『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

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 第25章 『君は絶対に』 −2− 

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 泣きたい
 そんな事あり得ない
 叫びたい、声を上げて泣きたいのに……状況は許してくれない
 私の決断で国の命運が決まってしまう
 私は、私は……




「姫様、姫様!!」
 呼ぶ声に、オヴェリアは息を止めた。
「う……」
「姫様!」
 耳元でマルコの声がする。振り払いたくなるほどにそれは鋭く、切なくて。
 やがてオヴェリアはその青い瞳をゆっくりと開いた。
「マルコ……?」
 目を開けるとそこに、泣きはらしたマルコの顔があった。
 意識がはっきりとしない中、彼女はぼんやりとその顔を見つめ。
 頬を伝う感覚に手をやると、自分も泣いている事に気付いた。
 胸にまだ残ってる、深い深い絶望感。
 ――父が死ぬ夢を見た。
「マルコ、泣かないで」
 オヴェリアは自分の頬も拭って笑った。
「私は大丈夫だから」
(あれは、夢)
 そう、夢。ただの夢だから。泣く必要はない、悲しむ事は何も無い。
 それなのに……。
 深い不安が胸にこびりつき。しばらくの間、オヴェリアの心から離れてくれなかった。
「ここはどこ……?」
 マルコが落ち着くのと自分が静まるのを待ち、オヴェリアは尋ねた。
 辺りを見渡す。
「あ……」
 そして初めて、周りにたくさん人がいる事に気付いた。
「目が覚めたかね」
「良かったね。その子、ずっとあんたに付きっ切りだったんだよ」
 皆、温かい顔でオヴェリアに声をかける。
 だがその背後にあるのは、一面の白い世界だった。
 否、正確に言うならば白い空。赤茶色の大地の上を覆う白い空間。
 何だここは、オヴェリアは息を飲む。記憶を手繰っていく。




 ――昨夜。
 宿で眠っていたオヴェリアは、マルコの嗚咽で目が覚めた。
「気分が悪い?」
  吐きそうになっている少年を洗面所へ連れて行く。
 部屋を出る間際、何となくオヴェリアは傍らに置いていた剣に目を留めた。
 普段ならば夜中だろうと、少し部屋を出るくらいでは剣など持ち歩かないが……カーキッドからは再三言われている。いつ何時も油断するなと。これまでどれだけ襲われてきたんだと。
 前日の夜襲を思い出した。足の痛みはまだ引かない。
 オヴェリアは剣を持って部屋を出た。
 ……洗面所は1階の一番奥にあった。オヴェリア達の部屋も1階にあったので階段の心配は要らなかったが、マルコの背中を支えて慎重に奥へ向かった。
「気分が悪いと言ってるのに、あの人が無理に食べさせるから」
 数時間前、晩の食事に向かった食堂。こういう食事は久しぶりだったので、どれもこれもが美味しかった。カーキッドは「これが俺の燃料だ」と言って酒を飲み倒し、そのくせオヴェリアには「一滴も飲むなよ」と命じた。オヴェリアは理不尽だと怒った。
「食え食え、食える時に食う、それが旅の鉄則だ」
 そう叫び、嫌がるマルコに無理矢理肉や魚を食べさせた。
「やめぬか馬鹿者、マルコが倒れるぞ!」
 そう言うデュランも、いつもより明らかに酒量が多かった。
 ……宿へ戻るなり、大の男2人は酔っ払って大笑いし、目を閉じた。ドサクサに紛れて抱きつこうとしたデュランを、寝込む直前に蹴飛ばしたのがカーキッドのその晩最後の仕事だった
「……絶対あの人のせいだわ」
 苦しむマルコの背を何度も撫で、改めてオヴェリアはむくれた。そこには無論、一滴も酒を飲ませてもらえなかった恨みも混ざっていた。
「デュラン様を起こして、薬を調合してもらいましょう」
「すいません、姫様……」
「何を謝るの? 謝るのはカーキッドです」
 それに、とオヴェリアはマルコの唇に指を当てる。
「ここでは私は、カイン・ウォルツよ」
 そう言ってパチンとウインクをした。
「ね、ピーター……何だったかしら?」
「ピーター・ラウルです、姫様。姫様も……そんな言い方してたら、偽名だってバレちゃいませんか?」
「あなたこそ、偽名なんて言っちゃだめよ。デュラン様が聞いたら怒るわよ」
 デュランやカーキッドの名は堂々と出してもいいのかという話だが、2人はそんな事忘れた様子で笑った。それに2人は、男2人の偽名を覚えてはいなかった。
「ちょっと気分が良くなりました」
 マルコは安堵したように笑った。オヴェリアはうんと頷き、手を取った。
「戻りましょうか」
 そうして部屋に戻ろうとした時。
 ふと、宿の外が明るい事に気付いた。
 朝ではない。まだ夜中のはずだ。だがガラス戸の向こうにはオレンジの光が揺らめいている。
 オヴェリアは不思議に思い、少し躊躇ったが外を覗きに向かった。マルコもその背中に続く。
 そっと戸を引き外を見ると、通りを人がゾロゾロと歩いていた。
 老人から幼子まで、松明を片手に。宿の前を通り抜け、同じ方向へ歩いて行く。
 こんな夜更けに? オヴェリアは戸惑った。
 そしてさらに戸惑ったのが道行く人々の表情。
 笑っている者もいる……笑いながら泣いている者もいる……一切の感情のない顔もある。だが誰も歩を止める者はいない。
 歩いていく。
 呟きのような声を耳が捉えた。注意深く耳を澄ますし断片を捉える。その一節はオヴェリアもよく知っていた。サンクトゥマリア大教会の教典に書かれている一節だ。
 祈りと、救いを求める節。
「姫様……」
 マルコはオヴェリアを見上げた。どう考えても、異質な光景であった。
 オヴェリアはしばらく考えた末に。
「……マルコ、カーキッドとデュラン様に知らせてきて」
「姫様は?」
「私は、後を追う」
 その目は決意に満ちていた。
 マルコは驚き、即座に首を横に振った。「駄目です」
「一人でなんて」
「見失ってしまう」
 群集は宿の前を通り抜け、もう辺りには再び闇が戻っていた。
 オヴェリアは宿の扉を開け、人の群れを眺め見た。
「私は大丈夫だから。2人をお願い」
 嫌な予感がする、オヴェリアは白薔薇の剣に手を伸ばした。
 マルコの返事を待たずに、彼女は走り出した。
 そして走りながら自分自身に少し笑ってしまった。
(何をしているのかしら、私は)
 ハーランドの王女、オヴェリア。
 つい数ヶ月前まではただのお姫様。お城以外の世界を知らない、こんな夜中に外を走るなど考えられなかった。
 ましてこんな風に思うまま自由に走った事もなかった。
 何をしてきたのだろう、そう思う自分と。同時に思うのは、何をしているのだろう自分はという思い。
 運命は、思いもかけずに一転する。
 ……一定の距離を開ける。周りの気配にも気を掛ける。
(どこへ……)
 そんな時、不意に。背中から人の気配がし、オヴェリアは慌てて剣を抜き振り返った。
 そしてそこにいたのは。
「マルコ……!!」
 息を切らし走ってくる少年だった。
「何をッ……カーキッドとデュラン様をと」
「見失って、しまいます」
 そんな事をしていたら、姫様を。
「姫様を1人にはできない」
 少年は必死にそう言った。
「僕は姫様のお供を」
 オヴェリアは困った。もう町を出ようとしている。一人で引き返らせるには距離がありすぎる。かと言ってこの場を去る事はできない。
 ならばもう、
「……困った子」
 そう言い、少し笑みを浮かべた。
「もし万が一危険が迫った時は迷わず逃げる事。いいわね?」
 無垢な瞳を覗き込んだ。
「私を捨ててでも、よ」
「……ッ」
「約束して。いい?」
 マルコは最後まで強情に首を横に振った。
 だがオヴェリアは少年が頷くのを根気良く待った。
 その瞳に見つめられて頷かないわけにはいかない。マルコは不承不承頭を下げた。
「いい子」
オヴェリアは頭を優しく撫でた。心地よくて、思わずマルコは目を閉じた。
 ――そうして2人、人々の後ろを追いかけた。
 町を出てしばらく、集団は荒野の中を進んだ。
「この先には川があったと思います」
 デュランの地図を思い出しマルコが言う。
「川か……」
 直近3つの人里から人が消えていたのも川を渡ってからの事だった。オヴェリアはそれを思い出した。
 そして思った通り、やはり群集は川へと至った。
 川には小船が何隻も用意されていた。人々はそれに乗り込んでいく。
 オヴェリアは人に紛れ、船に乗り込んだ。マルコは最後まで反対したが、止められようもなかった。
「危険です、姫様。やはりカーキッドさんとデュラン様を呼んだ方が」
 オヴェリアは迷った。だがここは進む事を選んだ。
 マルコには残るように言ったが、無論少年は姫と同じ道を選んだ。
 ――そして。
 乗り込んで間もなくだった。人々の間から悲鳴に似た声が上がったのは。
 川の中より巨大な黒い影が立ち上がった。はっきりと何かはわからなかったが、生き物である事は確かだった。巨大な口を開けたゆえに。
 その口は簡単に船など飲み込んでしまう。先頭を行っていた船はあっという間に闇の中へと消えて行った。
 人々は祈りを始めた。
 その中でオヴェリアは剣を抜いた。
「……これが、」
 人民の失踪の一端か。
 そして彼女は剣を立て、その化け物に斬りかかった。


  ◇


「私は……」
 化け物目掛けて跳んだ、そこまでは覚えている。だがそれからの事をオヴェリアは思い出せなかった。
 頭を押さえ呻くと、周りにいた者が顔を合わせ彼女に答えた。
「その子が助けてくれたんだよ」
「え……」
「その子……魔術師だろう?」
 マルコはハッとして、すぐに明後日を見た。
 ――オヴェリアを救ったのはマルコだった。
 化け物は飛び掛ってきたオヴェリア目掛けて牙を剥いた。噛み殺されるその寸前で、川の水が弧を描きオヴェリアを連れ去った。マルコが慌てて描いた陣による物である。
 だが牙から救う事はできても、マルコにも川の水を反流させるような事はできなかった。そのまま、あっという間に飲み込まれたのだ。
 ……そして今。
「では、ここは……」
 人々は苦笑を浮かべて言った。
「あの世かもしれませんな」
 死んだ。
 オヴェリアは凍りついた。
「死んだ……?」
 マルコは返事ができない。
 だが他に説明のしようもない。見渡す限りのこの白い世界。とても化け物の腹の中とは思えない。
「あんた、旅の人だね」
「かわいそうに……」
 人々の声はオヴェリアの耳に入らない。
 ただ愕然と雲もない空間を見つめた。
「死んだ……」

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