『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

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 第32章  白と黒 −1−

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「姫様」
 呼ぶ声に、オヴェリアは振り返った。
 駆け足で一団が近づいてくる。先頭には領主ブルーム・ロンバルト。彼とは面識があった。
 彼はオヴェリアの元へ参じると、すぐに膝をついて頭を垂れた。周りの従者たちもそれに従う。
「ご無事で何よりでございます」
「ロンバルト公……ご無沙汰しております」
 カーキッドとデュランを除く全員がその場に頭を垂れる。その様にオヴェリアは首を振った。
「お立ちください。今はそれどころではないはず」
「後は我らが。姫様は安全な場所へ」
 ブルームがジラルドに目配せをする。
「城へ」
「……ロンバルト公、首謀者は捕えたのですか?」
 すべてを制し、オヴェリアは鋭く言った。
「エンドリアをこのようにした首謀者――ズファイの行方は?」
 全員が息を?む。その中でブルームは瞬きもせず姫を見上げた。
「……申し訳ございません。行方はまだ掴めておりません」
「わかりました。ならばやるべき事は一つ」
 言い放ちオヴェリアはデュランと、そして少し離れて立つカーキッドに視線を投げる。
「ズファイ・オーランド・バジリスタ、逃すわけにはいきません」
「姫様、それは我らが追います。姫様は城へ避難を」
「いいえ。私も捜索に加わります」
 ジリと、オヴェリアは焦る思いだった。それが微妙に眉ににじむ。
 一刻の猶予もないのだ。
 ズファイを捕えなければ、この国は。
「あの者の目的は、この国の滅亡」
「……」
 オヴェリアとブルーム、2人の視線がしばし重なる。先に折れたのは無論ブルームの方であった。
「……わかりました。その前に、せめてお召替えを」
 敵うわけがないのだ。
「これで構いません」
「いいえ。それはあまりに目に毒だ」
 ブルームが苦笑を浮かべる。場の空気がにわかに和んだ。
「誰か、着替えを」
 ――ジラルドの指揮の元、エンドリアの捜索が開始される。
 オヴェリアたちもその中に加わり、街を走った。
 その中でオヴェリアはデュランからこれまでの経緯を聞いた。
「マルコも無事……」
「今は城におります。傷は負っておりますが、致命傷にはならないでしょう」
 よかった、とオヴェリアは息を吐いた。
「あの者も、懸命にあなた様をお守していた様子です」
「そうですか……」
 オヴェリアは少し目を伏せた。
 そして彼女も、2人から離れた後の事を話した。
 気を失う直前に会った男の事。マルコが剣を持ち、庇おうとしてくれたその時の事を。
「やはりズファイはこの国を……」
 ズファイから城に放たれた文の事。
 エンドリアを狙うという行為。
 すべては1つの結論と符合していく。
「とにかく捕えなければなりません」
 必ずここで。
 見つけ出さねば、運命が転がる。
「橋は落としました。現状この街から出るにはもう、船でも使うしか不可能」
 港は兵で固めている。
 ならばこの街のどこかに潜んでいる。
「……」
 オヴェリアは走った。
 今ここで止めなければ。
(国が……)
 滅びるなど。
 させるわけにはいかない。そんな事。
 絶対に、とオヴェリアは我知らず口ずさんだ。




 敵兵を捕えたという報は、街を駆け巡っている最中に聞いた。
 それを聞いて間もなく、オヴェリアたちはゼム・グリッド騎士隊長たちと合流した。
 黒の兵士たちを捕えたのはゼム以下第一騎士団の面々であった。
 だが、彼の顔は沈痛な面持ちで次第をオヴェリアに告げた。
「敵兵は、全員自害いたしました」
「――」
「謀反のエンドリア騎士団の面々も……捕える事は出来ましたが、話が聞ける様子ではありません。もはや、あれは……」
 ゼムは言葉を濁す。
 捕えたエンドリア騎士団は、もう、人語も解せぬような状況であった。
 草によって。
「精神を犯されている。どれだけの草を使ったのか……一度に大量に体内に入れたのか。はたまた、入れられたのか」
 己が何者であるのか。何のために剣を、その身を捧げてきたのかもわからずに。
 狂ったように暴れる。
 もはやそれが仲間とも、友とも見分けがつかぬほどに。
「元々は彼ら自身が招いた事。ボウ草などに手を出した始末……」
「しかし……」
 デュランは首を横に振る。すべてが偶然とは思えない。
 密輸の麻薬に手を出し溺れた騎士たち。その産出国は撰国。そしてその国と繋がりがあるバジリスタ。
 草をやるから、我らに協力せよと? 極秘にエンドリア騎士団にズファイが迫ったか?
 だがだとすれば、そこまで騎士たちが草に依存するようになった発端は、偶然か?
 何にせよ、心を狂わす草の存在。それによって騎士たちはここにこうして剣を立てた。
 領主に歯向かい、街を焼き。
「姫に剣を向けるなど……」
 兵士としてあってはならぬ事。
 草のせいなどと、そんな事理由にならぬ。
 おそらく、騎士は全員処刑されるであろう。許されるはずがない。
 心を失った時点で、騎士としての誇りを手放してしまったその瞬間、すべてが終わったのだ。
「心を操る」
 オヴェリアは悲しげに首を振った。
「そんな事、許されない……」
「フォルストに、似てますな」
 デュランがポツリと言った言葉。
 ――あの時は、草ではなく鴉だった。
 屍に巣食う鴉。
 本人の意思も関係なく、不条理に動かされる人々。
 宰相の姿と、そして叔父アイザック・レン・カーネルの姿が蘇る。
 鴉と草。方法は違えども。
 心を操る、手法。
「……それが彼らのやり方ですか」
 バジリスタの戦い方なのかと……。
 オヴェリアは吐き気がこみ上げてきそうになった。
 ギリギリで顔を隠して噛み潰す。今、ここで弱気の顔を見せるわけにはいかないのだ。
(私が動かねば)
 狂乱がまだ、いつ襲い掛かってくるかわからないのだ。




 ……夜になった。
 だが捜索の手を止めるわけにはいかない。松明が炊かれ、街は昼間のように煌々と照らし出された。
 その明かりはまるで、いつものごとき繁華街の様。だが今日、人々の笑顔はそこにはない。
 現存の兵力すべてをつぎ込んでも、未だにズファイは見つからなかった。
 彼と、必ず共にまだ敵兵も残っている。
 街に潜んでいるのか、それとももう逃れた後なのか。
 夜通しも覚悟。ブルームは全兵士に向けて、何としてでも見つけ出せとの通達を再三出した。
「必ず」
 ――今朝からの混乱がまるで嘘のように。
 不気味な静寂が、街に落ちていた。




 夜は冷える。
 体が震える。そこにデュランが炊き出しの汁を持ってきてくれた。
「姫様、少しお休みください」
 そのにおいに、忘れていた空腹が蘇った。
 パンと汁を受け取り、オヴェリアは少し腰かけた。トンネルになった路上の隅、傍に、小さな洗い場がある。そこには兄弟の子供の像が置かれている。
「状況を聞いてきます。カーキッド、少し頼むぞ」
 言い残し、デュランは兵士たちの所へ走って行った。
 汁を飲み、パンを食べたが。あまり味はわからなかった。
 オヴェリアの心に浮かぶのはただ、国の事。
 ズファイはいずこか。父にも大至急この事を知らせなければならない。
 ブルームは、何としてでもこの領内で決着をつけると言っているが、時間が経つほどにオヴェリアはそれが不可能な事を悟った。
(ここだけで終わらない)
 ズファイ1人の意志であろうとなかろうとも。
 彼は末端の兵士でも野盗でもない。一国の王子なのだ。
 背後に控えるのは、強国の影。
 ここでズファイを捕えるのは最低限の事。問題はその後に控えている。
「……」
 父に、ハーランドに知らせなければ。
(父上)
 病に伏せる父の姿が脳裏に浮かぶ。父は息災だろうか、きちんと食べているだろうか。まだ歩けるだろうか……?
「美味いな」
 声に、オヴェリアはハッとした。
「あ、ええ」
「染みるみたいだ。朝から何も食ってなかったんだった」
 カーキッドはオヴェリアの脇に座り、大口でパンをかじった。
「あー、美味い肉が食いてぇ」
「……肉ですか」
「おう。ああ、お前は不味い肉なんか知らねぇか」
 オヴェリアは少し苦笑した。
「それと、お酒でしょう?」
「わかってるじゃねぇか」
 ニッと笑う。その顔に、オヴェリアも笑みがこぼれる。
「だって、ずっと一緒だもの」
 そりゃわかります。そう言ってから。
 オヴェリアはカーキッドを眺めた。
「初めて、でしたね……こんなに離れてたの」
 離れていたのだ、彼と。この旅に出て初めてと言えるほど長く。
 でも不思議と、そんな感じがしない。
 離れていたけれども、いつも一緒にいたような気持ち。
 いつもカーキッドは一緒にいた。この心の中にずっと。
 彼ならばここは退かぬと思ったり。
 彼ならばここは絶対曲げぬと思ったり。
 カーキッドは絶対に戦う、だから私も戦うのだと。
 ……そう思っていた。
 離れていたはずなのに、ずっと共に戦いっていたような感覚。
 奇妙に心満たされていて。
 そして今目の前にカーキッドの姿を確認すると、心はさらに満たされる。
 この感覚が何なのか、オヴェリアにはわからない。
 父に抱く安心感に似ているようで、違うような。
 親子の情そしてフェリーナに抱く感情ともまた違う。
 ……言葉に出さず、ただカーキッドを眺めていると。男の方が先に目をそらした。
 鼻を鳴らし、椀に向かって唇を傾ける。
「俺は、お前と離れて清々してたさ」
 え、とオヴェリアは呟く。
「お姫様のお守をしなくていいんだ。気楽だったぜ」
「……」
「まぁ、クソ神父が一緒だったけど」
 と、音を立てて汁を飲む。
「……そう、ですか」
「おう」
「私だって……気楽でした」
「そうか」
「あなたなんかと離れていられて」
 ――感情が逆転する。満たされていたはずの感情が、一気に流れを反転させて。
「あなたなんか」
 そう言って舌を出してそっぽを向いてやろうと思ったのに。
 悲しいと思ってしまった。
 それが引き金になった。
「あ」
 気づいた時には、頬に涙が伝っていた。
 悲しい……の?
 悔しい……の?
 わからない……。
 ただ、訳が分からなくなっていく。オヴェリアは立ち上がり、もうその場から立ち去りたい気持ちになった。
「おい、オヴェリア」
「デュラン様を見てきます」
「オヴェリア!」
 待てよと呼び止められたけど、逆に足が進んでいく。
 ――こんな時なのに。こんな悲しいのに、妙な事を思い出す。カーキッドの腕の感触。
 再会した時抱きしめられたあの感触。
 温かかった。
 苦しくて、痛いほどだったのに。
 ……思えば旅に出た最初の頃にも、彼が抱きしめてくれた事があった。
「オヴェリア!」
 逃げ出したい。
 そう思った時、腕が掴まれる。
「離してください」
「何泣いてんだよ」
「……あなたなんか大嫌い」
 思わずそう言った。一瞬腕が緩んだ。
 言葉に傷ついたのは、言ったオヴェリアの方だった。
 あ、と思ってそっとカーキッドを振り返る。すぐに彼の目と出会った。
 黒い瞳。その色はこの国の物ではない。
 きつい眼差し。冷淡にも見える。だけど本当はそれだけではないとオヴェリアは知っている。
 もう知っている。
 この人の……不器用さを。
 一見粗野で、野蛮で、冷たくて、傲慢なこの男が。
 実は、とても繊細で。
 ――カーキッドは少し驚いた様子で、オヴェリアの頬を伝う涙に触れた。
「泣いてんのか」
「……」
「……泣かせたのか?」
 俺が。
 ――オヴェリアは何も返事をしない。
「悪ぃ」
 消え入るような声だった。
 男の手は、行き場をなくしたようにずっとオヴェリアの頬に触れていた。
「……いいえ」
 ――清々していたわけがない。
 先ほどのあの腕の感触、忘れてない。
 きつく抱かれた……あの腕は。この男の言葉を語っていたではないか。
 不器用なのだ。カーキッドというこの男は。
 抱きしめてほしいと、オヴェリアは思った。
 頬に触れる、それだけのカーキッドの感触。その向こうにオヴェリアは静かに思い彼を見上げた。
 涙を止めて欲しい。ここで、きつく、あの時のように。
 父のように。
 母のように。
 ……いや、本当にそんな感情なのだろうか?
 わからない。だがオヴェリアは思った。
 今、カーキッドに触れたいと。
 なぜだかわからないけれども、強く。
 オヴェリアが青い瞳でじっと見つめると、黒い瞳は少し怯えた色を灯した。男がそんな目をするのを、彼女は初めて見た。
「オヴェリア」
 覗きこまれれば、オヴェリアの目も怯える。
 何に怯え。
 何を求め?
 2つの目は重なるのか。
「……」
 泣くよりも、もっと、苦しいと思った。
「……無事で、良かったよ」
 カーキッドは少し苦そうに目をそらした。
「心配した」
「……ごめんなさい」
「勝手にどっか行くな」
 変な空気だ。
 目の前にいるのはカーキッドなのだろうか? と思った。
 そしてここに立っているのは、本当に私なのか? と。
 ――何かが変わっていく感触。
「1人で、行くな」
「……はい」
 手が頬から下に伝い。
 そっと唇をかすめる。
 オヴェリアの唇に、太い指が触れて。
 少し、ズキリとする。
 見つめる。見つめられる。見つめていたい。
 でも、痛い。
「カーキッド」
 その名を呼んで。もう一度心臓が跳ねたその瞬間。
 ――風が、唸りをあげる。




 オヴェリア、カーキッド、2人共同時に音に反応する。
「何だ、この音」
 声すらかき消す。
 空だ。先にオヴェリアが振り仰ぐ。
 雲が行くより音は激しく。
 そして、天空をまるで掻き毟るかのように。
「オヴェリア様ッ」
 デュランが駆けてくる。兵士が走ってくる。
「お逃げください――」
 誰がそう言ったのか。
 何が見えたのか、そう思った次の瞬間。
 ――黒の空よりなお黒い輪郭。
 月が隠れる。屋根のさらに上の上。
 翼の輪郭。
「何……?」
 唖然も茫然も通り越した、全員が立ちすくみ、
 見上げた空に、光を見た。
「いかん」
 判断を下したのは、カーキッドだった。
「逃げろッッッ!!!!」
 光が凝縮。
 次の瞬間放たれる。
 天から地に向け、突き刺すように。

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