『 白薔薇の剣 』

−最終王女、騎士録−

 

目次    次へ

 第21章 『告白』 −4−

しおりを挟む

 夜が明ける。
 世界は黒から青へ。
 沈黙と静寂が、覆い尽くしていた闇を洗い流していくかのように。
 溶けて行く、すべてが清浄の一色に。
 そして青から、やがてきたるは一時の白。
 そこに光は現れるだろう。世界に夜明けを諭すために。
 そうなる前に彼らは歩き出す。
 青の世界を振り返り、カーキッドは荷物を肩に引っ掛けた。
 簡単に見える光景。だがそれもカーキッドだからこそである。巨大な荷、誰にでも真似できるわけではない。
 少し離れた所でデュランがサッと地図を開いた。
「東へ」
 木立が行く手を塞いでいる。だが歩けぬ場所ではない、道は続いている。
 ――限りなく、望むならばどこまでも。
 デュランの背に弓はない。城を出る際、結局彼の弓は見つけられなかった。
 オヴェリアが弓の事を問うと、彼は「また良き物を探します」と笑った。
「行くぞ」
 オヴェリアは大きく頷いた。今日も剣は重い。
 だがその重さ諸共歩き出す。
 その手には、ルビーの石が握られていた。竜との戦いの際に失った短刀に埋め込まれていた物だ。
 ――お前も共に、この先へ。
 手を当て、心の中で呟き懐にしまう。
「まずは旧街道へ。そこから東へ進めば、2日あれば足りるでしょう」
 視線を合わせずカーキッドが応と頷く。
「行きましょう、マルコ」
 オヴェリアはふわりと笑って、少年を振り返った。
 だがマルコは険しい表情のまま、固まったように地面を見つめていた。
 カーキッドが歩き出し、デュランが先を促してもずっと。
 少年は動かない。その視線で地面を覆してしまおうとしているかのごとく。
「マルコ?」
 訝しげにオヴェリアが問う。その声に少年はスッと顔を上げた。
 オヴェリアを見たその目はひどくまっすぐで、そして鋭くて。思わず彼女が息を呑むほどであった。
 その気配を感じ取ったデュランが振り返る。どうされました? と彼が問うより先に、マルコ自身が答えを告げた。
「手紙を、書きます」
 彼が出した答え、決意を。
「先生には、手紙を書きます」
 カーキッドは、歩は止めたが振り返りはしなかった。
「僕も、行きます」
 ――空は色を薄めていく。
 世界が白に染まるのは一瞬の事。
 だが尊ぶべき、始まりの序曲。




「自分が何を言っているか、わかっているか?」
 デュランの声はあくまで優しい。優しく諭す、幼子の戯れを。
 その目をマルコは睨んだ。顔を覗き込まれても変わらず、その視線を揺らさなかった。
「お前はすべてを見たはずだ」
 そして全部聞いた。
 オヴェリアが何者で、何のためにどこへ向かっているのか。それが容易い旅ではない事も、立ち塞がる物の存在も。
 オヴェリアには刺客がついている。禁断の魔術を使う輩もいる。教会をも敵に回した現状。
 そして彼女達が向かう先には竜が待っている。
(竜)
 マルコは唇を噛み締めた。その恐ろしさは、彼も直面した。
「この先、我々に従えば、もう一度あれとまみえる事となるぞ」
 脅しではなく事実。彼女達はそこに向かっている。
 それを考えれば無論マルコの膝は笑う。自分の感情は自分が一番わかっている。本当は恐ろしくてたまらない。
 ――だけど。
「行きます」
 だから。
「僕も行きます」
 声が震えた、少年は一瞬恥ずかしいと思った。その感情を首を振って拭う。
「何ゆえに?」
(竜を前にして、僕は何も出来なかった)
 ただ震えていただけだった、何かをしようとしても結局足手まといになって。むしろカーキッドを危険な目に遭わせた。最後にはただ立ち尽くして、オヴェリア達を見つめるしかできなかった。
 怖かった。動けなかった。
 なぜあんな物を相手にオヴェリア達は立ち向かっていけるのか。マルコにはまったくわからなかった。
 そして、それが竜だった。
 立ちすくみ恐怖する絶望の存在。それこそが、マルコが見た初めての竜という存在。
 あれが術によって造られた物だとか、そんな事はわからない。けれどもそれこそが、
(父さんが命を懸けて)
 もう一度会いたいと願っていた物。
 文字通り命を賭してまで思い描いた夢の形。
 2人の笑顔が浮かぶ。それは先日枢機卿によって掘り起こされた記憶の中の物。自分が2人の顔を忘れていた事に気づかされた。
 そして目をそらしていた事も知った。
 ――2人がいなくなったあの日からずっと考えていた。何が起こり何が始まり、何が終わったのか。
 考えても考えても何ももわからない中で、唯一わかった事だけがマルコの心にのしかかった。
 それは絶望。
 両親はもういない。叫んでも泣いても、誰も迎えに来てはくれない。
 もう何もない。
 村が燃えてもこの身が焼けても、痛むのは心。悲しいのはそれだけ。
 大切な物があった、大事な人がいた。けれども何もなくなった。
 何もかも、いつかはなくなる。
 レトゥはマルコの元へ来てくれた。泣いてくれた。一緒にいてくれた。大事な存在だ。
 でも、彼もいつかはいなくなってしまう。
 ならば何も、ない方がいい。
 もうあんな痛みは嫌だ、耐えられない。
 ならば最初から何もいらない。何もなければ失う事もない。
 だから少年は世界を拒絶した。
 レトゥはマルコのために同世代の子供を集めた。だがマルコは誰にも心を開かなかった。
 だが唯一彼が心を開いたのは魔術。
 学ぶ事は楽しい。レトゥの口から語られる未知の世界。そして本を開くと広がる新しい世界。悲しい過去も辛い現実も全部忘れられるくらいに、術を学ぶ事、そして世界を学ぶ事はいつしかマルコにとっては息をするのと同じくらいの価値を持つようになっていた。
 レトゥのためにレトゥと共に魔術の腕を磨きたい。……そう思っていたけれども。
 それすらも敵わなかったのだと、思い知らされた。
 竜を前に、少年は無力だった。
 だがその極限の絶望の中で少年は見たのだ。
 戦い行く、オヴェリア達の背中。戦士達の背中を。
 逃げぬ、と。
 挑む。と。
 恐れぬと、立ち向かうのだと。
 止まらぬと。
 あの存在の前に走り出し。剣を放ち。
 飛び。
 舞い。
 裂き。
 断ち。
 ――見入った。
 心臓が跳ねた。
 その鼓動が再び蘇らせる、父の想い。
 ――もう1度竜に会いたいんだ。
 竜は崇高な存在。
 世に語られる伝承の書は本当は間違っているんではないか?
 もう一度会いたい、確かめたいと願った父は色をなくしたけれども。その想いはついえたけれども。
 ――僕は、残ってる。
「僕も、連れて行ってください」
 マルコの目から涙がこぼれた。
「連れて行ってください」
 会いたい。本当の竜に。
 その真実の姿をこの目に刻む。
 もうそれは、彼にしかできない事。
 ――止まった世界を動かすのは、誰でもない、自分自身だ。
「……容易くはない」
「わかっています」
「何の保障もないのだぞ」
 デュランは眉間にしわを寄せた。
「誰もお前を守れぬぞ」
 マルコはデュランを睨み、
「守ってくれとは言ってません」
 オヴェリアをも、睨んだ。
「竜に会いたいです」
「……」
 デュランは姫を見た。
「どうされますか?」
「……」
 オヴェリアはじっと少年を見た。少年は泣きながら睨み、歯を食いしばり、嗚咽を堪えていた。
 空気を伝ってくる想い。オヴェリアをも奮わせるほどの、振動を伴った波紋。
 やがて姫君はゆっくりと瞬きをし、懐から石を取り出した。
 碧の焔石。
「手を出しなさい」
 それをオヴェリアはマルコの手の中へギュッと、強く押し込めた。
「これはあなたが持ちなさい」
 マルコは驚きオヴェリアを見上げた。姫は頷いた。
「あなたが持つのが一番、ふさわしい」
 ――竜を追う物よ、竜と共にあれ。
 父と母の想いを受け継ぐものを、彼女に無碍にできようか?
 決意を持って踏み出そうとする者を、誰に無視できようか?
 過去と決別し、今を築こうとする者に。
 ――風は、優しくその背を抱きしめる。




 始まりは青。
 やがて世界は白み、地平線から太陽は姿を現す。
 そこに迎える、赤の輝き。
 そして金色こんじきの道。
 マルコが歩く。
 カーキッドがその前を無言で歩き、
 デュランが姫を振り返る。
「良いので?」
「ええ」
 オヴェリアは笑う。そしてカーキッドの背中を見た。
「参りましょう」
 少女が刻む歩の行方。
 踏む土の感触が、いつもと違うように思えた。




 行く先は、困難なれど。
 限りなく、絶望は近いけれども。
 今日も響く、鳥の声。
 そして世界のどこかでは、産声が上がっている。
(守る)
 自らの意志で進む、これからの道。
(父上)
 ……共が増えました。
 私は彼らと参ります、空に向かって彼女は呟く。
(恐怖から、目をそらすのはやめにします)
 ――本当の戦いは、ここからである。


しおりを挟む

 

目次    次へ