『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第36章 戦士の墓場 −7−
海の向こうには、戦士の墓場と呼ばれる場所がある。
どこで聞いたんだか覚えていない。
だが気づけばもう知っていた。
そして、カーキッドが尊敬した戦士も言っていた。
最後はそこへ向かうんだと。
戦場で共にした、数々の仲間。
別れ際に言われた事もあった。
墓場で待ってる。
……遠い異国の、戦士の墓場で。
◇
海を渡った。大陸を出たのは初めてだった。
海路、そして陸路、そしてまた船を頼り。
その町にたどり着いた。
――エンドリア。
賑やかな港町だった。
町の中でカーキッドの容姿は異質だった。黒髪の者はそうそういない。
それでも気にならなかった。
そして華やかな町も、カーキッドの目には虚ろに素通りをした。
目指す最後の場所へは翌日。最後にもう一度船に乗る。
――ゴルディア。
旅の中、その地名を知った。通り名でしか知らなかったから。
どこにあるのか、どうやって行くのか。
……実在する場所なのだと知る過程。少し不思議な気持ちだった。
ゴルディアの直近の町は兵士が集う場所。北への監視を兼ねていた。
どこの国もそれぞれ、問題を抱えている。
だがそこも、これまでカーキッドが見てきた戦場と比べれば平和そのものだった。
酒を飲む兵士たちの姿を見ながら思った。こいつらは、本当の戦場を見た事があるのだろうかと。
……しかしそれが否であろうとも、どうでもよかった。自分の知るところではない。
「ゴルディアまでの道を知りたい」
宿で親父に尋ねた。
「ゴルディア?」
オウム返しに答える気力は、もうカーキッドにはなかった。
「あんな所、行っても何もないぞ」
「……道を教えろ」
「教えろと言われてもなぁ……」
親父は困った様子で頬を掻いたが、カーキッドの様子にため息を吐いた。
そのまま奥へ行き、一枚の地図を持ってくる。
片手で放るように渡されたそれは、確かに、その町からゴルディアまでの地図だった。
少し衝撃を受けたが、カーキッドはそれを借り書き写させてもらおうとした。
それを伝えると親父はじっと彼を見た。
「……」
カーキッドは一瞬目をそらしたが、その視線を受けた。
「貸してやる。戻ったら返せ」
「――」
カーキッドは返答に困った。
「写して返す」
「いいや、いい。持って行け」
「返せる保障がない」
「返せ。いいな」
「……」
すべてが。
半ば、カーキッドをすり抜けて。
暗い瞳に、映らなかった。
受け取ったが、約束を守る気にはなれなかった。
ゴルディアまでの道。
地図を握りしめて何度も何度も眺めて。
まるで這うようにして歩いた。
昼も夜も関係なかった。行けるならばどこまでも。もうそれしか目的はなかった。
――そして数日後、たどり着いた。
そこは巨大な渓谷だった。
岩肌だけがある。草1つ生えていない場所。足場の悪い中を歩いて行くと、やがて、深い深い崖にたどり着いた。
ここがゴルディアか。
見下ろすが、下は見えない。真っ暗な闇だった。
ここに剣を捨てる。戦士である事をやめるならば、そうすればいい。
そしてこの生涯を終えるならば。その身を捧げる。
ここに、戦いを終えた戦士が眠っているのだ。
戦う事は生きる事だ。戦士にはそれ以外はない。戦えなくなればそれまで。
剣を持つ事しか知らない。
そんな者が……戦いをやめる事。そして戦う意味がわからなくなったならば。
深い闇の中に戻るしかないのだ。
――カーキッドには、わからなくなってしまったのだ。
強さを求めて戦ってきた。自分のためだけに戦ってきた。
なのに。
あの戦場。エッセルトで彼は出会ってしまった。
友と呼べる存在、仲間と呼べる存在。
そして思ってしまったのだ。自分以外の者のために戦う事。
誰かのために剣を振るう。それを。
知ったのに。
見出したのに。
……結局、わからなくなった。
チサはなぜ死んだ? 俺が守れなかった――。
ザークレストはどこへ行った? 彼は、チサを守りたいと言っていた――。
戦うとは何か。強くなるとは何なのか。
自分にその資格があるのか――否。
エッセルトの城下、最後の戦いで。戦場でたった一人たたずんでしまった瞬間に。
彼は、天命を見た気がしたのだ。
1人で戦えと。
たった1人で戦っていろと。
迫りくる、たくさんの敵。常に常に何らかの障害はお前の身に降りかかるだろう。
それらすべてと。
……お前は1人だと。
巻き込むなと。
誰とも交わるなと。
「……」
まじない師は言った。彼は、愛する者を守って死ぬと。
だが思った。
そんな自信ないと。
彼は、自分の本当の気持ちに気づいたのだ。
誰かを愛する、その自信がないと。
誇れるだけの。
守って死ねる……そんな事、できないと。
だからもう、終わりにしたいと思った。
戦う事しか知らない。そして、多くの命を殺めた。
自分にまっとうな人生はない。行ける場所があるとしたら、それはここしかない。
剣を捨てようと思った。
エッセルトで黒く染まった剣。だが別にそれは特殊な剣ではない。刃もこぼれる。いつかは折れる。
それを捨てて。
自らも。
「……」
それが懺悔となるならば。
(チサ)
守れなくてすまん。
(ザーク)
守れなくてすまん。
2人の顔を思って。彼は。
「……」
雨がポツリと落ちた。
そんな空にも気づいていなかった。
雨は次第に足を速めて、カーキッドに打ち付けた。
その音を、じっと彼は聞いていた。
ザァ……耳にはその音だけがこだまする。
世界にはそれだけが存在し。
崖の中へも、雨は、無数に落ちて行く。
消えて行く。
カーキッドは黒の剣の鞘をはずし。
両手で握りしめたけれども。
……けれども。
捨てよう、そう思った瞬間に。雨の中に声が聞こえた。
カーキッド、と。
チサの声だった。幻覚なのはわかっていた。でも。
脳裏に笑顔が浮かんだ。
出会った時の顔。
獣の目をして戦場を走り。
男の中でも物おじをせず笑う。
子供を斬ったと泣いて。
痛くても気丈に笑って。
……そして、握りしめたその手のぬくもりが。
「……う……」
浮かんで。
膝から崩れて。
――男の子でしょ?
「……るっせぇ」
雨が、彼の背中を打っていた。
でもそれは、優しい雨だった。
カーキッドの体を濡らしていったけれども。
なぜか彼は、温もりを感じた。
彼の涙も、それは流してくれた。
男の涙を、誰にも見せぬようにと。
……一緒になって、泣いてくれているようだった。
◇
後悔があった。
掴めなかった未来があった。
守りたかったものは守れなかった。
でも。
カーキッドは決意した。
まだ、剣を捨てないと。
戦う事、強くなる事。
ここで彼が手放してしまったら。
戦士でもない。
魂、そして誇り。
……彼は、崖を前にして呟いた。
すまん、と。
行こうと思ったけれども。
もう少し、戦うと。
チサがいたら苦笑するだろうと思った。
いいんじゃないの? と言って。
笑って、胸を小突いてくれる。
◇
「……ゴルディアを出て、それから少しハーランドを旅した。その間に、王都で傭兵を募集してると聞いて……気まぐれに入った。ハーランドは平和な国だ、傭兵隊なんぞ入っても、ぬるいだけだとわかっていたんだがな」
それでも、カーキッドはその平和にすがっていたのかもしれない。戦場を渡ってきた人生に、少し疲れてしまっていた。
ハーランドは不思議な国だった。今まで見たどんな所とも違っていた。
女神の加護など信じたくはなかったが、生きやすいと、感じた。
「それからはまぁ……知っての通りだ。案の定傭兵隊はぬるくて。いよいよやはり国を出て戦場に戻ろうかと思っていた矢先にあの試合が開催された。勝てば王様だと。とんでもない国だ。この俺が王になったら、世界がひっくり返るだろうさ。面白くてな……参加してみたら」
そう言ってカーキッドはオヴェリアを見た。
「こいつがいたんだ」
オヴェリアも彼を見た。
カーキッドの目は、光っていた。
話す前に見たあの暗い絶望の目ではなかった。
「こいつ、姫様のくせに馬鹿みたいに強い。この俺がだぞ、エッセルトで鬼神と呼ばれたこの俺が負けたんだ。おかしいだろ」
オヴェリアは思わず顔を赤らめた。
「そ、それは……偶然です。あなたは体を痛めていたから」
「変な国だ。国で1番強いのは姫様で? 竜を倒しに行くとか言いやがる」
そう言いながらも、カーキッドは笑っている。楽しそうに話している。
「ぬるいぬるいと思っていたら、突然根無し草のような生活だ。刺客に襲われるわ、次から次へと戦いに巻き込まれて」
死線をくぐって。
苦境を分かち合って。
「おかしな神父と、ガキまでついてくる。国のいざこざに巻き込まれて。この面子で竜を倒そうってんだ」
変な話。そしてこれはまるで戦場を走っていた頃のような。
いいや、その頃よりもこの日々は楽しくて。
あの頃、チサとザークレストと過ごしていたあの日々よりも。
こんな状況なのに、輝いて見える。
大事な物を失ったと思ってた。もう自分には手に入らないと思っていた。それなのに。
今、カーキッドの前には、知らずと築いた仲間がいる。
カーキッドはその1人1人を見つめ、やがて決意した。
「本当にやるってんだな」
その問いに、デュランが苦笑した。
「今更何を言うか」
「そうです」
マルコも胸を張る。
「あと少しです」
「そうか、お前はやはり竜と戦っていたか……」
「オヴェリア」
ずっと彼を見ているその少女を。
カーキッドはじっと見つめた。
「黙っていてすまん」
「……」
彼女は一瞬眉を寄せ。だが次に微笑んだ。
「いいえ」
首を振る。
「いいえ」
もう一度そう言って。彼女は、
「行きましょう」
カーキッドが見る。
デュランも見る。
マルコも見る。
その視線を受けて。
「竜を倒します」
――もう一度その場所へ。
絶望ではなく、希望のために。
頷く。
「そして、誰も絶対に死にません」
強く。
「必ず生きて戻ります」
よいですか、と言う。
「おう」
「ええ」
「はい」
「――カーキッド、」
最後に一つ、オヴェリアはカーキッドに向かった。
「私は死にません」
「――」
「私は死にません。絶対に」
死なないから。
「……ああ」
だから。
2人、笑う。
他の2人も笑って。
互いの存在を確認する。
カーキッドは泣きたい気持ちを必死に抑えた。
(俺は男だから)
そうだよ、と誰かが言った。
(今度は絶対に守る)
大事な物、全部。
この剣はそのために振るう。
それでいいか? と伝える。
もちろん、誰も否定はしない。
――墓場へ、いざ行かん。