『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

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 第36章  戦士の墓場 −5−

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 狂っていくんだ。
 狂わないわけにはいかないんだ。
 そして一度狂ったら。
 ――もう、元には戻れないんだ。


  ◇


 部隊全集合。
 集え、エッセルトの城下へ。
 ……その号令が掛かったのは、転戦に転戦を重ねて。部隊の数は出兵から半分以下になった頃だった。
 意味する所は全員がわかった。
「終わりか」
 ザークレストがポツリと言った。
 城を枕に、最後の戦いを挑む。
 その時分にはもう、戦況は詳しく伝わってこなかった。目の前に与えられた戦場を戦うだけだった。
 そして、目の前にある者を守るだけの戦い。
 共に戦う、同志だけを。
「チサ、お前は抜けろ」
 エッセルトへ向かう隊列から抜け、ザークレストがチサに言った。
 チサはあからさまに嫌悪の表情を見せた。
「何言ってんのあんた」
「その足では、もう無理だ」
 無理に無理を重ねてきた。チサの足は誰から見てもわかるほどに、もう、走れる状態ではなかった。
「ここまで来て抜けろって?」
 チサはカーキッドにも目を向けた。
「冗談でしょ。戦うから」
「ダメだ」
「何であんたにそんな事言われなきゃいけないの? もう隊長じゃないでしょ?」
 いつも淡泊に見える冷静なザークレストが、声を荒げるのをカーキッドは初めて見た。
「抜けろと言ってる!!」
 チサも目を丸くする。
「ここから失せろ」
「……何でそんな事言うのよ」
 チサの目に、涙が浮かぶ。
「ここまで来て、何でよ」
 ザークレストの顔に、苦悶が浮かぶ。
「ずっと一緒に戦ってきた……ここまで来て、どんな顔をして」
 逃げて。その先を。
「どうやって」
 生きていけばいいのか。
 ――狂うまで戦って。
「ザークレスト」
「……」
「カーキッド」
 2人の男は。
 チサの瞳の前に、動けなくなる。
 その目は獣の目だ。
 だがもう、男たちもその目をしている。
 この瞳に映すのは、もう狂い始めた世界だけ。
「ついていくよ」
 逃げ出せないと感じた瞬間から、もう。
 囚われてしまっているのだ、狂気の中に。
「……」
 戦場が魅せる、刹那と幻惑と残酷と甘美な誘惑。
 正義も悪も、真実も嘘もそこには何も存在しない。
 死に向かう。
 そうとわかっていても。
「ついていく」
「……」
「……」
 ザークレストは顔を背けた。
「勝手にしろ」
 チサは笑った。
 その笑顔に、カーキッドは知らず安堵した。
 結局3人、また共に。
 出会った場所に戻るために。
 ……もう、それだけのために。
「足、痛いくせに」
 ポツリとカーキッドが言ったら。
「大丈夫だから」
 チサはそう言って、痛みを見せまいとした。
 それを見たザークレストがその目に心配そうな色を灯したから。
 彼女は笑って。
「手、握って」
 とザークレストに手を差し出した。
「カーキッドも」
「……」
「……3人で、お手て繋いで歩くってか」
「いいじゃない」
「馬鹿か。俺は嫌だ」
「照れてるの? かわいい」
「誰がッ!」
「ほら、ザークも」
 ――戦争を終わらせたい。
 戦いを終わらせたい。
 やけくそ気味に握った手のぬくもり。
 柔らかな感触。
 人の感触。
 ……チサとザークレストと、カーキッド。
 初めて生まれた感覚。
 カーキッドは誓った。
 戦争は終わらせる。
(さっさと)
 どんな形でも、構わないから。



 あと峠を1つ越えた向こうに、エッセルトの城は見えてくる。
 そんな場所。そこは見通しが馬鹿みたいにいいだだっ広い平原。
 そのど真ん中で。
 ……カーキッドたちは、敵軍と遭遇した。



「あとちょっとなのにな」
 最初の頃から随分減った傭兵隊とエッセルトの兵団。
 最初はとても交わらない、水と油のような別種の生き物だと思っていたのに。
 今は違う。もう、2つの存在は互いを認め合って1つとなっている。
「何でこんな場所に、」
 向こう側が、真っ黒に見えるほどの敵陣。
 あちらはエッセルトなのだ。
 なのに、敵が控えている。
 エッセルト本陣と合流させまいとするかのように。
 ――1人、また1人と剣を抜いていく。
「正面突破」
「一人でも多く抜けて」
「エッセルトへ迎え」
「合流せよ」
「国を守れ」
 ――生きるために。
 戦え。
 生きて残って、
 ここを突き抜けろ。
 平原は風すら鳴かず。
 そして天空の雲は、光も遮らぬ。
 すべてが等しく。何をも味方せず。
 追い風も向かい風も。
 ――後は、自分で、掴み取れ。
「突撃――――ッッ!!!!」
 走り出した。
 猛獣のようにカーキッドも走る。
 傍らにチサ。
 少し向こうにザークレスト。
 3人の姿、互いに見失わないように。
 カーキッドは一つの目的のために剣を振った。
 それは、他を圧倒するために非ず。
 生きて残るために。
 強さ、求める。
 ザークレストの剣は鋭い。カーキッドもその剣を認めた。
 そしてチサも、その力が発揮できれば間違いなく強者の域であるのに。
 足が、それを邪魔する。
 やはりその脚力。それが完全に彼女の腕を弱めている。
 カーキッドとザークレスト、2人はチサの援護に向かう。
「散って!!」
 とチサは叫んだが。
 放っておけば、間違いなくチサは殺される。
 女である事も要因、敵兵は容赦なくチサに斬りこんできた。
 敵兵――そう、相手は兵士だ。
 それが西の隣国か、それともレセルハイムか。もうカーキッドにはどうでもよかった。
 敵はどこからでも湧いて出た。わけがわからなくなるほどに、戦場を駆け回ってきた。
 国を頼る人民が牙をむき、そして守るべき人民をも戦局の中で斬ってきた。
 もう……斬りかかってくる者の存在、それが何者であろうとも。
 関係ない。
 ここを突破する。それだけだ。
「ザークッ!!!」
 チサを気遣ったザークレストの脇から、兵士が長槍で突いてきた。
 かろうじてかわしたが、脇腹をえぐられた。好機と見た敵兵がザークレスト目がけてなだれ込んでくる。
「失せろッ!!!!!!」
 カーキッドが立ちふさがる。
 雄叫び。
 カーキッドは吠える。
 その声に全員の手が止まる。
 ザークレストが走る。カーキッドが斬る。チサが突く。
「走れッ!!!」
 ザークレストがチサの腕を取る。
 カーキッドが道を開く。
 黒くなった剣が宙を舞う。
 3人の突破を防げる者は、いない。




「ザークッ!! ザークッ!!!」
 森になだれ込む。周りに気配はない。
「騒ぐな」
 男が呻く。カーキッドがザークレストの上着を無理矢理むしり取る。
「急所は外れてる。しっかりしろ」
 カーキッドの声に、ザークレストは弱弱しく笑みを浮かべた。
「言われずとも」
 チサが、口元を抑えて茫然とザークレストの傍にたたずんでいる。
 カーキッドは自分の服を割いて、手早く止血をする。
 からくも敵陣を抜けた。
 だが、誰も後には続いてこない。
 3人だけ。
 走って走った。カーキッドですら息を整えるまでに時間が必要だった。
「喉、乾いたな」
 ザークレストが言った。
「ああ」
 カーキッドが答えた。
「酒飲みたい」
 チサは何も言わない。
「あの店の酒か」
 ザークレストが笑う。
「まだ、やってるかな」
「やってなくても、酒だけ分捕る」
 きゅっと包帯替わりの布を最後に結んだ衝動に、ザークレストは一瞬眉を寄せたが。
 ハハと、ザークレストとカーキッドが笑うから。
「強盗でしょ、それ」
 チサもそう言った。
「私も喉乾いた」
 立ち上がった。
 男2人は彼女を見上げた。
「水ないか、ちょっと、その辺見てくる」
 背を向けて。顔を見せないようにして。
「1人じゃ危ない」
「すぐ戻るから」
「何だ、小便か」
「……あんたは、レディに対する言葉、真面目に勉強しなさい」
 ――泣き顔を見せないようにして。
「すぐ戻るから」
 一瞬だけ笑って振り返って。
 彼女は森の中に消えた。
 残った男2人は、しばらくチサが消えた方を見ていたが。
「……これからどうする?」
 カーキッドが問う。
 ザークレストは沈黙する。
 そしてその末に。
「チサだけは、何とかして」
 逃したい。
 生かしたい。
 カーキッドは口の端を傾けた。
「簡単じゃねぇぞ」
「……そうだな」
「あの女は頑固だから」
「ああ」
「……」
「……チサには、生きてほしい」
 チラとザークレストを見る。
 ザークレストは、男の顔をしていた。
「……守りたい」
 国なんか、どうでもいいんだ。
 ただ1つの魂だけ。
「チサを、守りたい」
「……」
 カーキッドは虚空を眺めた。
 好きか、チサが。
 そう問おうとして。
 ……愚問と気づいた。
「そうか」
 そう返事をした。
 男たちは理解した。
 そして決意をした。
 もしも互い、どちらかが倒れても。
 自分の命に代えてもいいから。
 ――守りたいと思った。
 それが愛だか友情だか、カーキッドにはわからなかった。
 だがそういう存在に会った事を。
 カーキッドは……少し、苦く微笑んだ。




 ――気配を感じたのは、間もなくの事だった。
 男2人は同時に目を合わせた。
 人の気配がする。チサではない。もっと乱雑に踏み分けるような音と。
 男の叫び声。
 同時に、2人は駆け出した。チサが危ない。
 それほど遠くには行ってないはず。
 2人は別れ走った。
(チサ)
 心の中で名を呼んだ。
 叫びたいほどだった。
 だがその衝動が爆発するよりも先に、彼は声を聞いた。
 女の声だった。
 何かを理解するよりも先に、カーキッドはそちら目がけて走った。
 ――そして、彼がたどり着いた時。
 チサは座り込んでいた。
 木にもたれ。眠っているようにも見えたが。
 その前には幾人もの敵兵が控え。
 赤く染まった剣を握りしめ。
 ――チサは。
 腹に剣を突き立てられていて。
「――」
 カーキッドの中で何かが膨れ上がる。
 炎だ。
 いいや……それは血の塊に似ていた。
 燃え上がるように吹き上がり。
 彼自身を、その炎で焼き尽くさんとするかのように。
 ――もう抜いていた、黒い剣。
 問答無用で斬りかかった。
 何も考えられなかった。目の前の者をすべて殺す事以外には。
 斬って、斬って。
 動かなくなり、倒れるまで。
「チサ」
 全部倒して。
 カーキッドは膝をつく。頬に手を当てる。名前を何度も呼ぶ。
 すると少し瞼が動いた。だが目が開くまでには至らない。口元だけがうっすらと笑みを作っていた。
「カーキッド」
「チサ、しっかりしろ」
 傷の手当するから、そう言って。
 カーキッドは気づく。無理だと。
 これは、致命傷だと。
「……気をしっかり持て。いいな。大丈夫だ」
 チサは笑った。
「ドジった、よ」
「……ああ」
 すまん。カーキッドは首を横に振る。
「ザークレストももうすぐ来るから」
 チサは目を閉じている。それなのにカーキッドの、
「……男の子でしょ?」
 涙が、見えるわけ、ないのに。
「泣いてねぇ」
「そう、か」
「てめぇには、色々借りがある」
「そう?」
「ああ」
「ハハ……」
 片目だけ、開いた。
 色素の薄い、青いような目だった。
「もうちょっと、なのにな」
 ザークレスト、早く来い。どこで何してる。
 チサはここにいるぞ、チサがここにいるぞ。
 お前が守りたいと言ったその女が。ここで。
「……もうちょっとで、エッセルトなのに」
「そうだ。戻るぞ」
「うん……一緒に、」
「うん?」
「カーキッドと、ザーク……一緒に、帰りたい」
「おう」
「……楽しかったな」
「……」
「あんたら、会えて、良かった」
「うるせぇよ」
「……だから、あんたは、女の扱い、雑だって」
「お前が男の世界にいるからだ」
「……へぇへぇ。悪ぅござんした」
 チサの、つむった目から涙がこぼれた。
「カーキッド、頼むわ」
 チサは言った。
「おねがい」
 ――戦って戦って、狂うまで戦い続ける。
 ――そしてその先に、もうどうしようもない状態になってしまった時は、
「……ザークレストが来るから」
「……」
 チサの目から涙が流れた。
「……辛い」
 笑顔を取り繕う、その表情の下から。苦しみが今にも溢れて出てきそうだった。
 眉間のしわが深く入った。
「貸し借り、なしだよ」
 約束したじゃん、と。
 彼女は呟き。
 カーキッドは握った剣を、初めて、その剣を恐れるようにして落とした。
「できねぇよ、」
 例え痛みが増すとわかっていても。
 楽にしてくれと言われても。
 できるわけがない。
 チサを貫く、そんな事。
 チサの目が開く。
 カーキッドの表情を見て、彼女は苦悶の中に苦笑をして。
 ――その向こう側から、人影が。
 カーキッドの頭上目がけて剣を振りかぶるその剣を。
 見て。
 神様は。
 彼女に最後の力を。
「――」
 カーキッドを突き飛ばすだけの力。
 転がったカーキッドは訳も分からず。
 ただ、両手を開き、狂剣を受ける彼女の姿を。
 カーキッドをかばって。
 守って。
 ――守りたかった存在が。
 最後に、
「……馬鹿」
 悪態吐いて。
 崩れて行くのを。



 死は誰にでも訪れる。
 戦場では当たり前の事。
 この腕はどれだけの人間を斬り、葬ってきたのか。
 その中で、たくさんの事を割り切り、生きてきたのに。
 ……チサの命が消えて行く。
 人の命が終わっていくという事。
 腕の中に抱きしめて、何度も名を呼んで。
 どれほど叫んでも。
 ――彼女の最期の顔は、苦悶ではなく笑顔だった。
 そして、ザークレストが現れた。
 ザークレストは辺りの状況とカーキッドと。
 チサの背中の傷を見て。
 すべて悟って。
「どうして……」
 叫んで。
 泣いて。
 カーキッドを殴って。
 胸倉を掴まれても。
 わかっているのはただ一つ。
 もう、戻れない事。




 ……夜になった。
 気づいた時にはもう、ザークレストはいなかった。
 見上げても星は見えなかった。
 ――あと少しだよ。
 チサの声が聞こえた気がした。
 エッセルトに帰りたいと言っていた、チサの言葉が。
 ……風の中に聞こえた気がした。

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