『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第26章 『末弟の将』 −2−
「……生き場をなくした者を集めた町」
風が吹いた。
それが水辺に波紋を起こす。
大きな流れによってかき消されるまでの、たかだか1つ2つの小さな波紋。
「生きる事を諦めた者が集うた町、か」
盃は動かぬ。だが何かあれば一瞬でその剣は引き抜かれる。
その視線の先で、ズファイは面白そうに言葉をつむぎ始めた。
「教会がそれらを集めて、化け物に食わせた、か?」
オヴェリアは瞬きを殺して男を見つめた。
「ククク……そうか、生きる事をな? ククククク……」
「何が可笑しいのです」
血に汚れてしまったその顔、眉が寄る。
だがそれすらも愉快そうに見て、ズファイは答えた。
「教会のせいではないだろう?」
「――」
「何を言うやら。元々の原因は、この国のせいではないか」
言われた意味がわからず、オヴェリアは目を見張った。
「生きる事を諦める、生きる場所が見出せぬ? 絶望の中、もはや死より他にすがるものがない――そんな国に誰がした?」
国。
「教会のせい? バジリスタ? いいや、……元を正せば、お前の父のせいではないのか?」
「何を……ッ」
「そうだろう? 国が豊かで希望を見出せるのならば、人は死を選ぶ必要もない。自らで命を絶つなどという事をするわけがなかろう。そもそもサンクトゥマリア大教会は自ら命を絶つ事を禁じている。お前だってそうだろう、そんな説法を延々と聞かされてきた。希望はどこにでもある、明日を信じて歩んでいけ……希望論? 理想論? 生まれた時から叩き込まれた、お気楽な精神論だ」
だがすがるだろう? 人は、神に。
「ここで生きられぬというのならば、問題としてあるのはその場所だ。言うならばハーランドそのもの。その長がこの国を悪しき物としているのだろう」
馬鹿な……オヴェリアは言葉を失った。
「父は、そんな……ッ」
「この国は、何やら色々な問題をはらんでいるようだ」
オヴェリアの絶望の顔を舐め楽しむように、ズファイは言った。
「ヴァロック・ウィル・ハーランド。武に秀で、知にも明るい王。騎士はもちろん民からも慕われる良き王として、このハーランドを治めてきた」
建国より250年続く、太平の国。
「国は豊か、土地も気候も良い……海の産物、山の産物、流通も良く、近隣のどの国にも勝る穏やかで平穏な国。その礎を築きし王。……だが」
そこで言葉を区切り、ズファイはオヴェリアの目を見た。
「本当にそうか?」
「……」
「本当はこの国は――崩れる一歩手前の」
砂の城なのではないか。
「……何を言われるか」
オヴェリアはズファイを睨みつけた。
「わが国は平穏。何ら崩れる要素は非ず」
「蟲」
―――。
「何やらこの国には、異形の生物が出るそうではないか。蟲、と呼ばれてるそうな? 人を喰らうおぞましき生物だ。それにより村が襲われ町が襲われ、随分な被害も出ている様子」
「……」
「討伐の兵士は歯が立たず、だが国はろくに対策に乗り出しておらぬ様子。小さな集落で起こる事だからと、国は見て見ぬ振りをしているのではないか?」
……違う、とオヴェリアは言いたい。
でも本当に、父は蟲の対策を講じているのか? オヴェリアは旅に出るまでその存在すら知らなかった――。
「蟲だけではない。貧しい小さな村々は、盗賊どもの恐怖にも怯えている。今日をやっとでしのいでも、そいつらに全部持っていかれるんだ。弱い者、力なき者は屈服するしかない。異形に怯え、でなければ人に怯え……食えなくなった者たちが最後の行き着くのは、死か、それとも人以下の生涯か」
誰か、叫んで。オヴェリアは心でそう念じた。
「人身売買の廃止を実施したのはそなたの父だ。だが実際にこの国で奴隷はなくなっていない。表向き貴族や富豪はそれらを捨てたが、実際には奴隷制度は根本では生き残っている。王が知らぬだけで奴隷商人は闊歩しているのが現状だ」
オヴェリアも見た、売られていく人々。それを乗せた馬車と商人。
そうだあの時も……人々は絶望していた。走る気力を失っていた。
――旅に出た。色々な町や村を見てきた。
盗賊により迫害される村を見た。蟲によって滅ぼされた村も見た。
貴族でさえも命を弄ばれ、無念の最期を遂げる。
泣けぬ赤子、笑えぬ母親。
あらぬ罪で両親を奪われた子もいる。
どこかしこで悲しみは生まれ、その苦しみは連鎖を呼ぶ。命が弄ばれ、明日を不用意には見出せない人々が。
この国には、いる。
「ヴァロック・ウィル・ハーランド……良き王だと民衆がたたえている? だが実際にハーランドの現状はどうだ? どこが、平和で安寧たる国だ?」
「父は……」
オヴェリアは唇を噛んだが。
そこへ、ズファイは畳み掛けるように言った。
「お前の父は愚王だ」
「……ッ」
何たる侮辱か、目の前の男、許せぬ。
だが足が怯えて踏み出せない。
それはオヴェリアが、何も知らない姫ではないから。
見てきた、この国に点在する色々な不安。
だから。
……そして。次にズファイが言った言葉に。もう彼女は黙るしかなかった。
「そうそう。アイザック・レン・カーネルはわが国にて、手厚くもてなしている」
「――」
アイザック。
「彼はわが国に亡命してきた。亡命者には礼をつくす。……ヴァロック王の所業は聞いた。なんと恐ろしき王か」
「やめて……ッ」
叔父上が、バジリスタに行った……。ギル・ティモに連れ去られた叔父上が……。
話したというのか、父の事、母の事……オヴェリアは愕然とした。信じられなかった。
この国が犯した最大の秘密。王妃ローゼン・リルカ・ハーランドが白薔薇の剣を握っていた事――。
愕然とするオヴェリアはもう、ズファイがどんな顔をしているかも見えない。彼が今一歩歩みきた事も。
「最悪、すべての事に目を瞑ったとしても」
どこの国にも、どんな組織にも、疲弊は生まれる。国事のため、犠牲をはらむ事はある。
だが、とズファイの顔が歪んだ。
「王が成した最大の罪は王妃の事に非ず」
オヴェリアはゆっくりと顔を上げた。
もうズファイは、手が届く所まで来ていた。息が届くほどの傍に、男の顔はある。
「それは、お前を旅に出した事だ」
その目は鋭く光っている。
バジリスタ王族が持つ、金の目で。
彼女の瞳を、捕まえようとする。
「たった一人の娘に……一国の王女を竜退治に送り出す。こんなのは狂気だ。それ以外にない」
「この道は、私自身が選んだ事」
「だが最後に命じたのは王だ」
大衆の目の前で。
もう退けぬぞと、苦悶しながらも。
彼は娘に、その任を託した。
「竜退治なぞ、腕の立つ戦士でも躊躇うもの。それを、いかに試合に勝利したとて娘に任せるなど」
「それはッ……」
「ヴァロック・ウィル・ハーランド、その男は狂っている」
違う、違う、違う。
「その男がこの国を腐敗させていく。その男がこの国を貶めて行くのだ」
「違うッ……」
やめて、もうやめて……オヴェリアは頭 を振った。
そしてその腕をズファイは掴んだ。白薔薇の剣を握りしめるその腕を。オヴェリアはハッとした。
この金の目は、恐ろしい。
吸い込まれるほどの輝き。……囚われる。目が離せなくなる。
「250年続く安寧の国、武王が統治する豊かな王国……だがそれは実際にはまやかし」
「――」
「そしてその武王も、病に冒され長くはない」
なぜそれを――まだ一部の者しか知らぬ極秘の事を。
だが呆然とするオヴェリアが次の言葉を口にする前に、ズファイは彼女の腕を引き寄せた。
そして男はオヴェリアの耳に唇を寄せて。最後の言葉を口にした。
「今ならば」
「――」
「この国……もしも今攻め入らば。今ならば簡単に、滅ぼせるような気がしないか?」
――蘇る記憶。
ああそうだ。5年前、ズファイはオヴェリアの目の前で言った。
共に平和のために歩もうと手を差し伸べたヴァロックに向かって、彼は高らかに笑い。
ただ一言、「愚かなリ」と。
次に感じたのは、風だった。
瞬間、オヴェリアは弾かれた。ズファイが握っていた腕を離したのだ。
解き放たれたオヴェリアが最初に感じたのは、白薔薇の剣の重み。
そして、少年の声だった。
「オヴェリア様ッ!!」
マルコだ。
彼はオヴェリアとズファイの間に滑り込んだ。その手には剣が構えられていた。
黒の剣。
「オヴェリア様、逃げて……ッ!!」
オヴェリアは唖然と少年の背中を見つめた。
そして剣を向けられたズファイの顔は、見る間に狂気のそれへと変貌して行った。
「……俺に剣を向けるとはいい度胸だ、小僧」
「オヴェリア様は僕が守る」
この剣で。
剣を振った事がないわけではない。――あの時は棒切れだったが、カーキッドに打ち方を習った事もある。旅に出てからもたまに、遊びで打ち合った事もあった。
だがこの剣はこれほど重かったのかと、マルコは内心驚いた。
カーキッドはいつもこれを自在に振り回していた。まるで自由だと言わんばかりに。
今彼はいない。だがその魂はここにある。
――そして、オヴェリアはその魂と共に戦ってきた。
お守りじゃないと言われてきた、でも随分守られてきた。
だから思った。オヴェリアは、守られたいんじゃないと。
あの人の隣に立ちたい。共に戦いたい。その背を預けてもらえるようになりたいと。
……だから彼女はマルコの隣に立った。
「ありがとう、マルコ」
そしてカーキッド、とオヴェリアは虚空に向けてその名を呼ぶ。
「ズファイ」
諦めませんと、強く誓う。
「確かにこの国にはほころびがある……幾らかの不安もある、悲しき現実もある。それでも」
狂気の色に、立ち向かう。
「この国は私が守る」
白薔薇の剣を立てる。
「私が守り抜きます」
「お前が?」
ズファイは目を細めた。彼は笑わなかった。
「守るというか、ハーランドを」
「ええ」
――父と母の国を守る。
旅に出た。様々な国の現状を見た、憂いを目の当たりにした。その中で同時に、オヴェリアが刻んできたもう一つの思い。
父が守り、母が愛したこの国を守る。
それは誰の命令でもない、己の意志で。
そのために、戦うと。
……彼女のその顔に、ズファイは感嘆の声を上げた。
「そうか……この国には、お前がいるか……」
真っ向睨む。そこから、ズファイは鼻で一つ笑って背を向けた。
「エンドリアだ」
一瞬、男が何を言ったのかわからなかった。
だがその瞬間だった。気がついた時にはもう、盃の姿が目前にあった。
「手荒くするなよ」
腹に拳を打ち込まれる。姫の視界がグラリと歪む。
「姫様ッッ!!!」
マルコの叫びが、斜めに堕ちて行く視界の中で聞こえて。
オヴェリアは必死に目を開けようとしたが、叶わなかった。
「餌はどうされますか?」
「食われたと申しておけ。必要ならば、亡骸だけ墓場へ」
暗転していく意識の中、オヴェリアは必死に訴えた。他の人には手を出さないでと。
(カーキッド)
闇の中、オヴェリアはその男の背中を見た。手も伸ばした。
だがそのまま、意識を失った。
「見せてやる……一つの可能性を」
況 や神が導く1つの姿。
ズファイは跪き、オヴェリアの髪をすくった。金糸が指から垂れた。
そこにそっと、口付けをする。
その顔に浮かぶのは笑み。
金の瞳と赤の髪が刻む、残酷なほどの微笑であった。