『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第42章 帰還 −1−
――あの日見たのは、紛れもなく、1つの始まりであり終わりであった。
4年に1度開催される薔薇の試合。その頂点を決める戦いで。
あの方はその剣を、娘へと託した。
面甲砕け散り、兜を取ったその下から現れたその姿、その場にいたすべての者が息を?んだであろう。
だが、その場で起こったであろう動揺も、上がったであろう騒ぎも。何も覚えておらぬ。
「剣は捨てろと、あれほど命じたのに」
ただ、耳に残ってる。我が主君の声。
そして仄かにその顔は笑っていた。
王は自らの力で剣を掴み立ち上がると、宙に向かって放り投げた。
――王は剣を天に還し。
――天はそれを、再び地に落とした。
選ばれた者にしか握れぬ剣を。彼女が握りしめた時。
私は……。……心の内で、一人の女性の名を呟いた。
「リルカ……」
我が王も、思い描くは同じ姿か。
少女は剣を手にした。
そして……旅立って行った。
「風が出てまいりましたな」
側近サイラスの声は、地鳴りに似ている。その声にグレンの意識は我に戻った。
「そうだな」
良い風ではない。
まだ空には青が残っているが、北の彼方より黒い雲が広がり始めている。
そして海が、吹き始めた風により俄かに波をざわつかせている。
これは直に時化 る。そしてこの時化は、いい嵐とはならない。
この安穏たる空、天候が変わるのはあっという間の事であろう。
「殿、中へ」
サイラスが言うが、グレンは首を横に振った。
「良い。ここで待つ」
――ハーランド国・武大臣 グレン・スコール。
この国の軍事を掌握するその男が、今一心に見つめるのは海。
今この瞬間、グレンが王都におらぬ事は少なからずの混乱を生んでいる。それはグレン自身もわかっていた。だが城には大臣筆頭であるコーリウス・ロンバルトもいる。
そして何をおいても今は、ここに出向きたかった。ここで船の到着を待っていたかった。無理を言い、後をコーリウスに託した。
ハーランドの王都から馬を走らせ一刻、湾沿いにこの小さな船着き場はある。
しかし港と言っても、表立っては使われていない。普段は固く閉ざされ入る事も許されぬここに、船が停泊する事は稀である。
非常時のために設けられた船着き場。
常時は見張りがいてもせいぜい1人か2人。左遷とも言われる役職だ。
だが今は違う。内外に兵士が警戒の色を強めて立っている。
これでは敵に居場所を知らせているような物だ。……そう思いながら、逆にグレンは眼光を強くした。
(否、それでいい)
それでこそ、むしろいい。
――来るなら来い。
私は今ここにいる。
襲い来るなら未だ。――来い。
……まだ雲は追いつかぬのに、ポツリと鼻先に雨粒が落ちた。
「殿」
言われたが、グレンは水平線を睨み続けていた。
――姫を待つ。ここで。ずっと。
オヴェリアを迎える。ここで。我が主君に代わり。
何者が襲いかかってこようとも、必ず絶つ。
グレンは海を見ている。だがその目は別の者を探している。
サイラスはその気配を察している。ゆえに、彼もまた海を見る。
(ウィル様)
瞬きさえも、グレンは忘れて。
海に、船の姿を探し続けた。
哀しみは、やがて呼び色を変えて、
いつか見た、本当の彼方へと消えて行く。
瞠目 は、やがてその愚かさの名の元に、
すべてを虚実と、悔恨へと導くのだろう。
だがゆえに、
終わりなき世界はない。
――すべては始まり、誰かが最後は、終点を打つ。
41
「オヴェリア」
呼んでも返事がなかった。
しばらくカーキッドは部屋の前に立っていたが。
やがて長く息を吐き、甲板へ出る。
吹きさらしの空、雲が、長く綿を引いているかのようだった。
太陽が眩しすぎる。
目をそらし、懐から煙草を取り出す。
もうこれが、最後の1本である。
これを最後に絶とうかと思いながら、いつも、何だかんだで次を買ってしまう。
だが、本当は煙草などどうでもいいのだ。なくても多分困らないと思っている。
……火を点けずに咥える。うまくも不味くも何ともない。
手すりにもたれ、カーキッドは、煙草を始めたのはいつだったかなと思い返す。
多分傭兵仲間に教わったんだ。……最初はあんな物吸う奴の気が知れないと思ったが。
いつしか体になじんで行った。
そして今では、最初は思い出せない。
(ただ)
思い出せる事もある。今吸っているこの煙草。初めて吸ったのは遠い異国の戦場。
――友にもらった。
「ここにいたか」
不意に声をかけられ、カーキッドは視線を流した。
「オヴェリア様は?」
昨今、この男の第一声はこればかりだ。
それが鬱陶しいと感じながら、自分もそうなのかもしれんとも思う。
カーキッドは視線だけで返事をした。そして男は瞳に影を落とし「そうか」と答えた。
「……無理ないか……」
カーキッドは空へと目を戻す。
船旅はどれだけ続くのだろう?
少し思ってしまう。このままずっとでもいいなと。
進めば進むほどに、現実は彼女に事実を突き付けて行くだろう。
穏やかな海を永遠に渡っていけたら。
「……そりゃ死んでるのと同じか」
「何?」
「いや、独り言だ」
――そう言って、カーキッドは最後の煙草に火を点けた。
◇
ゴルディアから戻り、エンドリアに戻ったオヴェリアたちは、翌朝に再び船上の人となった。
エンドリアを旅立つその別れは、曖昧なものとなった。流れ揉まれるようにして、船に飛び乗ったゆえに。
そのまま目指す先は1つ。
……ハーランド王都。
船で大陸の東側を渡る。エンドリアからハーランドへ向かう最も効率のいい手段である。
ただしこの渡航は公には禁止されている。ハーランド周辺に港と呼べる物は西側の町しかなく、東側には小さな船着き場しかない。それも、許可がなければ使えないような場所である。
ましてハーランドからの出航はさらに厳戒。実際には手段がないと言ってもいい。
ゆえに、オヴェリアのゴルディアへの旅は徒歩となった。
昼夜問わず馬を走らせば船より早く着く。
それでも、帰路には船が選ばれた、これは今エンドリアの中心にいるジラルドの判断である。
姫に安息を。それが理由だった。
……ゴルディアからエンドリアに帰還した際に使われた船よりも上質な物であった。オヴェリアには個室が用意された。そして入って2日、彼女は部屋から一歩も姿を現さなかった。
カーキッドはもちろん、デュランとマルコも、部屋に入る事を控えた。
「姫様……お食事です」
マルコやデュランが食事を運ぶ。部屋の外から声をかけるが、返事はなかった。
「おい、オヴェリア」
それは、カーキッドが声をかけても同じ事だった。
「……今はそっとしておいて差し上げるしか……」
デュランに言われずとも、カーキッドも、部屋の扉を開かなかった。
心配でならないのは、他の誰もが同じ。
だがその痛みを……完全に共有する事はできないのだ。
――ヴァロック・ウィル・ハーランドの死。
そしてそれを成した男は、義理の弟。アイザック・レン・カーネル。
その男はカーキッドも見ている。フォルストの城。その剣は、カーキッドですら押された。
――我が目的は1つ。この国を滅ぼす事。
「あの男か……」
デュランもアイザックを目の当たりにしている。
「ギル・ティモ……」
アイザックが動いたならば、背後にはギル・ティモがいる。
いいや、もっと深く。
「バジリスタか」
バジリスタ王子が言っていた事、アイザック・レン・カーネルはバジリスタに亡命したと。
ギル・ティモがバジリスタと繋がっているのならば、答えは明白。
アイザックは、バジリスタと組んだ。
そして、王を討った。
それがバジリスタの意志か、アイザック自身の意志かはわからない。だが。
……動き出したのだ。巨大な物が。
本当に立ち向かわなければならない事が。
「……オヴェリア様……」
デュランは深く息を吐く。
オヴェリアは部屋の扉を堅く閉ざしている。否、心を。
「……」
誰にも、どうしたらいいのかわからない。
だが誰もがわかっている。それはオヴェリア自身が一番に。
――止まれぬと。
急速に、決断は迫られていくのだと。
甲板が、にわかに慌ただしくなっていく。
煙草を吹かしていたカーキッドも顔を上げる。
「嫌な風だ」
そしてすでに、船員がそれを察知している。船長からの鋭い支持が飛んでいる。
今船上に兵士は最低限しかいない。ジラルドは騎士団長ゼム・グリッド含め多くの兵士に共をさせようとしたが、デュランが断った。それではエンドリアが手薄になる。
「今肝要なのは、エンドリアの早い復興です」
今エンドリアが再び襲われれば、もうひとたまりもない。そして、領主を失った現状を一刻も早く立て直しをしなければならない。
まだこれで終わらない。エンドリア戦はただの前哨戦となる。
王が倒れた今、いつどこで何が起こってもおかしくはないのだ。
「姫は我らが守り通します」
必ず。
そう誓い、エンドリアを後にしたのだ。
「波が高くなってきたな」
デュランが険しい顔をした。
「船酔いはいいのか?」
カーキッドが茶化すと、デュランは苦々しく笑みを浮かべた。
「知らぬわ」
体調は万全ではない。だが、その様子を見せはしなかった。
「そうかい」
カーキッドもその意図を汲んで流した。
ふと船の船尾の方にマルコがいるのに気付いた。
「何をしている?」
デュランが問うと、マルコは顔を上げた。跪 くその手元に、白墨で紋様が描かれている。
「少し、波に干渉できないかと」
「できるのか? そんな事が?」
「さぁ」
マルコは水を得手としている。相性はいい。だが波となるとそうはいかないだろう。相手は世界の揺らぎそのものなのだ。
魔術を使うデュランにはそれがわかった。だが何も言わず、マルコがするに任せた。
「波が高くなって、姫様が船酔いなさらないように」
「……」
カーキッドは目を閉じた。そして少しその手を握りしめた。
――抱き占めて和らぐならば、いくらでも掻き抱いて。
だが、違う。
そうじゃないのだ。それでは無理なのだ。
……もどかしいと思った。
そして同時に。
何も出来ぬ自身に、怒りに似た感情を浮かべた。
――船が大きく傾いたのは、その瞬間だった。
「――!?」
突然のその動きに、マルコがひっくり返った。そのまま甲板の淵まで放り出され、積んであった樽に打ち付けられた。
カーキッドはかろうじてその場に膝をついたのみだったが、デュランもたまらず倒れ込んだ。
「一体、」
気づけば空が、暗くなりかけている。先ほどまで、あれほど明るかったのに。
――天候の変化は、一瞬である。
雨より先に、風が吹いた。にわかに波が高くなる。
だがそれにしてもその変化はあまりにも急変。
「何か」
おかしい、デュランがそう呟きかけ。
カーキッドが再び海の方に目を向けた時。
「――」
彼は絶句した。その方向には痛そうに背中をさするマルコがいる。
しかし問題はその後ろだ。
「あ」
見た、デュランも固まる。
巨大な波だった。空へ続く壁のごとき巨大な波が、
「全員何かに、」
最初に言ったのはカーキッドだった。掴まれと、そういう前に。
それは天を覆った。
太陽が透けて見えた気がした。
幻覚だったと思えるほど、間髪入れず次の瞬間。
「マルコッ!!!」
波が、デュランの叫びを掻きさらっていく。