『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第35章 北にある絶望 −1−
海は、初めてだった。
彼女は沿岸に望み、遥かなる水平線を眺めた。
「でかいだろ」
茶化すように、カーキッドが声をかける。
「感動したか?」
「……ええ」
文字や絵だけでは、この感覚は伝わらない。
耳に押し寄せる波音だとか、においだとか。
こんな風を知らない。
……でも、少し怖いとオヴェリアは思った。
「これが海……」
広さよりも、美しい景色よりも。オヴェリアは純粋にこの巨大な水の光景に恐怖を感じた。
――これを越えて行く。
この先に、目指す場所がある。
「あなたは……海を渡ってこの国に来たのですか?」
「あん? ああ?」
「怖く、なかったですか?」
「――」
カーキッドはとても驚いた顔をした。
「姫様」
カーキッドが返答をするより先に、デュランがオヴェリアに声をかける。
「ジラルド殿がお見えです」
えっ、と姫はデュランが指す方向を見た。
確かに歩いてくる。あれはジラルド。そして騎士隊長のゼム・グリッドもいる。
事前に、見送りはいいと断ってあった。だがジラルドとゼム、そしてその後ろに数名の騎士も控えている。
オヴェリアは少し困ったが、仕方なく微笑んだ。
「忙しい中、わざわざご足労を」
「間に合って良かった」
居並ぶエンドリア兵、全員が膝をつく。
「どうぞご無事で」
「ありがとう」
それから、ジラルドは顔を上げ姫を見。
やがて、決意した様子で「オヴェリア様」と名を呼んだ。
「……お話したき事がございます」
「何ですか?」
ジラルドの険しい表情に、オヴェリアも表情を硬くする。
「内々の話でございます」
「――」
「次第はすでに、ハーランドにも連絡を入れてあります。ですがまだ公表はされておりません」
「……」
あんだよ、とカーキッドが言いかけて。
「我が殿は……オヴェリア様がゴルディアへ行かれる事を、何としても止めるおつもりでした」
ハーランドより書状があった事は昨日、ジラルドより告げられた。
父が、もう竜退治を放棄せよと言っている事も。
「だがそれだけではない」
ジラルドは首を横に振り、
「北の、現状です」
――間もなく船は出航。オヴェリアたちは海に出る。
船は、火災を逃れたうちの一隻。大きな物ではないが、4人が湾を渡るには充分の物であった。
帆は抗うように必死に背を伸ばし風を受ける。
岸から離れ海原へ行く様は、あまりにも不思議な光景であった。ただ一面の海にのみ進んでいく。
船から放り出されれば、生きてはいられぬ。そんな場所にオヴェリアは立った事がなかった。
波は不思議である。海の揺らぎ、そして太陽の反射、光り輝く光景。
世界には、こんな景色があるのだと。改めオヴェリアの心は揺らいだが。
――その感動を口にする者は誰1人としていなかった。
出航から数時間で、陸が見えてくるまで。
「見えたか」
海の向こうに見えた断片に安堵し、だがオヴェリアは睨みつけた。
――あの地が、ゴルディアへ続く道。
そして、ジラルドが言った事が真ならば。
……絶望への、道になるかもしれない。
『1年ほどになります』
「……」
降り立った地。
桟橋は整っている。
だが少し歩くと、すぐにその現状は見て取れた。
港は、ひどく散乱している。
海のにおいしかしないはず。それなのに。
鼻をかすめる腐臭。いいや、気のせいなのだ。
そこに、死体などは転がっていなかったのだから。
「おっさんの言う通りかよ」
カーキッドは小さく笑った。マルコが彼の隣に立ち、不安そうに周りを見回した。
「誰も、いないんですね……」
「そうみたいだな」
――エンドリアから港を渡った向こうには、ゴルディアに向かう最後の町がある。
かつてはそれなりに大きな港町であった。だがいつしかその規模は小さくなり、今ではハーランドから派遣される兵士のみが集う町。北の大地の監視のための場所。
だが。
港なのに、船は一隻もない。
そして船が来たにも関わらず、誰も現れない。人もいない。
幾つかある倉庫は開け放しの状態で、風に戸が揺れている。中には完全にもがれた物も。
縄とタルが散乱し、荒らされたようになっている。
『北からの定期の船が途絶えました。かの地はハーランドより派遣された兵が交代で警備を当たっていた。常時詰めている数は100ほどでしょうか。エンドリアとの距離は船で数時間。物資や人など、朝と夕、2便の定期船が出ていました』
『兵の駐留所と言っても、元々は人で栄えた町。そして人がいれば商いも生まれます。商品も行き来していましたし、そこで暮らす民間人もいた。それなりに栄えてはいたのですよ』
『ですが、こちらからの連絡船が戻ってこなくなりました。2日経っても3日経っても戻らぬ船に異変を感じた我らは、急ぎ兵を率いてかの地へ向かったのですが』
「大丈夫ですか? デュラン様」
青い顔して座り込んでいる男の背をオヴェリアがさすってやる。
「もったいない限り」
そう言った途端にデュランは「う」と口元を抑えた。
神妙な顔をしていたカーキッドが、弾けたように笑いだした。
「情けねぇ」
「……」
デュランには反論する余裕もない。
「デュラン様、僕、船酔いの薬持ってますから。待っててください」
「……すまぬ」
笑い続けるカーキッドをオヴェリアは睨んだ。
「申し訳ありません……」
「いいえ。大丈夫」
優しく優しく撫でてやる。
「お薬と水です。飲めますか?」
「……」
「え? 何て?」
「……飲めませんゆえに、飲ませていただけませんか? できれば、口移しなどで……」
「マルコ、デュランが口移しで飲ませてくれって言ってるぞ」
「え。僕がやるんですか? 嫌ですよ」
「馬鹿野郎、これも修行のうちだぞ! やれ、マルコ!」
「ううう……仕方がないなぁ。姫様貸してください。デュラン様……じっとしててくださいね。いきますよ!」
「う、いや、待て。結構。1人で飲める」
『北の港には……町にも、誰もいなかったのです。死体も、争った痕跡もない……。船も姿を消していた。忽然と、人が消え失せていたのです』
『すぐにブルーム様はハーランドへ使者を走らせました。ハーランドから内々に調査団が派遣され、改めて北の地の調査がなされました』
『そして我らは町からさらに北へ向かった――国境の地、ゴルディアにまで向かった。そしてその調査団の一端が』
『……持ち帰った知らせが、すべての始まりです』
『黒き竜を見たと』
『見間違いではないかと問い直しました。ですが、調査団は見たと。編隊を建て直し、改めてゴルディアに向かおうとしたのですが、結局悪天候で何度も機会が流れ』
『最終的に、王より一切の極秘として、ゴルディアと北の地の封鎖が言い渡されました』
「……雲行きが、良くないな」
デュランを気遣いながら、オヴェリアたちは町の中へと進んで行く。
「誰かいないのか」
叫んでも、返る声はない。
「この様、本当にそっくりだ」
ドルターナの城を出て、妹川を渡ってから起こり始めた怪事に。
「関連があるのでしょうか?」
問いながらもオヴェリアも確信している。
関係している。
繋がっている。
あそこからここまで。
こんな事が偶然のはずがない。
定期船は毎日運航していたのだ。
忽然と消えたのだ。
問題はそれが、自らの意志であったか否か。
オヴェリアは、死ぬために人が集った町を見た。死の旅に喜んで向かった人々も見たのだ。
それしか救いがないからと言って。
だが……ここは違う。ここにいたのは兵士だ。国から派遣された兵士。
「自分の意志ではない」
デュランが言う。
「そして強制されたとしても、相手は兵士」
100もの兵士が抵抗もなくいきなり消え失せる、その異常。
「家も街並みも、みんなきれいなまま」
マルコはカーキッドの脇から離れず歩く。
「化け物、いるならとっとと出てこい」
カーキッドがふざけた口調で叫んだが。
「愚か者」
返事をしたのはデュランのみ。
「……」
ポツリ、とオヴェリアの鼻先に雨粒が落ちた。
「今日はここで宿営しましょう」
――船に乗っていた乗組員と、少しの兵士団も集って。
その夜は、港に近い広めの駐屯施設にてこれからの事を話し合う事にした。
◇ ◇ ◇
今日は、船に積んできた食料がたくさんあった。酒もある。
あぶった肉を焼き直す。その際カーキッドは、酒もフライパンにわっと入れた。真紅の炎が生き物のように立ち上がる。そこに肉を放り込み、慣れた様子で上下にさせる。
焚火に魚と、パン生地で包んだソーセージを串刺して立てる。パン生地から立ち上る甘いにおいがたまらない。
さらにぶつ切りにした魚を放り込んだ汁。味噌を溶かし、そこにカーキッドはサラサラともうひと手間を加えた。
「何を入れたの?」
「魔法の粉だな」
とカーキッドは答えた。
だがその魔法の粉から立ち上るにおいがまた、何とも言えず奇妙。
「さすがに港町。珍しい食材がたんまりあったから、持ってきた」
カレーの粉であった。
「飲んでみろ」
勧められて飲んでみる。それは姫が味わった事のない奇妙な味であった。
「美味いだろ」
よくわからないが、でも後に引かれる。
「カーキッドの料理、久しぶりね」
ニコリと、オヴェリアが本当に嬉しそうに笑った。男はそれを一目見て、すぐに目をそらした。
「るっせぇ」
照れ隠しに、鼻の頭を掻く。
「美味しいです」
「これは何とも」
「うむ。確かにいける」
……そしてその夜その料理は、そこにいるすべての者からの好評を得た。
体調を崩しているデュランには、オヴェリアが特製のスープを作った。
「何とありがたき事か」
カーキッドに聞いて作った物である。
「これは、何のスープでしょうか?」
涙を流し喜ぶデュランの姿に、オヴェリアは少し頬を赤らめた。
「風邪など、体調がすぐれぬ時に飲むと良いそうです。卵と、お酒を使っています」
卵酒である。
酒と卵、少々砂糖。カーキッドの勧めで生姜も少し入っている。
「美味い」
「そ、そうですか」
「何たる光栄、何たる感激……末代までの語り草にいたします」
「デュラン様、大げさです」
「美味いっ、美味いっ、美味いっ」
「わ、わかりましたから……」
カーキッドが言われるままに混ぜただけ。作ったなんて代物ではない。
だがカーキッドは素知らぬ顔で魚をかじっている。オヴェリアが照れた様子で見ていると、気づいた彼はほんの少しだけ口の端を傾けた。
「美味いっ、美味いっ」
「デュラン様っ、もうっ、あの、恥ずかしいですから……」
「姫様。感謝の気持ちを込めてここで抱擁させていただいてもよろしいでしょうか?」
「おい、マルコッ! デュランが眠気覚ましにぶん殴ってくれって言ってるぞ!」
「え? はい。デュラン様、殴ればいいの?」
「いや、困る。マルコ、そのまま静かに食事を続けてくれ」
――初めて料理をした。初めて美味しいと言われた。
もう一度カーキッドを見た。
男は船乗りと談笑を始めた。
……オヴェリアは、一人、照れて笑った。