『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第42章 帰還 −6−
何が願いで、何が正しくて。
何を絶対とするか。
貫きたい思いは、いつも正義とは限らない。
――それでも。
迷いながらでも、模索しながらでも。
人は、己の正義を信じたい。
そうしなければ生きていけぬ。
例えそれが、いつか神に罵られる形となろうとも。
選択が誤り、やがてすべてに否定される形になろうとも。
正義と信じた道が、滅びの運命へ辿ろうとも。
――それでも。
いつもどこかで信じている。
誰かが笑う未来がある事を――。
◇
「姫様……お体に障りますよ」
もう見ていられない。
フェリーナは、そっと姫の背にガウンをかける。
「戻りましょう、部屋へ……」
「……」
もう少し、もう少しだけ……言葉にならぬほどの小さな叫びが、彼女の桃色の唇から漏れ出る。
愛しい姫君。愛する姫君。
フェリーナにとって、世界で一番大事な人。
その人が、今、闇の中にいる。
それはどれほどの闇か。
「姫様」
フェリーナが手をどれほど強く伸ばしても届かない。
(誰か、この方を救い出して)
棺を前にして崩れ落ちている姫を、背中から抱きしめる。
冷たい。完全に冷え切ってしまっている。
(このままでは、姫様も)
王様、どうか連れて行かないで。
誰か救い出して。
(アイザック・レン・カーネル……)
オヴェリアの母、ローゼン・リルカ・ハーランドの弟。
フェリーナはオヴェリアとずっと共に過ごしてきた。だからオヴェリアの事は何でも知っている。アイザックにオヴェリアが、淡い恋心を抱いていた事も。
(許せない)
王を殺し、姫をこのようにした男。絶対に許せないと、フェリーナは思った。
「姫様……パンケーキを焼きます。一緒に食べましょう」
「……」
抱いた肩は、前より痩せた。
それが切なくて、現実がもどかしく悔しいと。フェリーナは唇を噛みしめた。
フェリーナがグレンの元に向かったのは、姫が帰還して4日目の事であった。
もうたまらぬ。このままではオヴェリアが死んでしまう。
泣いて止めても、いつの間にかオヴェリアは霊廟へと向かう。部屋を閉ざしても敵わぬ。当たり前である。彼女はそうして生きてきた。侍女の目を盗み王の目を盗み、グレンの元に通って剣の腕を磨いた。
薔薇前試合に向かう時も、出場の登録さえ、誰も気づく事できずに成した。
風のような姫君である。
今までは怒って笑っていさめて終わりだったが、もうそうも言ってられない。このままでは姫が空気となって消えてしまいそうで。
「グレン様ッ」
呼び止めた時、武大臣には別に同行者がいた。
あ、とフェリーナは思った。この者はオヴェリア様の旅に同行した者達だ。
オヴェリアから手紙をもらった。そこに書いてあった。
「おやおや、かわいらしい」
穏やかな空気をまとう神父。強き魔道を心得、とても頼りになるがいささか軽い所があるデュラン・フランシス。
その隣にいる少年は、マルコ・アールグレイ。水の魔術を得意とする少年。両親を失う不遇を背負っているが、今は剣と魔術を必死に勉強している。
そして、最後の1人。グレンの脇に立つ、長身の男。
強面の風貌、険悪な目つき……怖い、とフェリーナは思った。今にもその腰に携えた剣を抜き斬りかかってきそうだ。
だがこの男が元傭兵隊長カーキッド・J・ソウル。オヴェリアと薔薇の試合で決勝を戦った男。
『フェリーナとカーキッド、会ったら喧嘩しそうだわ』
「何だ」
「……いえ」
思わずグレンを忘れて凝視すると、目つきの悪い男は一層目つきを悪くした。悪だとしか思えなかった。
「あ、あの、グレン様……オヴェリア様の事でご相談したい事が……」
侍女の分際で大臣にそのような事言うべきではないのはわかっている。だがグレンとは知らない仲ではなかった。剣の稽古に向かったオヴェリアを迎えに、場外にあるグレンの屋敷に行った事も何度かある。「これ以上姫様を強くしないでください!」と喧嘩しそうになった事だってある。
「オヴェリア様付きの侍女殿か?」
神父が詰め寄ってきた。フェリーナはビックリしてひっくり返りそうになった。
「は、はい……」
「む。目にゴミが入っている。ほら、取ってやるからこっちを見て。目を閉じてはならんぞ……ほら……」
「うあっ……」
「エロッ!! 何してんだこのボケ」
カーキッドが蹴飛ばすと、マルコも思わずデュランの背中を叩いた。
「マ、マルコ、何故お前まで」
「え? いや、カーキッドさんに言われてるから。『俺がデュランをぶちのめす時には、お前もぶちのめせ』って」
「……妙な事を仕込むな、カーキッド……」
「てめぇの手癖が悪いからだ」
フェリーナは唖然とした。このような者たちと、姫様は数か月間を共にしたのか? 想像できなかった。あの純粋でか弱……くはないが、潔白な姫君が。
「あのっ」
真っ赤になって、フェリーナはグレンに視線を戻した。
「うむ。私も気になっていた。参ろう」
「本当ですか!? 助かります」
歓喜したのも束の間、例の3人も着いてきた。フェリーナは少し困惑した。
「姫の様子は?」
「あ、はい」
グレンに問われ、フェリーナは説明した。だが意識がどうしても後ろの面々に散ってしまう。
オヴェリアと同様フェリーナも男性に免疫がない。ほぼ皆無である。口では「男なんて大した事ありません!!」と姫に発破をかけてきたが、実際にいれば訳が違う。緊張が体に出てしまう。
「姫様はずっと霊廟で……泣いておられます」
言ってから、自分の言葉が随分陳腐なものに思えた。本当はそんなものじゃないのだ。
「このままでは、姫様も消えてしまう」
「……ウィル様の所か」
「今日も、気づけばもうお姿が見えなくて。侍女全員で気を付けているのですが、もうどうする事も」
「姫様……」
デュランが鎮痛な声を漏らした。
カーキッドは、小さく舌を打つ。
そのまま5人霊廟へと向かった。
グレンの姿に、警護の兵士が驚き目を見開いた。
「姫は中か」
「はい。おいでです」
グレンが進むと、そこに確実な道が出来る気がした。
頼もしい。その背にそう思わない者はこの国では誰もいない。特に、王を亡くした今は。
(次の王は、グレン様がなればいいのに)
と、フェリーナは思った。誰よりもふさわしいと思った。
だがこの国には、囚われし慣習がある。
(白薔薇の剣を持つ者)
「……」
霊廟は、入ってすぐに階段がある。そこを下へと降りて行く。
松明は灯されている。そこは静まり返り、外の明るさとはわけが違う。このような場所に一人では入れないとフェリーナは思ってしまう。
ハーランド王族の御霊が祀られし場所。外界から締め出されたその場所は、冷気を伴う。
寒い。思わず震えてしまうと、そっと肩に手を回されギョッとした。デュランだ。
すぐさま人相の悪い男と少年が殴ってくれたので、フェリーナはほっとしてしまう。少し歩調を早める。
「姫様」
階段を降りた先、一番奥の間に。
そこは、この暗闇の中では一番明るい場所。炎によって唯一、闇からつなぎとめられている場所に。
……棺の前に立ち尽くす、その姿があった。
オヴェリア。カーキッドは心の中でその名を呼んだ。
船から降りた時別れて以来だった。そしてそれ以来、その身を案じない日はなかった。
それはデュランたちも同じ。
「姫様……?」
マルコが放心した様子で呟く。
そうだろう。背を向けているその姿は闇の中において透けるような白のドレス。
王女オヴェリア・リザ・ハーランド。旅の中にいたオヴェリアと、その姿は別人である。
ずっと結い上げていた髪も今はほどいている。炎の光に、それは金に光っていた。
知らぬ女がいる。それが、カーキッドが声をかけられなかった理由。
「オヴェリア様」
だがこの姿こそが真実。グレンやフェリーナが知るオヴェリアなのだ。
ならばカーキッドたちが見てきたあの姿は幻なのか?
「体を壊されますぞ。戻りましょう」
「……グレン」
か弱き声。それにもカーキッドは違和感を覚えた。
「……父上に、会いたいです」
グレンは一瞬黙った。
「棺を、開けて」
「……できませぬ」
「この中に……本当に父上が……?」
「……」
「ねぇ、グレン。本当に父上は」
「姫様」
「父上が……そんな、」
絶望、闇。
それだけが、この空間を取り巻いている。そしてオヴェリアを包んでいる。
ああ、とカーキッドは思った。
人の死、親の死。
愛する人の死。
……その苦しみ。
知っている。
胸を割く痛み。
「……嘘よ、ね……?」
振り返ったオヴェリアの顔は、最後に見た時よりやつれていた。
きれいに着飾っているのに、旅の時よりずっと美しいはずのその姿が。
哀しい、それより他に言葉が浮かばない。
「ウィル様は、もうおらぬのです」
「……嘘よ」
「亡くなられたのです」
「……」
「貫かれて」
「……聞きたくない」
「だが、その最期は、」
「聞きたくないわ」
耳を塞ぎ。
オヴェリアは膝から崩れた。
「聞きたくないわ……」
「姫」
だがグレンはそれを許さなかった。
「立たれませ、姫」
「……」
「私が駆けつけた時、ウィル様はもう、事切れる寸前でした」
グレンの声が。
「嫌よ、グレン」
「いいえ、姫様。あなたに言わねばならぬ」
グレンの声も。
「そのウィル様が最期に呟かれたのは、姫様の名」
「……」
「オヴェリアと、呼ばれた」
「……やめて、グレン……」
「そして笑われたのです。あなたの名を呼び、あなたに向かって笑って」
「グレン……ッ」
「あなたに託して」
――。
「ウィル様は、押し寄せる闇の中、最期にあなたの姿を見た」
そは、光。
「そして、あなたに向け笑った」
眩く照らす、
「オヴェリア様、あなたは」
希望の光。
「……立たれませ、オヴェリア様」
「……」
「ここで、闇に堕ちてはなりません」
「……」
「立たれませ」
立て。グレンの声が、別の声と重なる。
目を背けるなと、その声が言う。
進みたくないなら進まずともよい。
だが、目だけは見開け。閉ざしてしまうな。
後ろも前も。
天も地も。
すべてを見据えろ、真向見据えろ。
『わしの代わりに世界を見ろ』
「父上」
――切り開け。
そこがたとえ見果てぬ闇の中であろうとも。
目を閉ざすのは、自らの意志があるその時だけ。
見えぬは言い訳。
――見ろ。
「……」
オヴェリアの目から、涙がこぼれた。
幾重にも幾重にも。
そして同時に、彼女の目に宿った闇を共にその涙は流して行った。
少しずつ、少しずつ。
――立たねばならぬ。
挫けてはいられないのだ。
その姿をこそが、もう、彼女にできる、
(父上)
唯一。
最後にもう一滴涙を落とし、オヴェリアは自らの意志で立ち上がった。
「……」
グレンを見、そしてカーキッドたちを見た。
まだ弱い。しかしその顔は、カーキッドたちが知らぬ女の顔ではなかった。
「オヴェリア」
白薔薇の剣を握り戦ってきた、その者。
間違いなくその人であると。
「姫様」
「……行くぞ。辛気臭ぇ」
「待て、経を上げさせていただきたい。いや……私ではご無礼になりましょうか?」
「何を仰せか。喜ばれます」
グレンは笑った。
「ウィル様、姫と、姫が得た旅の仲間の方々ですぞ」
――この者たちと、旅をしたと。
フェリーナは初めて理解した。確かにオヴェリアはこの者たちと過ごしたのだ。
男たちを見つめるその顔は、フェリーナには知らぬ者の顔であった。
だが。
(姫様、お強く……)
なられたのですね。
伸ばしても、私の手は届かないけれども。
でも、私も傍におりますよと。
「姫様、冷えます」
そっと肩からガウンをかけて差し上げる。
「……ありがとう」
オヴェリアは笑った。
それだけで、フェリーナは満足だった。