『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

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 第42章  帰還 −2−

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 何か、掴まらなければ。
 顔を上げねば、息をしなければ、もがかなければ。
 だが何かをするより先に。
 脳裏にその顔が浮かんだ。
(オヴェリア)
 カーキッドの口元から、息が、水にこぼれ出る。
 物を掴む。水圧に負けてたまるかと、絶対的な力でそれを握りしめる。
 流れゆく。急速に波が、水が、海が。
 目の端に人影を捕らえ、カーキッドは手を伸ばした。
 切れ切れに水面と水上を顔が行き来する。それがかえって、口と鼻を混乱させて息を取られる。
「デュランッ」
 掴んでいたのは神父の腕。彼ももがく魚のように必死に水面に顔をのぞかせていた。
「マルコをッ」
 デュランはマルコを掴んでいる。
 水が引かない。船はどうなってる? 今いるのは一体どこか。
 彼らには今、雨が打ち付けていた。だがそれすら気づかぬ、波にもまれている。
 何が起こった、何が起こっている?
「ラウナ、サンクトゥス、ラウナ、サンクトゥス……」
 デュランが口の端に詠唱を始めた。
 オヴェリアを助けに行かなければならない。なのに、足は水の中で空回りする。
 にわかに足元に水流を感じた。
「頼むぞ、カーキッド」
 デュランが呟いたと同時に。
 足の下から巨大な竜巻が上がった。
「マルコ」
 体が浮き上がる、そしてもう一段。
「立て、水の翔ッ」
 デュランが起こした水流に呼応するように、水そのものも天に向かって吹き上がった。
「う、わっ」
 3人の体が空に向かって引っ張り上げられる。水中の苦しさとは別の、風圧によって口も鼻も閉ざされてしまうが。
 その中でカーキッドは目を見開く。舞い上がった空、そこから真下に視線を落とし、今来た場所を見下ろす。
 眼下に海。
 そこは黒き、暗黒を思わせる一面。
 だが問題は色ではない。
 船が水に覆われている――覆いかぶされている。
 波のようではある。だが。
 波ではない、流れていないのだ。
 巨大な水の塊。それが脈打ち、上から甲板に覆いかぶさり。
 側方から、幾重に手を伸ばすようにして、逃げ惑う人々を捕まえにかかっている。
 波ではない異形。
 ――カーキッドはもう剣に手をかけている。
 上空からは雨粒が、早く落ちろと言わんばかりに3人に叩きつける。
 それに向かってカーキッドは、むしろ笑って返事をした。
 落ちてやるさ、望みとあらばどこまでも、と。
「カーキッドッ」
 デュランも事態を悟る。男に一つ頷いて、瞬きせぬまま高速の詠唱を。
「マルコ、頼むぞ」
「え? えっ!?」
 言われたマルコは目を丸くしたが。
「りょ、了解」
 ――任せた。
 半身をひねって。
「ミリタリア、」
 剣を振りかぶり、剣先を背中にぐっと引きつけて。
 ――祈る神などおらぬけれども。
 目を閉じ。
「エリトモラディーヌッ!!!!」
 デュランが解き放った炎に向かって、カーキッドも飛び込んだ。
 水と風の柱から飛び出して、下に控える船を覆う物目がけて。
 ゴォォとデュランの炎が船を覆う物の表面に赤く広がる。
 次の瞬間カーキッドの剣がそれ目がけて黒の剣を振りおろした。
 剣は風を巻き起こし、真一文字に波を両断する。
 波の悲鳴など、誰も聞いた事がない。
 次の瞬間響いたのは、それだったのだろうか? それは例えるならば絶望その物のような音だった。決して人の世で、聞く事はできぬ音。
 その音にカーキッドは狼狽せぬ。次の一閃を、横から薙ぐ。ここで手は止められぬ。
 この正体が掴めぬ。
 どちらにしても、常の世の物ではない。
 魔道か、あるいは魔そのものか。
 ――ここまでに見てきた様々な異形が。
 カーキッドは剣を立てる。その目は自らで、瞬きを封じ込んで。
 斬る。
 斬る。
 人の世で言う、手ごたえ。これまでの戦歴、経験は頭の範疇はんちゅうから殴り捨てる。
「エリトモラディーヌ!!!」
 そこにデュランの第二射が飛ぶ。
 その声を聞き、カーキッドは勘だけで剣を振りかぶる。
 その場所は、デュランが放った炎の直線上。
 衝動に、下半身を強くする。
 ――来た。
 黒の剣にデュランの炎が乗り。
 剣に炎を乗せてそのままの勢いで。
 渾身の一閃を。
 たった今、目の前に上から覆いかぶさろうとしていたその波の化け物目がけて。
 十字を描くように、一つ、二つと。
 斬撃。
「水よッ!!!」
 化け物とは違う優しい水が、空から落ちたデュランとマルコを抱きかかえる。
「ラウナサンクトゥス、ラウナサンクトゥス」
 カーキッドが視線をマルコに投げかける。
 マルコは一瞬ビクリとしたが、すぐにその視線の意味に気づく。走り出す。
 カーキッドはニヤリと笑う。
「波を斬るなんざ、」
 なぁ? と誰にともなく呟く。
「まるで、世界を相手にしてるみたいじゃねぇか?」
「カーキッドさんッ!! 狙いはッ!!??」
 マルコの叫びに答えたのはデュラン。
「炎で道を作る。放てッ!!!」
「了解ですッ!!!」
 描く陣は乱雑な走り書き、本当に発動するのかは賭けだ。
 でもマルコは賭けた。そしてその場にいた全員が。
「氷の女王、」
「ディア・サンクトゥス!!」
「凍えよ息吹」
 ――風が巻き起こる。
 その風に乗って、マルコが起こした呪文が宙を走る。
 その向かう先、波の中。
 一点、輝きうねる場所がある。
 カーキッドの目では、その点はただの水の揺らぎにしか見えなかったが。
 デュランは魔道を感じる。
 走った術が2つ。
 風に乗ったマルコの術により。
 水が一瞬、凍りつく。
 その瞬間を狙っていた。
 カーキッドはもう走っている。跳んでいる。焦点を合わせている。
 黒い剣が天から降りおろされる瞬間。
 太陽が、一瞬姿を現して。
 雨を押し退け、光を差し向ける。
 ――斬。
 一刀両断、氷が砕けて。
 波のうねりも飛び散れば。
 世界は一瞬沈黙にのみ包まれる、恐ろしく静かな瞬間。
 ――ただそれは、後に覚えられるほどの長き時間ではない。
 忘れ去られる、
 ――波が流れて行く。
 ここにはとどまらぬ。
 ――まるで生命を失ったかのように。
 命を失えばただ。
 すべては世界に、還っていくのみ。




 ……船を覆っていた波は溶けるようにして海に流れて行った。
 後には雨が残った。だがそこに異形がない波は、ひどく静かなものに思えた。
 雨はしばらく降り続いた。
 船員の半数は、異形の波に流された。
 打ち付ける雨は、残った者に、息をするなとは言わなかった。
 そして。混乱が明けてすぐにカーキッドたちはオヴェリアを探しに走った。
 船内にも水は流れていた。だが、中の方が被害はむしろ少なかった。
「オヴェリアッ!!!」
 船内を走る。混乱は部屋にいてもわかったはずだ。船は大きく傾いた、揺れだってあった。
 わからぬはずがないのだ。
 だから、きっと部屋から抜け出してどこかにいると思って。
「姫様ッ!!」
 甲板にはいなかった。ならば、船内のどこかにいると思って。信じて。
 3人は走ったが。
「姫様――」
 いない。オヴェリアがいない。どこにもいない。
「まさか」
 部屋に。
 ――カーキッドが方向を変える。オヴェリアの部屋へと向かう。
「オヴェリアッ!!!!」
 返答待たず、扉を蹴り開ける。
 と。
「――」
 3人は、そのままそこで立ち尽くした。
 ……オヴェリアはいた。部屋の隅に。
 座っていた。
 顔を膝に埋めて。
 白薔薇の剣を……腕の中に抱きしめたまま。
 そこにたった一人で。
 身を丸めたままの状態で。
 あの混乱の中彼女は、立ち上がる事もせずに。
 闇に顔を埋めたまま………………。


  ◇


「姫様――」
 陸には、たくさんの兵士が待っていた。
 降り立ったすべての者に疲労の色が濃く出ていた。船員はもちろん、カーキッドたちのその顔にも。
 否、それは船旅のみのせいではない。
「姫様」
 待ち構える兵士の筆頭に、精悍な顔つきの男が立っていた。武大臣グレン・スコール。ハーランド王の側近・朋友にして、随一の剣豪と謳われた男。
 そしてグレンはすぐに、オヴェリアの異変に気付いた。
「グレン……」
 その姿を見止めたオヴェリアの顔が、哀れなほど歪む。
 その目に、生気はなかった。
「長旅、お疲れ様でございます」
 グレンは膝を着き、頭を垂れた。その姿にオヴェリアは満足できなかった。
 だが、何かを言うより先に、彼女自身の膝も折れる。たどり着いたばかりの陸に、その体は斜めに崩れた。
「オヴェリア様ッ!!!」
 間髪、グレンがそれを抱き止めるが。
「馬車をッ!! 急ぎ出立の支度をッ!!!」
 グレンは、オヴェリアと共に現れた男たちに目を移した。
 カーキッド、デュラン、マルコ。その目も揺れていた。
「……主らも、まずは城へ」
 長旅、ご苦労。
 ねぎらいの言葉は、波の音が奪い去って行った。







 ――剣を握りしめ、うずくまるオヴェリアは。
 震えていた。
 これ以上なく、愕然と。
 この娘のそんな姿を、見た事がなかった。
 カーキッドは思った。
 酷だ。
 無力だと。
 世の中には、斬れる物と斬れない物がある。
 波をも斬ったその腕が。
 今は、拳を握る力さえ見失ってしまっている。

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