『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

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 第26章 『末弟の将』 −1− 

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  26




 雲が流れていた。
 でも風はなかった。
 その代わりに光があった。
 金色の光。そこに朱をにじませて。
 朝とは違う色合い。夕の気配。
 その中で、一人笑い続ける者がいた。
 風すらも音を立てぬこの世界で唯一。
「姫様……」
「マルコ、皆をお願い」
 化け物から人が這い出してくる。皆安堵の表情を浮かべているが。
 オヴェリアは違う。
 剣を持つ手を、緩められぬ。
 笑い声に気付いた者が何事かと辺りを見渡す中で。オヴェリアは最初からずっと、ただ一点のみを見続けていた。
 男が立っている。
 彼の背後より指す陽光により、姿は影のようになっているが。
 ……オヴェリアは立ち居地を少しずらす。
 それに呼応するように、笑い続ける声が言葉へと変わった。
「見事だ」
「……」
「化け物の腹を割って出てくるとは。真に見事。実に愉快」
 水辺に不意に吹いた突風が波紋を呼び起こす。
「生きて墓場に連れ行くつもりが台無しだな、盃」
 ――盃。その名に反応するように、男の背後に長身の男が現れた。
「だがまさかこのような場所でまみえる事となろうとは」
 ――この笑い声に、聞き覚えがある。
 いや、だがまさか…オヴェリアは頭を振りたい。こんな場所にいるはずがないのだ、その人物は。
 こんな場所……ハーランドに。
 戸惑いと動揺。オヴェリアの顔に浮かんだそれらの感情を見て取った男がまた、甲高く笑った。その笑い声は天に響くかのようだった。
「お久しゅうございます、姫」
「……」
 マルコがハッとオヴェリアを見る。
 その瞬間、陽光が僅かに緩んだ。はしる雲がその一端を捉えたためである。
 それにより、目の前の男の姿がはっきりとオヴェリアの目に飛び込んできた。
 マントの下に身を包むは騎士服。
 だがそれはハーランドの物にあらず。金と赤で作り上げられた手の込んだ刺繍。こんな模様を描く騎士はハーランドには誰一人おらぬ。
 そして何よりの問題は、胸に彩られた一つの章。
 ――天を突く剣の絵。
 その絵が持つ意味、この世界において1つしかない。
 隣国、バジリスタの国章。
 ……そして……その国の王族には、ある特徴がある。
 ハーランドの王族が、輝くような金の髪と宝石のような青の目を持つならば。
 バジリスタの王族が持つのは、燃えるような赤の髪と、金の目。
「なぜあなたがここにおられます?」
 唇が震えそうになった。だが喉を張って、オヴェリアは問うた。
「ズファイ王子……」
 ――ズファイ・オーランド・バジリスタ。
 バジリスタ第三王子。
 そして別名を、末弟の将。




 ――初めてその男に会ったのは、5年前だった。
「覚えておいでか。これは光栄」
 ズファイは笑った。そう、この笑い。オヴェリアはよく覚えている。
 父の前で笑った男。
 5年前、バジリスタの使者としてやってきたこの男は、父王ヴァロックに向かって笑ったのだ。
 愚かなり、と言い捨てて。
「私も、姫の事片時も忘れた事はございません」
「……」
「しかしそのいでたち、何とした事か」
 全身血にまみれたオヴェリアの姿を、ズファイは哀れむような目を向けた。
「お美しい姫の姿が台無しだ」
「……なぜここにおいでかと、問うております」
 ズファイの視線を無視し、オヴェリアは声に力を込めた。
「なぜハーランドにあなたがいる?」
 一瞬、オヴェリアはここがバジリスタの領内かと思った。化け物に運ばれ、国の外に出てしまったのかと。
 確かに彼女達は国の北部までやってきていた。だが……ハーランドとバジリスタと間には広い広い平原がある。化け物に飲まれて恐らく1日そこら。それであの平原を越えられるとは思えなかった。
 そして彼女が立っているのは水流の端。川に沿い来たとすれば、ここはバジリスタではない。
 それならばなぜここにバジリスタの王子が?
 ズファイは一瞬とぼけた様に明後日を見たが「たまたま通りがかったのみ」と答えた。
「物見遊山です。馬を走らせていたら、バジリスタを越えてしまいましてな」
 のう、盃? と笑いながら背後の男に問いかける。
 問われた近従の男は無表情のままオヴェリアを見つめたが、
「始末します」
 そう言い、走り出した。
 突然の事だった。オヴェリアは男が走るのを見た、だが動きが一瞬出遅れた。
「やめろ」
 ズファイがそう言った時。男はすでにオヴェリアの目の前に立ち、剣を振り上げていた。
 長身の男は、オヴェリアには見上げるほどの闇。
 対しオヴェリアは受けるだけの体制を整えてはいなかった。もしも踏み込まれていたならば、その剣を受ける事ができたかは不明。
「殺さば終いだ」
 クククとズファイは笑う。それでも剣を納めぬ盃に、今一度ズファイは言った。
「俺の命令だ。退け」
「……御意」
 去り際にもう一度、盃はオヴェリアを見下ろした。オヴェリアは目をそらさなかったが、鼓動がひどく打ちつけていた。
「恐れ多くもハーランドの姫君に、無礼を致しました」
 喉の奥で笑いながら、ズファイが一歩歩み寄る。オヴェリアは無意識に退こうとしたが、かろうじて踏みとどまった。
 退けぬ。後ろには大勢の人々がいる、今ここで立ち向かえるのは彼女1人。
「だがまさか……、最初に報せを聞いた折は、たわけた事を抜かす者だと思い伝令を斬り捨てましたものを」
 まだ歩み来る。オヴェリアはけん制するように胸を張った。
「真でありましたか……そなたがその剣を持ち、旅に出たという話」
 愚かなリ、父王にそう言ったあの時の声がオヴェリアの脳に蘇った。
「白薔薇の姫君」
 距離はもう、オヴェリアの剣が届く所まできていた。一歩踏み込めば彼を斬る事もできる。
 だがオヴェリアはそれをしない。そしてズファイが距離の意味に気付かぬわけがなかった。
 彼の名はバジリスタはおろかハーランドでも知れている。その理由は1つ。
 バジリスタが持つ騎士団……その中でも最強と言われる天剣騎士団。それを従えるのがこの男だからである。
 王族が持つ名ばかりの騎士団長ではない。ズファイという男は実力でそこまで上り詰めた。ある意味で、バジリスタ屈指の武将。
 ゆえに彼は他の王子とは一線を隔される。上の2人の兄も武において勇猛だが、到底ズファイには及ばぬ。
「真に罪深き事だ。……ハーランド王の判断には恐れ入る」
 剣を抜く相手の手中に入る事の恐ろしさ、この男が気付かぬわけがない。それでもまた1歩踏み込むのは、オヴェリアが簡単には斬らぬとわかっているためか。あるいはもし斬ってこられてもそれを制する事ができると思っての事か。
 それとも、その両方なのか。
「私達はさらわれるようにしてここまで来ました」
 恐れてはいられない、とオヴェリアは思った。とにかく後ろの人々を逃さねば。自分が盾となってでも彼らをこの場から立ち去らせなければ。
 しかし……とオヴェリアの心に様々な疑問が渦を巻く。
「この者たちは教会により、故意に集められた者。生き場をなくした者たちを集め、神の元へと誘う申し、その末に謀ったように現れたのがこの化け物」
 バジリスタ。思えばその影はこれまでもあった。
「飲み込まれた我らは、命からがら抜け出した。そしてそこに……あなたがいた」
 ――教皇の側近、枢機卿ドルターナ・ウィグル。彼は暗黒魔術を操る魔道師と繋がっていた。
 ギル・ティモ。
 神聖騎士団の団長は、枢機卿はその男をバジリスタより招いたのだと言っていた。
(ギル・ティモは叔父上を……)
 フォルストでの光景が蘇る。魔道師によって連れ去られた叔父の姿が。
 アイザック・レン・カーネル。だが最後に会った彼はこう言っていた。ハーランドを滅ぼすのだと。
「……」
 教会、そしてバジリスタ。
 枢機卿、ギル・ティモ、……そして。
「あなたはここにいた」
 オヴェリアはゴクリと息を飲み込む。
「……偶然だとは、思えません」
 広い広いこの大地で、こんな偶然はあり得ない。
「この化け物は一体何なのですか」
 中で見た光景、それは常識外の光景。
 マルコは術が使えぬと言った。何らかの奇妙な力が働いているように思えた。
 ――魔術。
「俺に問われても知らぬ」
 だがズファイは笑っている。
「俺が知るのは、化け物が血を吹き、そなたが中より現れた事のみ」
 それだけではない。
 そもそもなぜ、教会は人々をあの町に集めた? 化け物に食わせるためか?
 まるで生きたままに。
「あの町は何だったのですか……?」
 ズファイはやはり笑っている。
「町?」
「教会が内密に作った町」
 あの町だけじゃない。周辺の町からも人が消えている。
 何が起こっている? 真実は――。
「ズファイ・オーランド・バジリスタ……」
 オヴェリアは剣を持つ手に力を込めた。
「答えられよ……なぜここにいるのか」
 まるでこの化け物と共にいたかのような場所に。
 まるですべてを知っているかのような顔で。
 なぜここにいる?
 なぜ随所にバジリスタの影がちらつく?
「答えよ、ズファイ」
 鼓動が増して。
 自分でも恐ろしいほどに、オヴェリアの息が荒んで行く。

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