『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第36章 戦士の墓場 −1−
36
――前に来たんだ。
カーキッドはそう言った。
「ゴルディアだな」
「ああ」
デュランの問いかけに今度は即答をする。
「地図を見たのは……あの、兵士の港町だ」
あの時は、とカーキッドは語る。
「2年くらい前の事だ。あの時は別段、町は普通だった。人もいた。大半が兵士だったが、かと言って無駄に殺伐としているわけもなかった。商人もたくさんいたし、旅人もいた。物も溢れてた。北の監視地区と言っても、町として成立していた。戦場じゃねぇ。それなりに賑やかな所だった」
一瞬カーキッドは、さっきまで自分が飲んでいた酒に目をやる。だが結局手が伸びるまでには至らない。
代わりに炎を見つめる。
「地図は……宿の親父が見せてくれた。俺がゴルディアに行きたいつったら、わざわざ奥から持ってきてくれた。俺はそれを書き写させてくれと頼んだ。そしたら親父はじっと俺を見つめて、貸してやると言ってきた。俺は断った。でも親父は頑固に聞きゃしない。ゴルディアまで貸してやる、だから必ず返しに戻ってこいと。俺は……仕方なく折れた」
2年間と言えば、彼がハーランドの傭兵隊長になる前。
ハーランドには、流れ流れてやってきたのだとオヴェリアは聞いていたが。
「なぜゴルディアに……?」
「……」
一瞬カーキッドはオヴェリアを見た。だがすぐに視線をそらし、代わりに笑った。
「可笑しなもんだ」
「え?」
「ゴルディア……俺は遠い異国でその名を知った。傭兵仲間から聞いた。俺たちの間でゴルディアという地名は、別の名で語られる……だがこの国の連中からその名で語られるのを聞いた事はない」
「……」
デュランも知らぬ。マルコはいわんや。
カーキッドはそれを見止め、やがて息を吐くように言った。
「俺たち傭兵の間では……そこは、戦士の墓場≠ニ呼ばれている」
――墓場。
戦う事を終えた戦士が、最後に向かう場所。
「剣を捨てる場所だ」
その腕を捨てる。
戦士としての魂を。
――眠らせる場所。
「なぜあなたがそこに」
震える声を絞るようにオヴェリアが問うと。
カーキッドは彼女に笑顔を向けた。
それは今まで見た事がないような顔だった。この男がこんな顔をするのかと。彼女の背中が一瞬だけザワリと悪寒のように震えた。
「歴戦の戦士は、最後、安寧を求めゴルディアに向かう。そこで戦士としての生涯を終える。剣を捨て、魂をその地に捧ぐ」
「――」
「俺も……そうするために、この地に来た」
カーキッドが剣を捨てるために。
いいやその目の向こうにあるのは闇。オヴェリアはその闇を見た事があった。
――死ぬためにこの地に来た。
彼は、無言の中にそう語っていた。
「最後の戦場は……ここから遠い。エッセルトという場所だった」
カーキッドは視線を虚空に漂わせる。
そこには無とも呼べる空間がある。
だが彼の目はもっと遠くを見つめているようだった。
もうここからはどれほど手を伸ばしても届かない、
……悠久の、過去へ。
◇
――エッセルトの内戦。
カーキッドがそこにたどり着いたのは、内戦が始まるほんの少し前の事だった。
旅の中、砂漠がきな臭いと聞いた。だからそちらへ向かった。
彼がエッセルトへ向かうと言うと、傭兵仲間は「やめておけ」と警告をした。
「エッセルトはまずい……泥沼になるぞ」
カーキッドはその言葉を笑って流した。
嫌な予感は確かにあった。
砂漠の国エッセルト。そこは様々な事が絡み合う国だ。
民族、宗教、ここでしか採れぬ貴重な産出物とその利権、そして他国からの救済という名の侵略。
だが、それでもいいと思った。そんな事、カーキッドには関係なかった。
――ずっと、戦場を転戦してきた。
戦いに身を置く、危険に身をさらす。
その中でこそ、生きていると感じる。
困難が大きければ大きいほど心震える。
そしてそれに打ち勝った時、己がまた一つ強くなったと思える。
――ひたすらに、強さを求めた。
故郷を出て、傭兵となった時からずっと。
「泥沼、結構」
安寧など、ぬるい。
彼はそう思って。
……その時も、エッセルトを目指した。
エッセルトの国にはすでに、多くの傭兵が訪れていた。
戦争の気配はすぐに広がる。特に傭兵にとってそれは生きる糧 。食い扶持 だ。
エッセルトは裕福な国であった。集まった傭兵にも多額の給金が払われた。
そして傭兵たちは、いつ戦火の火蓋が切られるか、注視していた。
給金が多額ゆえに、それと同時に国を出ようと算段する者もいた。カーキッドの耳にもそうした話は聞こえていたが。
何と惜しい事を、とカーキッドはほくそ笑んだ。
お楽しみは金じゃねぇ。そこからじゃないかと。
どの道金だけが目的ではこの世界には生きていられない。
――狂っていくのだ。
狂わなければ生きていけないのだ。
そしてその狂気を友としなければ。
「……」
強くはなれないのだ。
カーキッドはそう思っていた。
傭兵に、仲間意識はない。
同族意識はある。だがそれだけ。
いつも個人戦。
戦場で頼れるのは、己の腕のみ。
部隊として動いた事は今までなかった。
……だがカーキッドはエッセルトにて初めて部隊を組んだ。
思ったより多く集まった傭兵をまとめるために、エッセルト側が幾つかに分けた。
まとまっていればいつの間にか、誰が人を率いる力があるかは見えてくる。
カーキッドが属した分隊にも、そういう男がいた。その男が分隊長になるのは自然な成り行きだった。
カーキッドは分隊長など死んでも嫌だった。そして隊として動く気など毛頭もなかった。
俺一人だけの腕。俺が楽しければいい。国の行く末など本当はどうでもいい。戦えさえすれば。
カーキッドがその国に属したのはただの偶然。いやむしろ、形勢が不利だと踏んだから。
エッセルトは多方面からの圧力を受けようとしていた。攻撃の中心にいる。勝ち馬に乗っても面白くはない。
幸い、カーキッドの隊の分隊長は真面目で思慮の深い人物であった。隊長として他の分隊の者よりも真摯に行動をした。上からの連絡も卒なく伝達される。それでいて、傭兵の性分が分かっている。過度にまとめようと束縛を敷いてくる者ではなかった。
自由にやれと、そういう人物だった。隊としてはやりやすそうだった。
だが1つだけ、カーキッドにとって気に食わない事があった。
……その隊には、女がいたのだ。
女の傭兵は、多くはないが存在する。
だが正直カーキッドはそれが目障りでならなかった。
そしてその女傭兵は、無駄に、隊をまとめようと試みた。
同じ隊になったのだから、皆で仲良くしましょうと。
……これだから女は嫌いなんだと、カーキッドは思った。
「ね、今日は皆で飲みに行きましょうよ」
そこで人種は2つに分かれる。下心丸出しで女についていく男と、一切の関わりを拒絶する男。
「これから一緒に戦うんだから」
カーキッドは女を無視した。
1人だ。
隊なんぞ、お飾りでしかない。
(どこに行っても、どこに立っても)
俺は1人で戦う。
――俺のために強くなる。
俺のために生きる。
死ぬ時だって、俺のためだけだ。
……カーキッドはそう呟いて。
女も、隊も、見向きもしなかった。
――酒を飲むなら、1人。
エッセルトの酒は美味かった。
これほど喉が焼ける酒を飲んだ事がなかったが、カーキッドは満足した。
溺れるほどは飲まない。いつ何時何が起こってもいいように。
すでにここはもう戦場だと思っている。いいや、カーキッドにとって戦場でない場所にいる事は片時もない。
幾らかの時を過ごし、店を出た。
出る間際、店の隅に分隊長がいるのが見えた。彼もまた1人だった。だからと言って、特に挨拶もしなかった。
砂漠の町の夜は、昼間を思えば信じられないほどに冷えた。
気違いのような気温だ。すでに取り巻く世界そのものが、彼らに牙を剥いているようだった。
その中、町の中央まできた時、カーキッドはふと妙な気配を感じた。
傭兵の宿営地は町外れにある。
一瞬無視して宿営に戻ろうと思ったが、結局彼は気配の方へと向かった。
足音は殺す。
気配も殺すが、その眼光はすでに獲物を追う獣のような光を帯び始めていた。
気配だけを頼りに走ると。
やがて人通りから離れた所、開けた場所に出た。
往来は暗い。何が正確にあるとはわからなかったが、倉庫のような建物が林立しているのが見て取れた。
――そこに。
確かに感じた殺気に、カーキッドは剣を抜いた。
口元が引き結ばれる。
殺気のする細い通りへ入った所で。
カーキッドは見た。
人が立っていた。
荒い息づかいが聞こえてくる。
だが音が止まったと同時に、その者はサッとカーキッドを振り返った。
獣の目をしていた。
月にそれは、白く光っていた。
女だった。カーキッドと同じ部隊にいる、あの面倒な女だった。
異変はすぐに見て取れた。着衣が乱れている。
ボロボロの衣は、……襲われた跡。
そしてその足元、幾人かの男が物言わず転がっていた。
何が起こったかすぐに見て取れた。転がっていたのは傭兵だ。同じ分隊にいる者もいれば、他所の分隊の者もいる。
「……」
女は襲われたのだろう。それで斬り捨てた。
カーキッドはため息を吐いた。
ほれみろ、だからだ。女は面倒臭い。
戦場は男の世界だ。そこに女が出てこればどうなるか。
女は男を狂わせる。そういうものを見るのも嫌だった。女に血迷う男は、無様だ。
かといって、男と対等に渡り合えると思っている女はさらに目障りでならない。
所詮、男は男。女は女。
「……」
カーキッドは剣をしまった。だが女は剣を構えたままだった。
じっと、カーキッドを見据えている。
「……黙っておいてやる」
それが、カーキッドが初めて女に言った言葉だった。
女は答えなかった。いつも弾けたように話し続けるこの女が。
だがカーキッドは特に何も感じず。
斬られた男たちを見た。
見事だ。
倒れているのは幾人か。奥にも転がっている。いずれにせよ、すべて一人で制したか。
だとすれば確かにこの女、侮れないかもしれない。
……そう思った時。
じっと動かぬ女の、その異常に気付いた。
震えているのだ。
牙を立て、カーキッドに向かって威嚇の目を向けながらも。
剣が。腕が。……全身を。
「行くぞ」
カーキッドが促したが、やはり女は動かなかった。
「おい」
剣を持つ腕を握る。女は驚いた様子でもがいた。ぶれた切っ先が、僅かにカーキッドを斬った。
「あ」
それにむしろ、女が驚く。カーキッドは面倒臭いと思った。
剣を奪い取り、その顔を間近で覗きこむ。
「しっかりしろ」
「――」
目と目。
荒ぶる、彼女の吐息。
そして零れ落ちる、涙。
「離して」
女はやっと声を出した。涙を見せまいと、カーキッドに背を向けた。
「近寄らないで」
――その時だった。
「さっさと退散すべきだな」
2人同時に振り返る。と、そこに先ほどまで酒場にいた分隊長が立っていた。
「お前……」
「後は別で処理をする。急げ」
俺に命令すんな。カーキッドはそう言ったが。
内心はヒヤリとした物を感じた。
(気づかなかった)
男が背後に立っていた事。気配、何一つとして。
まだ動かぬ女の腕をカーキッドは強引に掴んだ。
すると女は睨むようにしてカーキッドを見上げた。
「上着、貸して」
「あん?」
その目は、先ほどよりは落ち着きを取り戻していた。
「……こんな恰好じゃ歩けない」
確かに、胸元はこぼれそうである。カーキッドが思わず見入ってしまう前に、女はサッと背を向けた。
「貸して」
「あ、おう」
いそいそと脱いだものの、何で俺が、とも思う。
「ありがと」
しかし彼女が上着をひったくる方が早かった。カーキッドが何か言う前に、さっさと着込んでしまった。そうなってしまってはもう、奪い取るわけにもいかない。
歩き出した女と男の後ろを、カーキッドは、少しふてくされたように歩き出した。