『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

目次    次へ

 第35章  北にある絶望 −2−

しおりを挟む

 ――同行は断った。
 船で共にやってきた兵士たちは繰り返しオヴェリアたちに嘆願をしたが、彼女は聞き遂げなかった。
「戻りなさい」
 兵士たちはジラルドより選ばれた領内の精鋭中の精鋭であった。
「姫様のお役に立ちたいと存じます」
 彼らは必死に、エンドリアで受けた恩を訴えた。最後には涙さえ浮かべた。
 だがやはり、オヴェリアは首を縦には振らなかった。
 ……結局、兵士たちは船と共に待つ事となった。
 いつまでも。何が起ころうとも姫の帰りをここで待つと。
「いかなる怪事に襲われようとも、振り払い、必ずここでお待ちします。大陸に戻る足となります」
 オヴェリアと兵士たちの問答を少し離れた所から聞いていたマルコに、カーキッドは言った。
「お前も残ってもいいぞ」
 茶化したような言い方の中に、カーキッドは少なからず本音も込めていた。
 だがマルコはそんな男を睨んだ。
「冗談はやめてください」
 カーキッドは少年の声に少し目を丸くした。
「僕は……こんな誉れはありません」
 再び見る。兵士たちは男泣きしている。美しき姫を危険の中に送り出す現実と、着いて行けぬ事に頭を垂れて泣いている。
「姫様のお共ができる事が。……これ以上の誉れはありません」
 マルコの声は震えている。
「そうかい」
 カーキッドは彼の背中を眺め、そして荷物を担ぎ上げた。


  ◇ ◇ ◇


「ゴルディアまでの道は、ここからせいぜい4日」
 旅立ちの前の晩、カーキッドはそう言った。
 マルコがいる事、オヴェリアにも無理はさせられぬ。デュランも体力面ではそれほど秀でてはいない。
 ここからは無理は禁物。
「道は、山を北へ」
 そしてカーキッドは自分の袋から折りたたんだ一枚の地図を取り出した。
 地図などこれまで何枚も見てきたが、それを一目見デュランは尋ねた。
「これは、お前が書いたのか?」
 カーキッドは無言で頷いた。
 マルコが驚愕の声を上げる。オヴェリアも地図を覗き込む。
 丁寧に書かれた地図であった。山や川、森もきちんと描かれている。
「宝の地図みたいですね」
 マルコが目を輝かせて言うので、カーキッドは鼻で笑った。
「まさか本当にこいつを出す日が来るとはな」
「いつこんな物を……」
 なぜカーキッドが描けるのか。
「昔、見た事があって」
 男は酒に答えをすり替える。
「ここに来るまでの道で、思い出しながら書いてきた。ウロ覚えだから何とも言えん。俺がその地図を見たのはしばらく前だし」
「……しかしよくできている」
 デュランも感嘆の声を上げる。
「見事」
「チ、おだてても何も出ねぇぞ」
「お前、料理と絵の才能があるのか。生き方を間違えていないか?」
「てめぇには言われたかねぇな、エセ神父」
 オヴェリアは地図を見つめる。
 その眼差しに気づき、カーキッドは再び言った。
「まさか、本当にここまで来ちまうとは」
 ゴルディアを目指す旅。
 その場所に迫る日。
 そこはもう、目と鼻の先。
 いわんやこの地図は、この旅最後の地図となる。
 カーキッドの文字で書かれた、『ゴルディア』という文字。
 北の渓谷。
 最後の地。
 ……そして今日、オヴェリアはその地図を手に進む。
 先頭はカーキッドが行く。険しい山道である。
 オヴェリアの傍らを、マルコが荒い息遣いで着いてくる。デュランも口数が減っている。
 そんな中で。
 オヴェリアは、ふと、1つの疑問を感じた。
 ここにきて、初めて。
 ――なぜ、カーキッドはこんな地図が描けたのだろう。
 前に見た事があるから、それを書き起こしたのだと言っていたけれども。
(それだけ?)
 見ただけで、これほどの詳細な物が描けるのか。カーキッドが絵に興味があるようには思えない。
 ならば、
(なぜ?)
「……」
 カーキッドの足取りは揺るがない。力強い歩幅、背中から何か気配が立ちこめているようにも思える。
 ずっとこうして、この男が持つ揺るぎない物に導かれてここまで来たけれども。
「……」
 道は、竜へと続いている。待ち受けるのは、恐ろしき存在。無事ではいられないかもしれない。
 そんな現実なのに。
 そこまできたのに。
 なぜかオヴェリアの心を占めるのは別の感情。
(カーキッド)
 恐怖よりも……妙な、不安。
 オヴェリアはカーキッドの背中を見つめる。
 男は時折振り返り、続く者たちの様子を確認するけれども。
 それだけ。
「夕方までに川に出るぞ」
 カーキッドの言葉にデュランが呻《うめ》くように返事をした。マルコは声も上げられない様子だった。
(どれだけの事を私は知っているんだろう?)
 この状況下、考えなければならない事、決めなければならない覚悟もあるのに。
 ――今になって。
 オヴェリアは思った。自分はカーキッドの事を何一つ知らないのだと。
 ……時折小休止を挟み、夕方には目的の川に到着する。
 そこに至るまで結局、誰一人会話らしい会話をしなかった。
 無論、オヴェリアとカーキッドも。



「昨日のお礼に腕を振るいます」
 とは言っても、持ってきた携帯の食料が主である。
 川がある、魚もいそうではあったが。
「やめておこう」
 制したのカーキッドであった。
 いつもならば我先にと魚の調達に向かう男が、だ。
 だがデュランもすぐにその意味に気づく。
「……なるほど」
「ああ。できる限り気を付けた方がいい」
 もうこの地は、いわば敵地。何が潜んでいるともわからない。
「鳥がおらんな」
 水を毒見でもするかのようにカーキッドは口に含んだ。
「……良さそうだが。油断はできないな」
「何か流れていると?」
「さあな。俺はそっちにはあんまり長けてねぇ」
 オヴェリアにカーキッドは肩をすくめて見せた。
「でも、何か嫌な感じはする」
 オヴェリアにはまだ感じられない。
 だがカーキッドはすでに、明後日に視線を定めている。
 風の音、川のせせらぎ。
 やがて彼は宿営の準備を始めた。
「手伝います」
 オヴェリアはカーキッドを手伝う。マルコはデュランを。
「悪いな」
「いえ」
 カーキッドに言われ薪を集めながらも、彼女はそっと彼を盗み見ていた。
 ――晩の支度は、宣言通りデュランがした。
「いかがでございますか? 干し肉に少々アレンジをいたしました」
「懐かしい味がします」
 デュランの味付けは、城で食べた物に似ている。
 彼は満足そうに微笑み、自身の肉とパンをかじる。
 魚を獲れぬ、野草も控える。そして辺りには食料になりそうな動物も見つけられない。
 生きている感覚は、起こした火と立ち上る煙。不思議とそれだけが生の感覚を繋ぎとめているような現状。
「この土地は……このような土地なのですか?」
 おかしな問いかけではあったが、オヴェリアは思ったそのまま聞いた。
 何かおかしい。だがそれが何かはわからない。感覚的に、としか言いようがない。
「生命の気配がしませんな」
 彼女の疑問をくみ取り、デュランが補足する。
 まだ空は完全には闇に染まっていない。濃紺の中に、西の彼方に一筋の紅が指している。
「鴉の声すらせぬ」
「……」
「……」
「……」
 カーキッドは何も答えず、黙々と食べる。
 オヴェリアは彼を見つめる。
 風は冷たく吹き、炎を揺らす。
 せせらぎに、月が映っている。
「明日の行程はどのような?」
 デュランがオヴェリアに尋ねる。彼女が地図を広げるより先に、カーキッドが答えた。
「この川を伝って行く。途中で絶壁がある……その向こうの森まで出れれば上出来」
 そうか、と短く答えて。
「お前、来た事があるのか?」
 デュランが言った。
 オヴェリアはハッと彼を見た。
 カーキッドは誰とも目を合わさず一時沈黙したが。
「……さぁな」




 食事を終え、ひと時のくつろぎ。
 デュランはマルコに魔術の講義を始めた。
 オヴェリアも聞いていたが、やがてカーキッドが席を立つとそちらに視線を囚われた。
 どうしようかと思ったが、彼女も立ち上がる。
 デュランたちにはすぐ戻ると告げて、カーキッドを追いかけた。
 すぐに彼は見つかった。岩場の向こうで汗を拭いていた。
 今日は月が明るい。だからよく見える。
 しばらくこっそりとその姿を眺めていたが。やがてカーキッドが舌を打った。
 ドキリとして頭を引っ込めたがもう遅い。
「てめぇは、いつから覗きの趣味ができた?」
「……」
 バツ悪い。だがこのままでいるわけにもいかない。躊躇いながらオヴェリアは姿を見せる。
「ごめんなさい」
「何だよ。俺の裸見に来たか」
「そ、そんなんじゃないです!!」
 耳が熱くなる。太陽が照っていたなら、オヴェリアの赤面がさらされる所だ。
「何だよ、お前も汗拭くか? 背中拭いて欲しいのか? お姫様」
「結構ですっ!!」
 心臓が跳ね上がる。オヴェリアは思わず胸を抑えた。
「……自分で、できます……」
「そうかい。水浴びはお勧めできないがな」
「……あなたと違うから、そんな事しない……」
 ――まだ旅に出たばかりの頃、刺客に襲われ汚れたカーキッドは、川に飛び込み汚れを落とした。それができなかったオヴェリアには、彼が羨ましくてならなかった。
「しばらくまともな風呂は無理だぞ。文句言うなよ」
「わかってます」
 ――旅に出て幾度も思った。お風呂に入りたいと。湯は当たり前に城にはあった。湯浴みすれば侍女が伴い、何から何まで世話をしてくれた。無論そんな待遇にばかり慣れていたわけではない。剣の師であるグレンの所に赴けば、全部一人で済ませていた。
 髪をほどけば、フェリーナが真っ先に梳かして。姫様の髪はきれい、美しいといつも言ってくれた。
 当たり前だった日常が。
 ……旅に出てから一転した。
 どちらが正しくて、どちらが間違っていて?
 ただ、自分の無知を色々知った。
 ……いいや、それは自分だけではないのかもしれないとも最近では思う。
 世の中のすべての事を、世の中のすべての人間が、全部知り及んでいるわけではない。
 城の外に暮らす人間が、それだけですべての事を知りえているわけではないのだ。
「カーキッド、」
「あん?」
 ――だから。
 ずっと……思っていた。
 カーキッドは道を知っている。ゴルディアまでの道だ。オヴェリアは何も知らなかった。道なりに行けばきっと着けるだろうとしか思っていなかった。そう言うと彼は呆れた様子でため息を吐いていた。
 だけど。
 カーキッドだって本当は、知らなくてもおかしくはないのだ。
 彼は傭兵だから。各地を転戦しているから。旅人だったからと。だから土地に詳しく、道も知っているのだとオヴェリアは勝手に思い込んでいたけれども。
 そんなはずがない。彼は異国民だ。
 異国からやってきた、そしてハーランドの傭兵になった。そんな彼がこれほどまっすぐにゴルディアまでの道を。
 ――まして、あれほど詳細な地図を描けるほどに。
「……」
 ゴルディアに、来た事があるんでしょう? 心の中で彼女は問いかけた。
 さっきデュランも聞いた。なぜあなたは答えなかったの?
 なぜ何も言わないの?
 そしてどうして――ここへ来たの?
 何で黙ってるの? 教えてくれないの?
 ――ずっと、旅を一緒にしてきたけれども。もう彼の事を全部わかっているような気がしていたのに。
 鼓動が打ち付ける。
 言いたい言葉は、喉を突っかえて出てこない。
 でも、口にしたい。
 でも、怖い――。
「……」
「……」
 見つめ合う。
 互いに何かをためらっている気配を感じるのに。
 結局それは、吐き出されずに。
「デュランの野郎、マルコに変な事教え込まなきゃいいけどな」
「変な事?」
「女の口説き方とか」
「あなたも、マルコに剣を教えているんでしょう? マルコは忙しいわね」
「お前も何か教えてやれ」
「何を?」
「そうだな……礼儀作法だとか」
「マルコより先に、大きな生徒がいるようね」
 まったく違う話で、時が流れて行ってしまう。
 そして流れた時間はもう、捕まえらえない。
 カーキッドはハハハと笑いながら煙草に火を点けた。
 無理だ、と思いオヴェリアは、
「……先に戻ります」
「ん」
 その場を後にした。
 オヴェリアの気配がなくなり、カーキッドは一つため息を吐いた。
「……痛ぇよ」
 ――てめぇの目は。
 川に向かってそう呟いて。
 煙草で白くなる息の消えゆく様を眺め見た。




 ――風が呼んでる。
 誰かが叫んでいる。
 ……泣き声のようにも聞こえる。




 焚火を眺める。
「姫様? どうかされましたか?」
 デュランが尋ねてくる。オヴェリアは小さく微笑み首を横に振った。
「ううん……何でもない」
 カーキッドが戻ってきた。
 その姿を見てオヴェリアの心臓が一瞬跳ねる。今度はその目は炎だけを見つめていた。だが心の目はずっとカーキッドに向けられている。
 やがてマルコが大きな欠伸をして、「僕眠いです」と言いだし。
「今日は休みましょう」
 とデュランが促し。
 オヴェリアが頷きかけた時。
「――前に来たんだ」
 カーキッドだ。
 3人は男に視線を移す。
 男は星を仰いだ。
 空に満天煌めく光。黒の世界に散りばめられた宝石たち。
 そこには神話が宿っている。
「ここに……来たんだ」
 ゴルディアに。
「……」
「……」
「……」
 3人は目を見開き、カーキッドを見た。
 カーキッドは誰とも目を合わせずに。
 星を見、やがて炎に視線を移した。

しおりを挟む

 

目次    次へ