『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第25章 『君は絶対に』 −3−
旅に出た。
危険は幾らでもあった。死に直面した事も幾度もあった。
でも実際にオヴェリアは思っていなかった。
自分が死ぬなどと。
――考えた事もなかった。
愚かな事。
だが人はいつか死ぬのだ。
抗っても抗っても。
いつかは必ず、この生に終わりは来る。
「姫様……」
マルコが心配そうに覗き込んでくる。
「かわいそうに」
誰かがまた言った。オヴェリアの耳にもその言葉は入ってきた。
――かわいそう?
誰が? 何が?
赤いような茶色の大地。土ではない感触。だが何かザワザワする。
――否、それは自分の心の戦慄きか?
オヴェリアは、自分とマルコを取り囲んでいる群衆に目を向けた。
皆、穏やかな顔をしている。取り乱している者は1人もいない。幼子までも、悟りきったように静かに立っている。泣く者もいなければ、無論、笑う者もいない。
「あなた方は」
この状況で彼らの顔は異質に思えた。オヴェリアは戸惑い、問うた。
「なぜそんな、落ち着いて……?」
群集は顔を見合わせた。そして、傍にいた女性がゆっくりと口を開いた。昨日食堂で見た顔だった。
「私達は、これが望みだったから」
「望み……?」
「この日をずっと、望んでいたから」
意味がわからない。オヴェリアは眉をしかめた。
「どういう事……?」
「神の元へ還る」
誰かが言った。
「そのために私達は、あそこにいたから」
――魂を返すために。
1人がオヴェリアに本を差し出した。サンクトゥマリア大教会の教典だった。
だがそれは異質だった。中表紙に見た事のない一節が書かれている。
「私達は……元は別々の町に住んでいた者です」
人々の中から少し貫禄を備えた老人が歩み出た。
「生まれも育ちも、国も地方も違う……我らは1つの目的のためにあの町に集った。最初は3年前、そこから少しずつ少しずつ人が増え、町も大きくなり……今日に至りました」
「目的?」
「我らは……」
老人は次の言葉を躊躇った。そして最後に彼が選んだ言葉は、
「我らは、この世に絶望した者の集まり」
――絶望。
オヴェリアの言葉を貫く、1つの言葉。
「ここに住まう者はそれぞれに暗い過去を持つ……この世で生きていくにはちと、苦しい者たち」
初めて、群集の顔に影が射した。
「ある者は大火で生まれ故郷を失った。天涯孤独の身の上になった者、最愛の子を亡くした者、病気により余命を先刻された者、奴隷となり逃げ出してきた者、罪を犯し生きている限りその重苦に責め続けられなければならない者……集った理由は様々です」
すべての人間が一様に、生きる事に疲れた者。もうこれ以上は続けられぬと思った者。
「我らは生き場をなくした。サンクトゥマリアの教典には、自ら命を絶つ事は許されておらん。だが……」
「そんな折です。我らがこの町を知ったのは」
――神の元へ還る町。
「聖サンクトゥマリア大教会は、生き場をなくした者のためにある1つの救済措置を施した。それがこの町。皆で共に神の元へ還るための町。それがあの町でありました」
「教会が……?」
老人は頷いた。
「はい。あそこは教会直下の町」
オヴェリアは愕然とした。
「教会が、人が死するために町を作ったと?」
「はい。私はその名の下に集まった。そして我々はこれまで死の準備をしてきました……日々祈り、感謝し、いつ絶えても悔いなど残らぬように。教会より派遣される神父様方は我々に、死とは何かを説き続けてくださいました」
――恐れる事は何もない。死は通過儀式。神の元へ還るための道に過ぎぬ。
「そこには安らぎと幸福しかないのだと……だから、来るべきその時を待てと。人が集まり、皆で神の元へ還るのに足る時が来た時には、揃って旅に出ると。あの町にいる者には全員この教典が配られました。……契約の印がこの証。我らはあの町に入った時点で、この身も命も神に捧げております」
最初の鐘が鳴った時の衝撃は忘れられないと、誰かが言った。「ああ、ついにきたかと」
「穏やかに待ち、穏やかに向かう」
「我らはもう、神の物」
「最後に皆とこのような時を過ごせて本当に良かった」
「神の元へ還る。汚れてしまった我らを唯一許してくれる存在」
「こんなに静かな気持ちになったのは生まれて初めての事です」
――もう、何も。
「ここまでの時間を与えてくださった教会に感謝しております。……誰もが覚悟を決めて死ねるわけではない。自分の死期を悟れず、突拍子もなく命を絶たれる者もいる。そんなこの世の中で、死ぬまでの時間を有意義に過ごせた。自らの整理、そして過去と向き合う事もできた。これほどの幸せがありましょうか」
我らは幸せである。
……彼らは口々にそう言った。
そして。
オヴェリアは黙ってそれを聞いていた。
「この世は生きて行くには本当に苦しい」
どこに救いがあるかもわからない。
出会った救いは、だがすぐに残酷な定めへと変わる。
世界は試練しか与えない。
乗り越える事できない者はどうすればいい?
現実は残酷。そして不条理。
もがいてもがいて、誰もがいつも息苦しく。
日々背中にのしかかる物は重くなっていく。
残酷で。悲しい世界。
――――――だが。
「神の下で安らかな眠りを。それが我らの望み」
オヴェリアは涙した。
人々は言葉を呑んだ。そして再び彼女に向かって「かわいそうに」と口にしようとした。彼女は死ぬためにこの町に来たのではない。何の決断も覚悟も決まっていなかったのだ。彼女は不幸である。
だが。
「かわいそうに」
そう言ったのはオヴェリアだった。
「これが、この国の現状か」
人々は言葉を失った。
「これが、私が愛する国か」
マルコは少女を見つめている。
「……守らねばならぬと誓った国か」
人々は疲弊し、絶望を抱いている。死にしか安らぎを見出せぬ、救いを見出せぬとは。
「これがこの国か」
父上、とオヴェリアは呟いた。
「あなた様は……」
絶句する人々の中で。オヴェリアは立ち上がった。誰もがその姿を凝視した。
オヴェリアは傍らに落ちていた剣を拾い上げた。白薔薇の剣はいつも傍に控えている。
誰にも持てぬ、彼女の剣。
それはこの国をも意味する。
――この国を救えるのは、彼女だけ。
誰にも持てぬ。この重み。
いつもより剣が重く感じる。
そして、熱く感じる。
彼女は歩き出した。人々は驚き道を開ける。
「姫様」
マルコが呼んだ。
「どこへ行かれるか」
人が問うた。
「我らはもう、」
死んだ。
――だがオヴェリアは言った。
「手が動きます」
え、と問い返す声。
「足が動きます」
言葉がつむげます。耳は音を捉えます。
瞬きが出来る、瞳は世界を映す。
そして、心臓に鼓動を感じる。
耳の奥、内側から弾き出されるその音が。
まだ、聞こえる。まだ、感じられるから。
それならば。
「私の体はまだ、私の物」
動く。だから。
「まだ生きてる」
まだ、死なぬ。
「体が動く。まだ歩ける。まだこの腕は剣を握れる。ならば、私は私だけの物」
――神になど、くれてやらぬ。
「姫様……」
オヴェリアは群集を振り返った。その目の光に人々は息を呑んだ。
「神に命を捧げるな。捧げるならば、自分自身に捧げろッ!!」
「――」
空気が凍る。だが構わずオヴェリアは歩き出した。
マルコは慌てて追いかけた。
「どうされるおつもりですか!?」
「この空間を抜け出します」
抜け出すって、とマルコは問い直す。
「どうやって」
オヴェリアはそれには答えず、白薔薇の剣を抜いた。
「生きる事から逃げ出すな」
「え……?」
「そして生きているなら諦めらめるな。……あの人ならそう言います」
絶対に。
オヴェリアはふっと微笑んだ。
「ここで退いたら、私はあの人に怒られる」
そういう男と旅をしてきた。
そういう男と、世界を見てきた。
城の外、初めて見た多くの世界。一緒にその光景を見てきた男。
その男なら絶対に。
「諦めません」
簡単に投げ出しはしない。あの人に無様と思われる最期だけは絶対に嫌だ。
抜き放った一閃の剣。
空を斬り、空間を斬り、大地を縦断させる。
手ごたえはない。
叫びと共にもう一閃。
――何かある、どこかにきっと。
オヴェリアの姿に、マルコも意を決し地面に白墨を滑らせる。
マルコはデュランに散々言われてきた。
『姫を守るのが我らの使命だ』
この旅に加わるとは、そういう事だと。
――己の使命と共に、姫の盾となる覚悟が持てるか?
私はあの方に救われた、とデュランは言った。
マルコにはまだ、良く分からない。使命も覚悟も、本当の意味では。
両親が追い求めた竜の姿、そのために旅につき従った。
だがオヴェリアの姿を見て思った。
(僕は)
捧げます。
この命僕自身と――この人のために。
この絶対たる、輝きに。
「姫様ッ……水が使えない」
え、とオヴェリアは少年を振り返る。
「変です……魔術が使えない。何にも反応しない。おかしい」
「魔術が封じられている?」
やはりここは地獄か?
「もう少しやってみます」
それでもマルコは諦めなかった。別の方法で陣を描き始める。
その時、ギャァという叫び声がして。彼女は振り返った。
地面が盛り上がっている。人々は投げ出され、散らすように離散させられていく。
その地面が、津波のように膨れ上がり、上から人々に圧し掛かった。
「うわ、ウワァァ!!!」
潰された人々は、地面にめり込み。食われるように、中へ中へと吸い込まれていく。
もがき、人々は手を伸ばした。
その顔は恐怖だった。
目前に迫った、本当の死の恐怖。
人々はうろたえた。もう、平然となどしていられなかった。
これが死だ。
恐れずになど死ねるか。
オヴェリアは走った。大地目掛け剣を振り下ろした。
粘土のようだ。まとわりつく。オヴェリアは歯を食い絞った。
「逃げてッ!!」
横一線。
うねる大地に切れ目が出来る。
そこからすさまじい鮮血が吹いた。
あ、とオヴェリアは思った。
化け物に食われた。ここは、やはり。
(化け物の中)
今見ている光景は何の幻術か。
だがこれはきっと。
――オヴェリアは改め、地面を斬った。
そして空間を斬った。
無限に見えている大地、だがこれは絶対にまやかし。
絶対に、絶対に――。
「――ッ」
オヴェリアは叫んだ。
「ここだ」
虚無の空間を一閃。
何もなかったそこから、またしても鮮血が吹き出した
諸にオヴェリアはそれを浴びた。目を庇い、再び斬る。
大地が蠢き、オヴェリアを妨害しようとしたが。
「姫様ッ」
マルコの術が発動する。水が吹き出ぬ代わりに、吹き出た血を操り赤い盾としヴェリアを守った。
ゴワァともボワァとつかぬ奇妙な音が当たりに木霊する。
オヴェリアは斬る。斬って、斬って、斬って。
人々はその様を呆然と見る。
あれが。
「アァッァァァッァァァァアアアアアッッッ!!!!!!!」
生きる、その姿。
最後の一閃、斜めに翔けて。
白い虚無の空を切り裂いた。
吹き出た血が大地と空間を染めて。
……やがて、その本当の姿を映し出す。
生々しいほどの肉触。
蠢く外壁。脈打つ鼓動。
ここは生き物の体内だと、誰もが思い知らされる。
気付いた時にはもう、その生き物は人々を取り込むために動き出していた。
幾多の触手が人を捕らえる。喰らう。だが、
「早くこっちへッッ!!」
オヴェリアは叫んだ。
「脱出します!!」
喉弁を掻っ切り、牙が顕になる空間へ。
人々はその声に答えた。
「助けて……」
オヴェリアが行く方へ走った。
生きたいと、願った。
「マルコッ」
少年はオヴェリアの下へ走った。だが途中、その足を捉えられた。
「あ、」
手足をバタつかせる暇もなく、触手がその足を取り、奥へ奥へと引っ張っていく。
「マルコッッ!!!!」
オヴェリアの叫びが遠くなっていく。マルコは必死にもがいた。
その時不意に、投げ出されるようにマルコは解放された。
何が起こったのかと見上げると、男が立っていた。
その男は剣を持っていた。その剣で、マルコを掴む触手を斬ったのだ。
だがその姿は剣士ではなかった。目つきの悪い初老の男はニッと笑うと、自分が手にしていた剣をマルコに差し出した。
それは、黒い剣だった。
「生きるなら、これを」
その剣にマルコは見覚えがあった。
「外に行くなら、この剣を、主に渡してやってくれ」
重い。想像以上にズシリとくる。
「そいつで守りたいもんがあるんだってよ」
だから。
「完璧に仕上げたと言伝 を。持ち主の名は」
――男の体に、触手が巻きついた。
目を見張る男を、2本の触手は瞬く間に奥へと連れ去る。
だが最後に見たその男は笑っていたのだ。
どこかの誰かのような、皮肉な笑みを浮かべて。
マルコは剣を抱き、走った。
涙が出てきた。
「必ず渡します」
この剣は必ず。
――カーキッド・J・ソウルに。
化け物の目から剣が突き出る。
鼻から一筋の光が漏れ。
次の瞬間、その口元が見事に吹き飛んだ。
オヴェリアは剣を持ち、顔をグイと拭う。降り注いだ血により、全身は真っ赤になっていた。
だがまだ剣は収められない。
「外だ」
どよめく人々の先陣に立ち、オヴェリアは目を凝らした。
一瞬、その赤は血のせいかと思った。夕の空だと気付くには多少時間が要った。
風が冷たく、彼女を撫ぜる。
ここはどこだ、と辺りを見回す彼女の耳に届いたのは。
笑い声だった。
誰が。どこで。オヴェリアは視線を走らせた。
そしてようやく。くぐもった視界の中にオヴェリアは、その姿を見つけた。
たなびくマント。
「これはこれは、見事な」
オヴェリアは再びその目に闘気を込める。
「血に染まる、一輪の花か」
――君は絶対に、諦めない。
この先に何が起ころうとも。
絶対に、諦めない。