『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第44章 最後の一線 −2−
「何だか、ちょっと不覚な気がします」
オヴェリアはボソリと呟いた。オヴェリアに続いて馬を下りたグレンは彼女を見下ろし、「どうされましたか?」と尋ねる。
「1人で馬に乗れないなんて」
「左様でございますか?」
グレンは苦笑する。
「ごめんなさい。こんなに未熟なのに、先頭に立つなんて言ってしまって」
「いえ。姫様はご充分だと思います」
それに、とグレンは周りの兵士をチラと見て笑う。
「姫がそれ以上を求められると、周りの者の立つ瀬がなくなりますぞ」
「……そうでしょうか?」
「そうでございます」
城を出て馬を走らせ半日。乗り慣れているはずの騎士たちにも疲労の色がある。だがオヴェリアはそれに比べればまだ平気な様子である。
「ここで小休憩にしよう」
一刻を急ぐ、だがそれによって兵力が削がれても勿体ない。
「グレンに乗せてもらって走るなんて……何だかちょっと、情けない気がします」
「そのような事はまったく」
「でも、母上は1人で乗っていたんでしょう?」
「確かにそうではございますが。リルカ様は幼少の頃よりたしなんでいらっしゃいましたからなぁ。でも私は嬉しゅうございますよ。姫様と共に駆ける事ができようとは。光栄の限り」
「そうですか?」
「ええ。きっとウィル様は羨ましそうに見ておいででしょう」
まだまだ納得できないオヴェリアに対し、グレンは本当に嬉しそうに笑った。
父と同い年のこの男。剣の腕はこの国で一番の呼び声高い。恐れる者も多いが、オヴェリアはこの屈託のない笑顔を知っている。オヴェリアにとってグレンは師として尊敬し、人間としても愛すべき人物なのである。
「姫様はちっとも情けなくございません」
そんな2人の元に、ゆったりとした足取りでデュランが現れた。
「なかなか女性で馬に乗れる方もおられますまい。まずそういった機会がございません」
そんなデュランをオヴェリアは、少し嫉妬のこもった目で見た。
「デュラン様は乗れます」
「私はほら、ギル・ティモを追ってずっと旅しておりましたし」
グレンとデュランが苦笑する。
「それに、本当に情けないのは姫様ではありません。……なぁ? カーキッド???」
「………………」
知らなかった。デュランの後ろにはカーキッドがいた。だがいつになくその存在感が薄い。
そこに追い打ちをかけるように、デュランはニヤリと笑った。
「まさかお前が馬に乗れんとは」
「………………」
カーキッドは、馬に乗れない。
「いつもあれほど大口を叩くというのに」
遠い異国で鬼神と呼ばれている男が。
傭兵として幾多の戦場を渡り歩いてきたこの男が。
剣と戦いにとてつもないこだわりと自負を持つこの男が。
「……るっせぇ」
乗れないのである。
ここに至るまで、デュランの乗る馬に乗せてもらってきたのである。
「俺はなぁ、馬なんかなくたってやってこれたんだ」
立て直しをはかるべく、カーキッドはやや大き目の声を出した。
「馬上の敵だろうがぶった切る。遅れなんぞ取らん。いいか、馬なんか乗れなくたってなぁ、」
その隣に一頭の馬がつけた。乗り手はマルコだ。
少年は1人で見事に馬を操っていた。
「やっぱり馬は気持ちいいですね」
話の展開を知らぬ少年は、ニコニコと笑ってそう言った。オヴェリアは悲しそうに彼を見、カーキッドの顔には殺気すらこもった。
「すごいなマルコ。お前馬に乗れるんだな」
「ああ、うん。レトゥ先生に教えてもらって。買い出しとか先生について郊外にもよく行ってたし」
「……」
「……」
よっと飛び降りるマルコの着地も見ず、オヴェリアはグレンの腕を掴んだ。
「グレン、お願い。教えて」
「俺はおっさんには頼らねぇぞ!! 独学だっ!! 自力で乗れるようになってやるからな!!」
「……ううむ……」
2人の様子にグレンとデュランは笑い、マルコはキョトンと目を丸くしていた。
「あれ? カーキッドさんて馬乗れないんだ?」
「るっせぇクソガキッ!!!!」
少年が大人から、言われなき虐待を受けるまでに時間はかからなかった。
――グレンの指示の元、小休憩の触れが回る。それと入れ違うように5人の所へ駆けてくる者がいた。グレン・スコールの側近、サイラスである。
サイラスはグレンの前に膝をつき、まずオヴェリアに一礼をした。オヴェリアは慌て頷く。座してもその巨漢は明白。立てばグレンはおろかカーキッドでさえも見下ろす事となる。
その体躯からはかなりの鍛錬を積んでいると見て取れる。だが未だハーランドに彼の名が目立って響いた事はない。
「報告です」
喉の深くから絞るような声であった。
「北よりアーク・フォンディーヌ軍の使者が間もなく合流。西からも諸国の先鋒が間もなく到着予定。予定地点まで、残りおよそ30ベルト」
「詳しい配置はその場にて。まずはひとまず全軍合流を目指す」
「御意」
返事と共にサイラスは背を向け、走り去った。
「総数はいかほどに?」
デュランの問いに、グレンはしばし沈黙をする。
「ハーランド、アーク、北方のいくつかの領地よりの兵を合わせて……5000あれば上等」
敵方の兵力は不明。
オヴェリアは彼方北の空を眺める。雲は北から南へと流れている。鈴なりに大小連なりまるでさざ波のように空を流れ来る。
いつか、雲を見て行軍のようだと思った事があった気がした。あれはいつの事であったか。
吹く風は穏やかには見えるが、決して優しくはない。
「……急ぎ参りましょう」
姫の言葉に全員が彼女を振り返る。
「まだ、何も決まってません」
何気なく彼女が呟いたその言葉は、迫る戦火への予兆か、回避の願いか。
それとも運命そのものへの言葉だったか。
朝ハーランドを出立、それから日中夜馬を飛ばし翌日の夕刻に各軍集合地点にたどり着いた。
まだ国境の北部地区までは距離がある。ここから各軍の配備が言い渡される事となる。
岩場と平原の堺、その中に張られたテントの1つに各軍の指揮官階級の者が集った。
その中でもやはり注目されたのはオヴェリアの存在。誰もが噂には聞き及んでいる、だがまさか本当にハーランドの姫君がここまで足を運んでくるとは夢にも思わなかった。鎧で固めた鎧の中、ただ一人か細い少女がいる光景は、一種異様な物がある。
だが彼女が持っているのは白薔薇の剣である。
そして他とは一線を隔す白の鎧。彼女を守るように寄り添っているのは、軍部最高の男グレン・スコール。
そしてその席にはカーキッドたち3人も同席していた。その場にいる者の多くはオヴェリアに注目していたので、彼らの存在はそれほど特別視されなかった。
「皆、ご苦労」
グレンがサッと手をかざす。全員が一礼をする。
「まずは情勢を。バジリスタの動向は?」
「オリストル川南下から、ミスタ方面へ移動。やはり動きは、20年前と同じ様子」
「先般の予想通り、ゴーラウンドが終点となろうかと」
「ゴーラウンドは姉川の中でも浅瀬。進軍も可能」
「まだ永世中立区・テトには及んでおらぬか?」
「その報告はありません。そこは、アーク本軍が監視に勤めております」
「……神の領域をまたしても汚すか。それだけでも恐れ多いわ」
誰かが吐き捨てると、賛同の声が次々にと湧き起こる。
「いかがされますか?」
「まずはバジリスタ国境を踏み越えてくるか。テトを踏み越え、ここまでくるか」
「動向を見る、と?」
「威嚇だけに終わってくれれば上々。若き獅子だ。気持ちも逸 ろうが、」
実際に、進軍を進めればどうなるか。
ハーランドとバジリスタを本当に戦火に導くのか。それだけの度胸と覚悟とがあるのか。
それがどれほどの業深い事か。
――戦いを起こす、戦争を起こす、奪い合いをする、殺し合いをする――それは、常人が持つ事できる神経ではない。
人として超える、見えぬ何かを超える。
――最後の一線を越える事ができる人間。
多くの命と運命を変える、そんな決断ができるのは。
もうあるいは、神に近く。
「国境の配備は先般の文通りとしよう。今夜中に出立。とにかく急ぎ固めよう」
厚く厚く、このハーランドを壁となって。
その後は、改めて各軍の綿密な配置と連絡系統の確認となった。
オヴェリアは結局終始無言を貫きその様子を見ていた。カーキッドたちも同じ。
グレンの眉間のしわは終始消える事はなかった。
会議終了後しばらくして、続々と各軍が出発を始める。
燃える松明がゆらゆらと地平線へ目がけ移動をする様を、オヴェリアはただ無言で見送った。
「姫、冷えます。テントにお戻りを」
ハーランド軍の出立までにはまだ時間がある。道中終始彼女に寄り添っていたグレンも、今は出立の指揮のためにその場にいない。
「遠く、離れていきますな」
オヴェリアの傍らに立ち、デュランが呟いた。
「国境を西から東へ固めるか……」
そんな彼女たちの所へマルコが走るようにやってきた。嬉しそうに椀を差し出す。
「いい匂い」
ローズティーだった。受け取るととても温かい。そして上品な香りが鼻孔をくすぐる。
「もうじき夜食もできるって。僕、お腹減っちゃいました」
ニコニコと言うマルコに、オヴェリアは少し曖昧に返事をした。その様子にマルコも不思議そうに足を止める。
オヴェリアは両手で包むようにして椀を持ち、また水平線を眺める。
「後列が、やはり納得できませんか」
デュランの言葉にオヴェリアがハッと振り返った。
「……」
「見ていればわかります」
――オヴェリア以下ハーランド軍は全軍の後ろ。バジリスタ到達予想地点の後方に陣を構える事になった。
オヴェリアは何度も異議を申し立てた。だがグレンが頑なにそれを拒んだ。
「何事が起こるか、起こらぬかもわかりません。ともかく今はバジリスタの動きが読めませぬ。そんな状況で姫を前に立たせるわけには参りません」
オヴェリアはこの国最後の柱なのだ。わかってる。もし万が一の事があれば、この国の存続に関わる。
だけど、だ。
「デュラン様はどう思われますか?」
神父を振り返るとその向こうに、カーキッドが明後日を見ながら椀をあおっていた。オヴェリアはしばらくその姿を見ていたが、結局、カーキッドは視線を返さなかった。
「バジリスタは動くか否か、でございますか?」
問い返され、オヴェリアは視線を流した。
「何にせよ、正直申せば……失礼ながらこの配置は」
周りには4人しかいない。他の兵士たちはオヴェリアの存在に距離を取っている。守らなければならないが、正直に言えばどう扱っていいかわからないのだろう。
それを確認した上でデュランは改め言った。
「穴がありすぎるように思える」
「……」
「20年前の記憶に頼りすぎているように思えます。本当にゴーラウンド北西か」
そして問題は、そこにバジリスタ軍が現れた時にはもう中立区テトを渡っているという事。
「20年前の際はバジリスタ王も結局最後は手を引いた。それは無論、ハーランドの押し返しがあったゆえに。ハーランド軍は一気にバジリスタ王都を攻め入る事ができるほどに巻き返した。ゆえに平和協定は結ばれました。私も幾度か歴史の書を見ましたが、正直、あの抗争にどこまでバジリスタ王は本気であったか」
マルコが心配そうに姫と神父を交互に見つめる。
「何にせよ、あの時と同じ道を辿るとは思えない。ズファイという男は……」
それきりデュランは黙り込んだ。オヴェリアも同じように言葉を遮る。
沈黙の中、聞こえるのは風の音。
兵士たちの声の中に、笑い声は聞こえてこない。幾らか人が集まっていても、ここは町ではないのだ。
旅が少し恋しいと、オヴェリアは不意に思った。
そして同時に父の顔が脳裏に浮かんだ。亡き王は今、何を思ってこの情勢を見ているのか。
「やはり、私は」
悲しみに落ちている時ではない。言葉を絞り出す。沈黙と闇が揃ってはいけない。
「ズファイともう一度話が」
話をしなければならない。
あの金の目。旅の途中正面から1度見 えた。あれを思い出すと少し恐怖も覚える。
そしてあの目は言っていた。ハーランドを攻めると。今がその好機だと。
武王で知られた王が死んだ今こそ、この国が揺れている今こそ。
――何のためにと問いたい。戦争、混乱、そこでやり取りされるのは生と死。
それほどまでにしてこの領域を。
聖母が守るというこの地を。
(サンクトゥマリア)
その人は本当にこの地を守っているのか?
――何のために?
「バジリスタのお坊ちゃんと話して、戦争やめてくださいって言うのか?」
カーキッドが口を開いた。オヴェリアは彼を見た。
「何故にと問いたい」
違う、と彼女はわかってる。
本当は何だかわからない。
だけれども。
「……じっとしていられない」
「……」
「最後尾では、」
何もできない。できないままに何かが始まって。
――取り返しがつかない事になるのではないかと。
「戦争が始まる瞬間を、指揮官が見る事はないんだろうな」
王様なんぞは尚更だと言って、カーキッドは椀を放った。マルコが慌てて拾いに行く。
「戦争が始まる瞬間に立ち会うのは、末端の兵士たちだ。戦う理由は上官の命令。そこに仁義も理屈もへったくれもねぇ」
「……」
「お前はそこにいたいのか?」
「――」
何かが始まる瞬間を。
この国の命運をかける瞬間。
武王と呼ばれた父王も、見る事なかった始まりの瞬間。
ズファイと話し合えるのか? 話し合って、それで引っこむ男なのか。
決裂して。
一線を越えてくる踏みかかってくるその瞬間を。
「戦争なんか、起こさせません」
オヴェリアは言った。違う、違う。
始めちゃいけない。なんとしても。
自分が止めなければいけないんだ。
ズファイともう一度話して。
「ズファイを、止めたい」
「……」
「もう一度、会わなければ……」
会う? 会いたい? 会いたくない。
でも止めなければ。止まるか? いいや、止めなければ。
何かできるか? できないか。だけれども何かしなければならない。
最後尾では、何もできない。
走れと、心が叫んでいる。
「姫様」
「ここにはいられません」
オヴェリアは絞るように言った。
「……ここでは、……」
デュランがカーキッドを見る。
「ハーランドの陣を動かす事はできますまい。グレン様が必ず反対をする」
「……」
「私は、姫様はここにいるべきと思いますが」
デュランの目も揺れている。
「私は、あなた様の気性も知っている」
「……」
そう。もう彼女の目は揺れていない。
「勝手に抜け出して行かれては困る」
「私は馬に乗れません」
「そうですな。だがあなたには足がある」
そして強い意志がある。
「……ズファイと見える事ができるかどうか、わかりませんぞ?」
オヴェリアは頷いた。
「どこまで行かれますか」
「テトへ」
すべての陣の向こう側。この世の理 から解き放たれた場所へ。
「我らがそれを許したとなれば、グレン様に殺されましょうな。その時は頼むぞ、カーキッド」
「あのおっさんと本気で戦り合えたらそれはそれで本望だけどよ」
数分後、オヴェリアたち4人は陣から抜け出す。
馬に乗れるのはデュランとマルコ。オヴェリアはデュランの背に、カーキッドはマルコの背に掴まる事になったが。
カーキッドが最後まで異議を唱え、デュランが満面の笑みを浮かべたのは言うまでもない。