となるのか。
おいで、ゴルディアへ……残響を残し、声は消えていく。
「ゴルディア……」
呟き。
オヴェリアは明後日目掛け、剣を、薙いだ。
赤い軌跡が空気だけを、割いた。
◇
竜が降り撒いた炎は、デュランとマルコが消した。
そして竜を焼いていた炎も、朝日が出る頃には消え失せた。
白薔薇の剣の炎はすぐに消え、カーキッドの剣も彼の元に戻った。
だが竜の残骸の中に見つけたルビーの短剣は、刀身が折れ、もう使い物にならない状態になっていた。
オヴェリアはそれを前に、ひと時悼むように目を閉じた。
ガブリエル達はその場に埋めた。姿の残る物は出来る限りと、デュランが弔いを行った。
「やはりあなたは騎士だった」
死してガブリエルは、満足げな顔をしていた。
オヴェリアが頭を下げても、もう返す者はいない。
神聖騎士団。
誇り高き、騎士たちよ。
「……」
彼らを前に、オヴェリアは初めて涙を流した。
カーキッドは彼女のその様に、ただ黙って、持っていたマントを肩から掛けてやった。
夜明け前の薄紅色の空に、ひと筋の流れ星が消え行く。
まるで誰かの、涙のように。
頬を伝って、消えていく。