『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第30章 「剣を立てろ」 −1−
やめろと叫んだ。
触るなと叫んだ。
姫の名を呼んだ。何度も何度も。
そのたびに殴られた。
腹を蹴られた。背中も蹴られた。
何度も地面に打ち付けられて。
最後には目の前に、剣が突きつけられた。
「黙れ」
切っ先に息を?んでいる暇なんかなかった。
その間にオヴェリアは磔られ。
――行進は、始まった。
「姫、様……ッ」
腕を後ろに縛られているマルコは、無造作に引きずられていく。
全身が痛む。口の中も外も切れている。血の味と砂の味が泥のように広がっている。
顔をもたげると、黒い頭の間に白い物が揺れているのが見えた。あれがオヴェリアだ。
「オヴェリア様ッ――」
呼んでも、返る声はない。
ここに至る道中、魔術師と思われる者たちがオヴェリアに術を施しているのをマルコは見ている。
死の術ではないと、マルコは必死に自分に言い聞かせた。姫は死んでいない。姫を殺して自分だけ生かしておく理由はない。
だが、奥の歯が震える。
(姫様)
叫ぼうとした。だが声がうまく出なかった。目も腫れて半分ほどしか開かない。
でも、マルコは必死に揺れる白い衣を見た。
姫様を助けなければと、そう思った。ずっとそれだけを思い続けている。
だが、マルコには何もできなかった。
手を縛られていては術も描けない。マルコの術はデュランとは違う、言葉だけでどうにかなるものではない。簡単でも、陣を描かなければ発動しない。
そして今彼は両腕を後ろで縛られている。これは致命的だった。
(……まただ)
マルコは思った。
レトゥの下で魔術を学んでいた時……彼は、自分の力に少し自信があった。
レトゥにも褒められた。お前は水の才能があると。それは天賦の才能であると。
だけどまた、マルコは自分の無力さを思う。
竜を前に何もできなかった、あの時と同じように。
また、腕が縛られていては何も出来ない自分。
叫んでも叫んでも、どうにもならない。
「姫様ッ……」
守らなきゃいけないのに。あの人を、命に代えても。
そう誓って、この旅に出たのに。
デュランと約束したのに。盾になる覚悟を持つと約束したのに。
カーキッドとデュランが守ってきたあの人を。
(守らなきゃ、いけないのに)
咳がこみ上げた。
発作的にもがくと、同時に地面に放り投げられた。
背中から地面に叩き付けられる。背骨に痛烈な痛みを感じた。両腕と共に背中に一緒に括り付けられた物が当たったのだ。
黒い剣である。
どういう酔狂か、マルコは、縛られる時カーキッドの剣と共に縛られたのだ。
命じたのはあの赤髪の男。
『妙に動けば鞘から抜けて、お前の背を斬るぞ』
彼はそう笑いながら言った。そして同時に彼はこうも言った。
『その剣で、姫様を助けてみよ?』
馬鹿にされていると思った。これはただの酔狂だ。
何もできないとわかっているから、わざわざ武器と一緒に括り付けた。もしも捕えられたのがカーキッドだったら、反撃の余地など残すわけがないのだ。
それが情けなく。そして何もできない自分も情けなく。
僕は弱いんだと、改めて、マルコは痛感した。
痛いのは体か、それとも心なのか。
どちらであろうとも、こんな痛みで泣きたくはなかった。
地面に転がったマルコの鼻先に革靴が現れた。
その革靴は覚えた。オヴェリアと共に連れ去られてからずっと傍にある、監視の者の靴だ。
他の者たちより小ぶりの靴ゆえに覚えた。それに、底の厚みや色が違う。今行軍を成している者たちの履く物とも明らかに違う、軽そうな物であった。
その時、不意に声が沸き起こった。
「掲げよ――!!」
応という太い声と共に、ゾロゾロと足元が蠢く。
両手が縛られていては身を起こす事もできない。そして見なくても何が起ころうとしているか想像がついた。
「やめろッ」
だから叫んだ。
「姫様ッ!!」
もう一度呼ぶ。届いてくれと念じながら。
(カーキッド、デュラン様ッ)
誰か助けて、姫様がッ。
――ずっと待ってたんだ、助けにきてくれるのを。あの2人が駆け付けてくれるのを。
あの2人は強いから。竜を前にしても、暗黒魔術を前にしても、ひるまず戦っていく人たちだから。
――姫も。
(皆……強いから)
泣けてきた。泣きたくないのに、頬を涙が伝った。
(2人は来ない)
姫は目を覚まさない。
現状は刻一刻と、残酷な方向へ向かっていく。
起き上がる事すらできない自分に、何ができる?
――自分が弱いと気づいた時、どうやって、それ以上前に進んで行けばいい?
その時不意にマルコの脳裏に声が蘇った。
それはカーキッドの声だった。
『お前、筋いいよ』
まだ出会って間もない頃。木切れで打ち合いをした事があった。
マルコは最初、カーキッドが少し怖かった。
けれども、オヴェリアたちが森に入り、一人だけ取り残されてしまった彼の姿に少し自分を重ねた。
カーキッドも1人なんだ、と。
……だから少し傍に寄った。
剣術に興味があったわけじゃなかった。でも、カーキッドとの打ち合いはとても楽しくて。
『毎日続ければ、いい剣士になれるぞ?』
その言葉が、嬉しかった。
剣士なんて、なろうと思った事もなかったのに。
脳裏に浮かんだカーキッドの笑顔を掻き消すように、痛みが走った。
髪を掴み上げられたのだ。そしてその痛みの中目を開いた先に、空が見えた。
否――空に滑り込んでくる、黒い十字の映像。
白い衣が翻る。
「姫様」
マルコの頬を伝った物は、涙であり、血であった。
――誰もこない。2人は助けに来てはくれない。
「オヴェリア様を、離せッ……」
――自分は弱い。あの2人にも、オヴェリアにも敵わない。
両腕がもどかしい。痛む体がもどかしい。何もかもが擦り切れて、でも爆発しそうな衝動を覚える。
――背中のカーキッドの剣が、熱いような気がする。
その時、マルコの目の前が真っ暗になった。髪を掴んでいた者が覗き込んできたのだと知るには、少し時間がかかった。
「……黙れ」
彼はそう言った。
顔はフードですっぽりと覆われている。そして全身は真っ黒だ。
目がくらむ。だがマルコは懸命に、目の前の者を睨んだ。
「オヴェリア様をッ」
皆まで言えなかった。投げ出された。そして目の前に剣が突きつけられた。
そしてドォという音が沸き起こった。黒の集団が、引き立てたオヴェリアに向かって剣を構えたのである。
マルコにはそれは見えなかった。でも気配である程度を察し。
地面に転がり、後ろ手で剣の淵に触れた。
握れるような角度ではない。無論、抜く事などできない。
手首をひねっても動かしても、縄が皮膚を噛み込んで行くのみ。
身動きは取れない。
……だが。
「姫様」
考えなきゃならない。
頬を涙と血が流れて行く。開かない目と、動かない体。それでも。
(諦めちゃいけない)
マルコは怖いと思った。
それは、今目の前に突き付けられている剣ではない。
落胆されるのが。
カーキッドとデュランにがっかりされたくない、動けなかったなどと言いたくない。仕方がないとも思われたくない。
カーキッドとデュランと、そしてオヴェリアと。
やっと見つけた、自分の場所。
初めて自分で選んだこの道。
それを作り上げていくのは、他人じゃない。誰かに受け入れられるためには。
自分で築いて。
「……姫様」
戦って。
もがいて。
無理でも何でも、知った事か。
――背中にはカーキッドがいる。
そして、
「僕は、男だ」
剣を突きつけたその黒い影が、少し笑った気がした。
その瞬間。マルコは思い切り横から目の前の者に蹴りを飛ばした。
「――」
反動だけのその動き、簡単に避けられる。
だが目の前にあった剣が消えた。この瞬間を逃すわけにはいかない。
まずは身を起こす事。どうすればいい? マルコは考えながらゴロゴロと地面を転がる。
岩がぶつかる、擦り剥ける。
そしてそんな動きで逃げられるわけがない。すぐに追いつかれ、逆に蹴り飛ばされる。
転がった木材に背中からぶつかる。
そこで半身を何とか起こし、木材に縄目をこすり付ける。
ささくれ立った部分が皮膚を刺すが構っていられない。
今しかない。この時を逃して、もう一体いつもがくというのだろうか。
何でもいい、どうでもいい、縄をほどいてオヴェリアの元へ。
だがマルコの焦りをあざ笑うかのように、監視の黒装束はゆっくりと歩いてくる。
他の者も異変に気づき剣を持ちマルコの元へ来ようとしている。
何度も何度もこする。縄は切れない。そうこうするうちに、黒装束は目の前に迫り。
剣を振り上げた。
頭上に光るそれを見た時、マルコは息を?み。
そして同時に、自分の中で何かが切れたような感覚を覚えた。
振り下ろされた一閃を右へかわす。
かわした勢いから、膝を立てる。もう片方の足も踏み込む。腰で重力に逆らう、それほど強くない足腰に、立ち上がる力は強く強くかかったが。
それでも立った。
自分の足でまともに立ち上がる事ができたのは、久しぶりだった。
だが感慨を覚えている暇はない。
「小僧ッ」
そこらにゴロゴロと控えている者たちがマルコの元へと駆け寄ってくる。
それにマルコは歯を食いしばり、
「ウォォオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」
声を張り上げた。
「オヴェリア様ッ!!!!!!」
石垣に向かい、走り、腕をこすりつける。
後ろに回した肩が抜けそうだ。
横から駆けてきた黒装束が剣を薙いだ。転がるようにマルコは避ける。
ピッと、縄が切れた感覚がした。今の剣が掠めたのか。
ピンと張っていた縄が緩む。
頭で地面を蹴って、もう一度立ち上がる。そして走る。
その間に腕をもがく。抜けろ、抜けてくれ。
ガクと、背中に背負った剣が落ちた。
その瞬間、両手に自由が戻る。
背中の剣を掴んで、両腕を前に戻したその瞬間。
強烈な横蹴りが跳んでいた。
避けきれず、腹をくの字にマルコは吹っ飛んだ。
だが剣は離さない。
何があっても、この剣だけは。
――ドサリと倒れ込む。口から血が溢れ出た。それでも何とか起き上がり。
周りに集まる黒い連中に向けて、マルコは剣を、ザラリと抜いた。
心の中で誰かの名を呼んだ。オヴェリアだったのかカーキッドだったのかデュランだったのか。呼んだマルコ本人も覚えていなかった。
剣は重い。肩が抜け落ちてしまいそうだ。切っ先を持ち上げていられない。
立っているのもやっとやっと。
そんな彼を、黒い者たちが取り囲んでいく。笑われているのがわかる。
「始末するか?」
誰かがそう言った。
「生かしておけと、盃殿の命令だが」
「面倒だ」
鼓動が湧き上がっていく。耳まで届く、早鐘のような音。
「貴様の失策だ」
「そうだ、子守はお前の役目」
「アズハ、お前が始末しろ」
――アズハ。
誰の名前かを考えるより早く、一団の中から1人歩み出た。
この黒一色の中、マルコにはすぐわかった。それはずっと彼についていた者。監視役の黒頭巾。
黒の中ではやや小ぶりのその体躯。彼は、マルコが剣を持っていようが関係ない素振りで平然と歩いてくる。
マルコは剣を握る手に力を込めた。
(もっときちんと、)
カーキッドに剣を見てもらっていればよかったと思った。
術が使えると、過信していたわけではなかったけれども。
……周りには圧倒的に強い者が何人もいたから。
守ってくれなくてもいいなんて言いながら、心のどこかで完全に頼り切っていた自分に気づく。
いざとなっても、誰かが守ってくれると。
――アズハと呼ばれた黒頭巾が目の前から消えた。
そして気づいた時には真横にいた。
振り返った時、マルコははためく頭巾の向こうに2つの目を見た。
青い目だった。
その色が確かに、マルコの脳裏には焼き付いた。