『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第31章 花 −3−
――オヴェリア
名を呼ばれた。
だから彼女は振り返った。
振り返った先に花畑があった。
「かあさま」
白薔薇の庭園。そこにはいつも母がいるから。
――夢とは言えぬ、朦朧としたその世界で、オヴェリアは幼子に戻り。
「かあさま?」
ずっと、母の姿を探し続けていた。
……むせるほどに薔薇の匂いが立ち込めていて。
辺り一面、見果てぬほどに花は続いているのに。
母の姿は、ない。
何で? どこにいるの?
どうしてお母様はいないの?
『王妃様は今、フォルストにお帰りです』
フェリーナが言っていた。
フェリーナはずっとずっと傍にいる、仲良しの侍女。
友達という概念はわからなかった。でも、きっと彼女がそういうものなんだろうと思っていた。
そのフェリーナが、母は故郷に帰ったと言う。でもなぜかオヴェリアはいつも信じられなくて。
最後には、薔薇の庭園に足を踏み入れるのだ。
……誰もいない庭園をさまよい歩き、最後には兵士に見つかり連れ戻される。
「かあさまはどこ?」
兵士は一瞬困惑の表情を見せる。
「フォルストのご実家でございますよ」
侍女がたくさん現れて、その中からフェリーナが飛び出し、抱き付いてくる。
「姫様っ、突然いなくなっちゃうから、心配しました……!」
「フェリーナ! 無礼ですよ!」
……いいの。いいのよ。
フェリーナを守るように、オヴェリアもフェリーナをぎゅっと抱きしめる。
「オヴェリア様っ、お願いですからっ、私に内緒で勝手にどっか行かないで」
「……うん」
――母上がいない。
でも、フェリーナがいた。周りにはたくさんの人たちがいたから。
そしてみんな、自分がいなくなる事に怯えている。いなくなるととても心配するから。
けれども、そんな顔を見るとオヴェリアは申し訳ない反面、少しだけ満たされた。
誰かに必要とされる事。
……幼心に、それは、少しだけ、こそばゆいような喜びだった。
幼い頃、母はよく城から姿を消した。
誰にいつ聞いても理由は、「フォルストへ」だった。
母がいなければ、父もいない。
……でも、気にした事はなかった。
オヴェリアは幼い頃、父とそれほど話した事はなかった。
優しく穏やかな父だった。だが、彼は国の王だった。自分1人の物ではなかった。
母もそう。……誰にともなく言われ続けた。
ヴァロック・ウィル・ハーランドとローゼン・リルカ・ハーランド。2人は国の物であると。
2人が支える国。
そしていずれはオヴェリアもまた、国を支えるために努めなければならないと。
そんな事言われたってよくわからない。
ただ、父と母と共にいたいだけ。2人に遊んでほしい、構ってほしいだけ。
「私もフォルストに行きたい」
……フォルストにいるアイザック叔父上。大好きな叔父上。
けれどもその願いの多くは叶えられなかった。
……そしてようやく母が傍にいてくれるようになった時には。
「母上様は、お体の具合が悪いのですよ。無理をさせてはなりません」
母は、少し体を、病んでいた。
……でも。やっと母が自分の物になった。
オヴェリアは嬉しかった。
その母がいなくなるなどと考えた事もなかった。
ずっと一緒。これから先ずっとずっと。
父も母も。
離れてはいかない。
――そう思っていたから。
……母が「フォルストに行っている」と言われたその真実、どこに行っていたのか。父と母が何をしていたのか、何を背負い、何を担っていたのか。
真実を知った頃だった。
ローゼン・リルカ・ハーランドは死んだ。
……そしてその時父は痛いほどオヴェリアを抱きしめ。
「すまん」
泣いた。
2人で泣いた。
父と娘。そこから2人で歩いて行こうと。
歩いていかなければならないと。
……この父を守ると、オヴェリアは、初めて思った。
――オヴェリア
また誰かに呼ばれた気がした。
「父上?」
白薔薇の庭園を歩く。
最近、父の体調が悪い。
大臣や側近たちが各地から医師を募っている。名医と聞けば、遠方だろうが使いを出しているのを知っている。
石病だと聞いた。その病は徐々に体が石のように動かなくなっていく。
でもまさか、父がそのような病に倒れるわけがない。オヴェリアはそう信じていた。
父は勇猛果敢な剣士。白薔薇の剣を持つ、この国の王だ。必ず回復する。
「父上」
今日だって、薔薇の庭園に散歩に出ていると聞いた。
ここに来る事はちゃんと、フェリーナにも伝えてきた。
いつだってそう、フェリーナにはきちんと行先を伝えてきた。
父にすら内緒にしている事さえも。
グレンの元で剣の技を磨いているなどと、父に知られたら大変な事になる。
幼き日、兵士とこっそり遊びで剣の打ち合いをしていたのを知られただけで、オヴェリアは父王に数日部屋に閉じこめられた。
『絶対に剣に触るな』
なんで?
ただ、母のようになりたかっただけなのに。
父を守れるように、強く強く。
母のように、自分も戦場をも駆ける事ができるように。母の代わりに――。
「父上っ」
――白薔薇の庭園の先に、人影を見た。父王だ。
オヴェリアは走った。手を伸ばした。
「父上」
ヴァロックも笑って、手を広げ娘を待った。
「オヴェリア」
会いたかった。
父の胸に飛び込んだ。オヴェリアの目から、なぜか涙がこぼれた。
温かいと思った。
白薔薇の香りは優しかった。
「オヴェリア」
耳元を掠めた父の声が。
……やがて、ゆっくりと消えて行く。
あっという間に、何もなくなった。
父も、薔薇も、何もかも。
また白い空間。白いだけの空間。
たった1人。
「父上?」
オヴェリアは叫ぶ。
「母上?」
幼子のように呼ぶ。
「フェリーナ、グレン」
だが、何もない。
白なのか、黒なのか。わからないその空間。
――夢と現の間の世界。
現実ではないと頭の片隅ではわかっていても、起きる事できぬ。
かといって、完全に夢の中にも落ちていけぬ。
その中でオヴェリアはただ、名前を呼び続けた。
「父上、母上」
あと……他に。
フェリーナ、グレン、大臣、叔父上……あと、他に。
誰かいた。呼びたい名があったはずだ。
だが思い出せない。
ぼやける輪郭。
あれは、誰?
――オヴェリア
また誰かが呼んでる。
父上? 母上? 違う声。
それが誰なのか、必死に思い出そうと頭を振った時。
「オヴェリア」
今度は確かな声がした。
オヴェリアが顔を上げると、そこに人が立っていた。
ローブ姿の……女性。
「誰?」
老婆だ。
どこかで見た事が……あるような気もする。だが思い出せない。
誰?
「オヴェリア・リザ・ハーランド」
彼女の声は確かに聞こえた。幻かもしれないが、幻ではなかった。
「ハーランドは滅びる」
「え……」
何?
「それを決めるのは、白薔薇の剣を持つそなた」
ビクリと鼓動が震え、指先まで伝わる。
「この国の命運は、そなたが握っている」
白薔薇の剣と。
それを持つ定めを持った少女。
1つの終焉と。
その定め。
「……何を……」
急速に現実に引き戻される感覚がした。
でもまだ聞きたい事があった。
あなたは誰? 何を言ってるの?
ハーランドが滅ぶとは一体――。
老女に向かって手を伸ばした。彼女は一瞬、すべてを見透かしたように微笑んだ。
その顔は母の笑顔に似ていた。
もし母が、老いるまで生きていたら。きっとこんな笑顔で。
透けるように美しい老婆に鳴っていた事であろうと思った。
◇
――瞬間。
オヴェリアは目を開いた。
唐突に飛び込んでくる煙の臭いと、体の痛み。
いや、それよりももっと早く、目の前に広がった光景は。
「……あ……」
戦場。
斬り合いが起こり。
絶叫が起こり。
崩れて行く人の体と、血しぶきと。
爆音と。
何だこれは、とオヴェリアは思った。まだ夢の世界か?
体は動かぬ。
随分高い位置から見下ろす光景。自分が一体、どうなっているのか、ここがどこなのか。
何もわからぬ。
わからぬけれども。
――ハーランドが滅ぶ。
焼き付いている、老婆の言葉。
あれは一体……と考えかけたその時、
「姫様ッ!!!」
誰かの声。一瞬わからず、オヴェリアは眼下を見やった。
「気づかれましたか!!」
あれは……。
「カーキッドッ!!!!! オヴェリア様がッ!!!」
――カーキッドとデュラン。
2つの名が、オヴェリアの意識を覚醒させて行く。
「やっと起きたか、この馬鹿ッ!!!」
カーキッドだ。
1人斬り伏せ、男が駆けてきた。その身なりは戦火にさらされ、随分と汚れている。デュランも、無傷ではない。
皆戦っている。
「カーキッド、デュラン様……」
一体なぜ? 何が起こっている? 記憶の糸を懸命に辿っていく。
「今縄を切る」
だが高い。足元は切れても、カーキッドの剣でも腕までは届かぬ。
「柱を落とす。デュラン、守れッ」
「言われずとも」
「何が起きてッ……」
返答より先に、デュランが術を放った。その炎に、黒い戦士たちが巻かれていく。
「姫様ッ、ここはエンドリアです」
「エンドリア」
港町エンドリア?
――川で化物に飲み込まれて。
「あ」
抜け出したその先で。
「ズファイ」
オヴェリアはようやく思い出す。ズファイに会った。その後は……思い出せない。
「エンドリア軍と謎の敵軍と交戦中。首謀者はズファイ・オーランド・バジリスタと思われます」
柱を支える4本の縄の1本目をカーキッドが斬る。それだけで柱はグラリと斜めになった。デュランが支える。
上体が落ちた所で、カーキッドがオヴェリアを結んでいた縄を一気に切っていく。
解き放たれ、地面に崩れ落ちそうになった所を、カーキッドが寸前で抱き留めた。
「カーキッド」
そのまま強く、抱きしめられる。
「馬鹿野郎」
強い。痛い。……でも。
「ごめんなさい」
心地いいと、オヴェリアは思った。
「ディア・サンクトゥス!!」
「オヴェリア王女を殺せッ!!」
デュランの声と、号令が一緒に下る。
「馬鹿者ッ、どさくさまぎれに何をやっとるか!!」
舌を打ち、デュランはカーキッドの背中を殴った。
カーキッドが慌てた様子でパッと腕を離しオヴェリアから1歩距離を取ったその瞬間、今度はデュランがオヴェリアを抱き寄せる。
「ご無事で何より」
「デュラン様も」
ついでに首筋から頬に唇を寄せたデュランを、カーキッドが蹴飛ばした。
「離れろエロ神父ッ!!」
「人の事が言えるかッ」
「あんだとこのッ、」
――無論、その間にも黒い騎士たちがなだれ込んでくる。
彼らはもはや頭巾をかぶってはいない。恐ろしい形相を晒して敵意を剥き出している。
謀反したエンドリア騎士団も、姫に剣を向け走ってくる。
「オヴェリア様を守れ――ッ!!!」
誰かの指揮。
「お前、ドレスの下を覗いてただろう?」
「だッ、誰がだッ!!! それは貴様だろうがッ」
「私はそのような野暮な真似はせぬ。やるなら直接風呂場を覗く」
「死ね、クソ神父」
――カーキッドの背から、炎のような気配が膨れ上がる。それはデュランも同じ。
「この場を切り抜けたら、ブチ殺す」
「早く敵軍を始末しろ」
オヴェリアが戻った。それが、2人を灯す炎となる。
そしてオヴェリアもまた、己の腰に白薔薇の剣がある事を知り。
ゆっくりと抜いていく。