『 白薔薇の剣 』

−最終王女、騎士録−

 

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 第21章 『告白』 −1−

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 ――本当の戦いは、ここからである。




  21


 グツグツと、汁が煮える。
 一口味見をする。悪くない。魚のダシが良く出ている。
 あとは隠し味に入れた香味の野菜。これが一層、香りを引き立てている。
 肉が焼けるのも間近。もう充分、いい匂いが立ち込めている。
 カーキッドは辺りを見回した。
「オヴェリアはどうした?」
 じっと鍋を見つめていたマルコは一瞬驚いたような顔をしたが、
「姫様なら、顔を洗いに行くって」
「随分経つな」
 そう言えば……と少年が言葉を濁す間に、カーキッドは彼女の荷物を振り返った。
 白薔薇の剣は置き去りになっていた。
 少し考えた末、カーキッドはマルコの肩を叩き言った。
「火、見てろ。すぐ戻る」
 何か言いかけたが無視し、立ち上がった。
 それに合わせるようにガチャリと彼の剣が鳴いだが、構わずカーキッドは歩き出した。
 木々のベールを1枚、2枚越えて行くと、すぐに水場が現れる。池である。
 そして同時に、その背もあった。
 見慣れた金の頭と、小さな体。
 これまで何度となく見てきたその背中が、今日は一層、小さく見えた。
 少女は身を屈め、じっと水面を見ていた。
 池は、空の青を映して青く輝いていた。
 否、空よりももっと深い蒼。
 今日の空は少し痛いと、カーキッドは思った。
「何の歌だ」
 青が取り巻くこの世界で耳が拾った別の色。カーキッドは懐から煙草を取り出しながら尋ねた。
「……子守歌です」
 彼女は静かに答える。カーキッドは煙草をくわえ、「ああ」と笑った。
「どこぞの女神の子守歌か」
 サンクトゥマリアの子守歌。
 初めて姫として会った時も、彼女は歌っていた。
 聞かずともわかっていた。だがカーキッドは忘れた振りをした。
 聖母の歌。
 そして聖母の剣に選ばれた少女。
「飯、できたぞ」
 剣を放り出して行くな、とは言わなかった。
 戦士としては本来あるまじき事。どんな時も剣を身から離すな。
 まして彼女の命は、常人とは別の意味合いを持っている。
 誰よりもそれがわかっているこの男が……だがそれを、言わなかった。
 剣は重い。
 その重みを一番知っているのも彼ゆえ。
「そうですか」
「期待していいぞ」
「……楽しみです」
「おう」
 背を向けている、だがオヴェリアの声に少し笑いがにじんだ。
 風が吹いた。水場から吹き上げられたそれに肌が敏感に寒さを感じ取る。
 風が止むと、オヴェリアは大きく息を吸い込んだ。そして、
「行きます」
 立ち上がったその衣には炎の跡が残っている。
 少しずつ、旅が、彼女を染めて行く。美しいその顔にも旅立つ前にはなかった空気が宿り始めている。
 その顔は悪くない、とカーキッドは思った。
 ……舞い降りた木の葉が一枚、彼女の髪に引き寄せられるように落ちた。
「おい」
「え?」
 カーキッドは呼び止め、それをそっと取った。
 それから、そっとその頭に手を当てた。
 撫でるほどではない。ポンと1つ。
 だがその指が離れる瞬間、カーキッドはその頭にそっと指を這わせた。
 それだけ。
 オヴェリアもその指の動きに、逆らわなかった。
「顔洗ってからでいい」
 言って、背を向けた。
 あの顔で涙の跡は反則だ。
 ……心の中で、苦い笑みを浮かべながら。




「美味しい」
 スープを口にするなり、オヴェリアは目を輝かせた。
「何ですかこれは」
「あん? 見ての通りだろうが」
 スープだ。それ以上も以下もない。
「こんなの、飲んだ事ありません」
 感激するオヴェリアに、彼もまんざらではない様子で鼻の下を掻いた。
「魚のあら汁だ。今朝釣ったばかりのをブツ切りにして放り込んだだけだ。後は、隠し味に味噌を入れたぐらいか」
「味噌?」
「大豆から作られる調味料の1つだ。あの城に置いてあったのを少しくすねてきたんだ。俺の故郷じゃよく使われるんだがな」
 オヴェリアはもう一度スープの匂いを嗅ぎ、改め口に含んだ。
「肉も焼けたぞ。マルコ、取ってやれ」
 言われ、マルコは慌てて火の周りに突き刺された串を1本取った。
「どうぞ、姫様」
 両手で仰々しく差し出され、オヴェリアは一瞬躊躇った。
「ありがとう」
「いいえ。そのようなお言葉は、」
「……面度くせぇなぁ」
 といいつつもニヤニヤ笑いを浮かべ、カーキッドは自分も1本火から串を取り口に頬張った。
「うん。行けるなこれ。マルコ、お前も食べろ」
「は、はい」
 肉を渡しても、マルコは顔を上げない。
 そもそも彼はこの2日、ずっと下を向いたままでいる。オヴェリアが前にいる時は必ず。
 オヴェリアは少年のその様子に、困ったようにカーキッドを見た。
 だがカーキッドは逆に面白そうに笑うと、少年の顔を覗き込んだ。
「お前、何? 緊張してんのか?」
「――」
 突然言われ、マルコは目を丸くする。その様子にカーキッドは、辛抱たまらぬと言った様子で大笑いを始めた。
「耳まで真っ赤にしてやがる」
「ちょっと、カーキッド!」
「お姫様が目の前にいるからか? あん?」
「……」
「だとさ。まぁ見た目だけはお人形さんみたいだからな」
 と、思わずいつも思っていた事を言ってしまい。カーキッドも珍しく少し慌てた様子でオヴェリアを見た。
 当然、オヴェリアは少し膨れ面をした。
「見た目だけ、とは何ですか」
「……だろうが。そのまんまだ。間違ってねぇだろ」
「失礼な」
「あのなぁ、お前、よく考えろ。お前はここまで何をしてきた? だけ≠ナ充分だ。むしろだけ≠ナもあっただけ良かったじゃねぇか」
「……カーキッド、この料理、不味いです。凄く」
「てめぇはさっき美味いと言った。前言撤回は男の恥だぞ」
「私は男じゃありません」
「んじゃ、剣士の恥だ。これなら文句言えないだろうが」
「……うう」
「マルコ、恐縮するだけ無駄だぞこいつは」
 2人のやり取りをマルコは、呆けた様子で見ていたが。
 やがて、カーキッドに向き直り、「カーキッドさんは、」と呟いた。
「姫様にそんな口が利けるなんて……カーキッドさんは……」
「あん?」
「どこかの……王子様か何かなんですか?」
 カーキッドは絶句した。
 オヴェリアもまた絶句し。……後に、当然、笑い出す。
「カーキッドが王子!!」
「だ、だって! お姫様にそんなふうにしゃべれるなんて!」
 マルコは真っ赤になって必死に弁明した。
 だがオヴェリアは言葉にならないほど笑い転げた。彼女がここまで笑う姿を、カーキッドも初めて見た。
 それなだけに。
「何が、可笑しい……」
「い、痛いです、カーキッドさん」
 マルコの頭を掴み。ひとしきりグリグリと押し付けたかと思うと。
 後は仏頂面で肉を食べ、椀にスープを並々に装い一気飲みした。
「全部食ってやる」
「あ、待って! そのスープ私ももう1杯欲しいです」
「ダメだ。お前の配当はそれだけだ!」
「あの、僕、まだもらってません」
「湯でも飲んでろ!!」
 一人で馬鹿食いを始めた大人気ない男に、オヴェリアとマルコは顔を会わせた。
 マルコは一瞬恐縮したが、オヴェリアが笑うと、彼もまた照れくさそうに笑った。
「じゃあ、私の分を分けてあげるわ」
「いえっそんなっ」
「うふふ」
 2人が少ないスープを分け合う姿を見、それがまた勘に障ったカーキッドが、ヤケクソのように2人の椀にスープをぶち込んだのは、言うまでもなく。
「……それにしても、デュラン様、どこまで行ったのかしら……」
 美味しそうにぶつ切りの魚を食べるマルコを見ながら、オヴェリアは改めてカーキッドに言った。
「直に戻るだろ」
 町の様子を見てきます、そう言って彼がいなくなったのは今朝。
 町までそれほど距離はない。早ければもう、行って戻ってこれる頃だろう。
 逆に、それほど近い場所にいながら、オヴェリア達は町には行かず森で夜営をした。
 理由は無論、あの城での一件である。
 ――ドルターナの城を出たのは2日前。戦士達を弔った後、早々に彼らは城を後にした。
 そのまま近隣の村には寄らず、足を伸ばしてもう少し大きな町へ。
 だが付近まで来て、結局そこには行かず様子を見る事に決めた。これはカーキッドとデュラン、双方の意見であった。
 そして今朝になり、町の様子を見にデュランが1人で向かったのだが。
「……街道の交差路にある町だ。人の出入りも多い。女遊びしてなきゃいいけどな」
 そう言ったカーキッドであったが、オヴェリアも、2人の考えている事がわからないわけではなかった。
 それくらいの事をしたのだ、あの城で彼らは。
 ドルターナ・ウィグル。その男の名が力を持つ所以は、枢機卿という役職ゆえ。
 聖サンクトゥマリア大教会。
 その力は強大。どの国にも属さない独立体としているが、その力はハーランド全土に及ぶ。各地に教会の施設は点在し、人々は唯一神としてサンクトゥマリアを崇めている。王家さえも、聖母の像に膝を折って祈りを捧げているのだ。
 教会は誰の支配下にもならない。逆にハーランドはその威光を借りて人民を掌握する代わりに、その傘下にいると言っても過言ではない。
 これは隣国、バジリスタも似たようなものである。
 その組織の頂点に立つ教皇。直属の枢機卿。オヴェリア達が剣を向けたのは、そこなのである。。
 何かが直接的に起こってもおかしくはない……いかに、オヴェリアが姫とは言えど。
(いや、だからこそか)
 オヴェリアとて、自分のした事の意味はわかっている。
 サンクトゥマリアを崇めよとは幼き頃から言われてきた。確かにドルターナは、ハーランド国の貴族としては配下に位置している。だが彼は枢機卿なのである。
「まぁ、そのうち戻るだろ」
 戻ると言っていたのだから。
「……」
 オヴェリアは無言で頷いた。そしてスープを飲んだ。
「マルコを、レトゥ様の所に送り届けなければ」
「……そうだなぁ。じじぃ、元気にしてっかな」
 マルコの手が止まる。
「大丈夫。私達が必ず無事にレトゥ様の元まで連れて行くから」
 オヴェリアは強く頷いたが。
 マルコは何となく呆けた様子で、肉をかじった。


  ◇


 デュランが戻ってきたのはそれから数時間後、太陽が傾きかけた頃だった。
「いやはや、遅くなって申し訳ありません」
 夜はデュランが持ち帰った肉とハム、野菜、そしてパンを豪快に焼いた。マルコは「パーティみたいだ」と目を輝かせた。
「何も全部焼く事ないだろうに」
 デュランは苦笑したが、「うっせぇ」とカーキッドが一蹴した。
「こんな所で湿気た時間を過ごしてたんだ。飯くらい豪勢にさせろ」
「おいお前、今その肉に何塗った? 上物だぞ、姫様にこの霜降りを味わっていただきたく持ち帰ってきたんだ」
「文句は食ってから言え。いいか、この手の肉にこのタレは合うんだ。傭兵仲間から聞いた秘伝のタレだ。待ってろ」
「む。確かお前、噂では相当料理の腕が立つらしいな。いいだろう。お手並み拝見といこう」
「……誰が言った、そんな事」
「姫様だ」
 余計な事を、この女は……とカーキッドは睨んだが、オヴェリアはマルコと一緒に豪快な料理を眺めている。
「それで、町の様子はどうだった」
 半信半疑で肉を頬張ったデュランは、そのまま目を丸くした。「悔しいが、確かに美味い」
「町か? ああ、特に変わった様子はなかった」
 デュランは姫に「この肉はいかがですか?」と喜色満面で問うた。だが問われたオヴェリアは一瞬首を傾げ、「味はいいですが……少々硬いですね」と言った。デュランは唖然とした。
「すまん、カーキッド、私の舌の上ではこの肉はとろけるて消えてしまうのだが……」
「食い物の話はいい。町の様子を説明しろ、この馬鹿神父」
 デュランは寂しそうにし、もう一度マルコに「肉はどうだ?」と聞いた。「口に入れたら消えてなくなってしまいました」と目を丸くしている少年の様子を見て、ようやく彼は満足そうに胸を張った。
「町の様子か……そうだな。一見は変わりない。旅人の出入りも随分あった。特に目立っておかしな点はなかった」
 ただし、とデュランは言葉を濁す。
「嫌な気配がなかったわけではない」
「具体的には?」
「……私の錯覚かもしれんが。少し、旅人が多すぎる」
 それも、武具を装備した者が。
「教会の奴らは?」
「町には教会もあった。だが取り立てておかしな様子はなかった。……だが時間の問題だろうな」
「……」
「枢機卿に喧嘩を売ったんだ。……このまま何事もなくは済むまい」
 カーキッドにそう言い、改めデュランはオヴェリアに向き直り頭を下げた。
「オヴェリア様、申し訳ありませんでした」
「なぜあなたが私に謝られます?」
「巻き込んでしまいましたゆえに」
 この辺りは夜になると虫が、耳に痛いほどに鳴く。
「本当はあなた方には関わって欲しくなかった。関わらせないつもりでした。マルコの件も、私が一人で片を付けようと」
 ――神聖騎士団が出てきたあの時から。……否、マルコに関わるすべての事象から。
「私は、マルコの事を知っておりました」
 彼が一体何者なのか。彼の両親がどのような顛末を辿ったのか。
「無論、レトゥ殿の正体もです。ゼクレトル・フレイド……かつて我が教会内で水の賢者と称えられたお方です」
 マルコも、レトゥがかつて賢者と呼ばれるほどの者だった事は知っていた。そしてその地位を捨ててまで、自分と共にいてくれた事も。
「オヴェリア様と再会したあの日……私は、水の賢者に会いに参りました。近状報告と、そしてアールグレイ夫妻の子供の様子を知りたくて。だがレトゥ殿はどの子がマルコなのかまでは教えてくれませんでした。息災にしていると、それだけで」
 デュランはマルコを見て笑った。
「そして私がレトゥ殿の元を尋ねた最大の理由は、ギル・ティモの事でございます」
 禁断の書物を奪った男。そしてその力を得た彼が何かを成そうとしている事。
「レトゥ殿もかつて、禁書に携わった方だ。奴が成した事、そしてその一件。奴を捕らえる事に、ご助力願えまいかと申し出に行った次第」
 断られましたがな、とデュランは自嘲気味に笑った。
「レトゥ様には、今は他に大事な物があるゆえに。この地を離れる事はできないと申されました」
 ――助力はできぬ。この余生、他に使いたい事がある。
「彼はすまぬと、何度も頭を下げられた。……仕方がない事。これは、私1人の戦いゆえに」
「デュラン様1人の……?」
 デュランはオヴェリアに向き直った。
「オヴェリア様。私はあなた様にお話しておらぬ事があります」
 改まった神父の顔に、オヴェリアの口元も引き結ばれた。
「私の師はギル・ティモによって殺された……西の賢者、ラッセル・ファーネリア」
 オヴェリアはそれをカーキッドから聞いた。だが今、デュランは初めてそれをオヴェリアに告げる。
 その先にある、決意と共に。
「我が師は禁断の書物を守り、西の賢者として力を振るってきた。だがそれも虚しく、ある日ギル・ティモによって殺害された」
「……」
「ギル・ティモは……かつて、…レトゥ殿の弟子でありました……」
 レトゥの弟子。その事実にオヴェリアとカーキッドは目を見開いた。
「まさか」
「……弟子の1人であった、と言うべきか。レトゥ殿を慕う者は多く、弟子の志願は絶えなかった。あの方は一様にしてそう言った者を迎え入れはしたが、あの方が本当に弟子として指導したのはほんの僅か」
 その中にマルコの母、アンナ・アールグレイも入る。
「ギル・ティモがレトゥ殿にとってどういった存在であったかは知りません。だが……後に破門にされたとは聞きます」
「破門された逆恨みで禁書を狙った、か?」
 カーキッドの言葉に、デュランは首を振った。
「私は……、正直申しましょう。レトゥ殿が少々憎い」
 憎かった、と。
 デュランの顔は、複雑に歪んでいた。
「ギル・ティモはあの方の傘下だった……だが犠牲になったのは私の師と、」
 言い淀んだ。でも止まれない。
 もう、すべて話すと決めたゆえに。
「師の……娘」
「西の賢者の娘?」
「はい……2人はギル・ティモに殺されました。師は禁書を奪う際に。そして娘は奪った末に」
 いわば、
「暗黒魔術の、最初の犠牲者となりました」
 その術は、人の生命を弄ぶ。
 人の尊厳など、全部取り払う。
 虫けらを、玩具のように砕く術。
 その術の最初の犠牲者は、ギル・ティモにとってはただ己の腕を振るうための、遊びの延長。
「その娘は、まさかデュラン様の……」
 オヴェリアが何かを察し、デュランに問いかける。
 デュランは微かに微笑んだ。
 そして返事の代わりに、「私は」
「彼女を救うために、禁忌を破った」
 告白する、罪。
 そして罰。




 悲しみと絶望が生み出した、一つの、結果と。
 決意。

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