『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第44章 最後の一線 −3−
星に向かって走り行く。
風は正面から吹き付ける。行く手をまるで阻むように。
「姫様、大丈夫でござますか?」
デュランに必死に掴まりながら、オヴェリアは「大丈夫」と返事をする。
「しっかり掴まってくださいませ」
夜は濃く闇。
太陽が消えただけでここまで世界は闇に沈む。世界は脆く、そして儚い。
オヴェリアは心の中で何度もグレンに謝った。ごめんなさい。勝手に抜け出してごめんなさいと。
だがどうしても行かなければならないの、と。
小さく呟いたその声は、誰の耳に入る事もなく後ろへ後ろへと押し流されて行った。
◇
――北方。
「あそこに見えるのが、アーク卿の本陣でございましょう」
朝方。山を抜けてすぐの頂から前方の平野に人の群れが見て取れた。
「姫、どうされますか? 立ち寄られますか?」
言われオヴェリアは少し考え、首を横に振った。
「アーク軍の偵察隊がテトを監視しているのでしたね」
「国境はあそこです。色が変わっているのがわかりますか? こちら側には赤土が敷いてある。草原となっている部分はもう国境の向こう。つまりは永久中立区という事になります」
「あそこが……」
「露骨な陣営だな」
マルコの後ろに乗っているカーキッドが鼻で笑いながら言った。
「あんなもんがいる真正面に、どこの馬鹿が兵を回すよ」
その言葉にオヴェリアとデュランは黙る。
「確かに……まさしく露骨」
「アーク軍の横をすり抜けて、国境を越えられますか?」
耳元で言われ、一瞬デュランの頬が緩んだが。
「西側へ迂回してみましょう。果たして、警備がおらねばいいが」
頂を西へ降り、馬を走らせる。視界からアーク軍が消える。
雲が随分低い所を渡っている。
「何とか抜けられそうです」
国境を越えて、中立区テトへ。
問題はそこから先だ。
バジリスタ軍がどこから来るのか、その国境まで走るか。
「中心まで行ってみましょう」
オヴェリアの言葉に、デュランは一瞬黙った。
そしてそのまま返事はうやむやに。
二頭の馬は走った。
永世中立区、テト。
その中心は聖地と呼ばれる。20年前の抗争の際、平和の協定を結んだ場所でもある。
その大地には延々と平原が続いていた。山も岩肌もない。ただ丈の短い草が道を作る事もなく、一面に広がっている。
時折花が咲いている。それは恐らく、人が手に取って愛でるにはあまりにも小さく紛れてしまう物だろう。
そんな一輪に触れ、オヴェリアはそっと目を閉じた。
そして。
「これが……」
テトの中心部には石碑があった。
巨大な物である。その前ではカーキッドでさえも小さく見える。
デュランはその前で言葉を失った様子で茫然と立ち尽くした。
「古い文字ですな。……古代テルマ文字のようです」
「読めますか?」
「いや……」
苦い顔をしたデュランに代わり、マルコがサッと指を指した。
「……古……ここに……」
「読めるのかお前」
「読めない。でも、先生の本棚で見た事ある単語があるような気がする。……空? いや、天と地……花……いやこれは、何だろ……神?」
「これがサンクトゥマリアの墓標?」
オヴェリアも見上げる。その石は黒く濁っている。雨風、そして年月によるものであろう。
誰にも磨かれる事ないまま、誰の目にも触れられる事ない場所にある石。
名もわからない花だけが、その傍に寄り添うように揺れている。
「ここが、サンクトゥマリア最期の場所……」
息を吐くように言ったオヴェリアに、デュランはためらった様子で言う。
「この地がかつてどのような地であったか、オヴェリア様はご存知ですか?」
え? とオヴェリアはデュランを見返す。
「やはり、ハーランドの王族にも伝えられておらぬか……教会の古い書物には、この地は処刑場だったと記されております」
「処刑……?」
「サンクトゥマリアは、その最期、処刑されたのだと」
カーキッドはかつてデュランからその話を聞いた。だがオヴェリアとマルコはそれが初耳だった。
「処刑? なぜ? サンクトゥマリアはこの地……世界を救ったのでは」
「そうです。だが彼女は最期、磔 にされた」
かつて大陸間で起こった戦争。
大陸間で生まれた多くの暗黒魔術により、世界は混沌に落ちた。
いよいよ終末への序曲とならんとしたその時。天は一人の少女をこの地に落とした。
それが、サンクトゥマリア。
「世界を救った少女は、1本の剣に自分の魂を込めて天へと還った……人類の救いの母として、彼女は聖母と呼ばれるようになった。その剣こそが、姫様が持っておられる白薔薇の剣。聖母の力を宿す、聖なる剣です」
選ばれた者にしか扱えない、不思議な剣。
「誰が処刑など」
「その時分の事を描いた書物はほとんど残っていない。私がその事を知ったのは、師の古い書庫にて。師亡き後教会に身を置き今一度調べた結果、教会の書庫にも同じ事を記した物がありました。サンクトゥマリアは処刑されていると。だがその事実は公には伏せられている」
「……」
「思えば、不思議な事はいくらでもある。一体その少女はどこからきたのか、何者だったのか。天が使わしたと言われるが突然超常現象のように現れたとは考えにくい。なぜ彼女は戦うに至ったのか。何のために」
ハーランド――白薔薇の剣を持つ者が治める国を守るのか。
オヴェリアは自分の剣を見た。
白薔薇の剣。その剣は不思議な剣。剣に選ばれた者にしか持つ事ができない。
「姫様はその剣に、何か不思議な力のようなものを感じた事はございますか?」
「力?」
聖母の力を宿しているという。だが、その剣が光輝き天を突くような場面はこれまでなかった。
いや、違うとカーキッドは思った。その剣が特殊な力を出した事がなかったわけではない。
暗黒の魔術で生み出された炎の中、その剣は揺るぎなくそこにあった。そしてその炎すら宿し、ギル・ティモへと向かった。
「サンクトゥマリアって、まるで、姫様みたいですね」
ふと言ったマルコの言葉に、カーキッドとデュランは少年を振り返った。
「世界を守るために戦った、なんて」
「私はそんな、世界なんて」
「少女の戦い、か」
「そうか……そう考えるとあれだな。サンクトゥマリアってのもこういう感じだったんだろうな」
「? どんな感じですか?」
「だからさ、ほれ。頑固で。融通が利かなくて。見る者すべてに首を突っ込もうとする」
「な、私はそんな事ありませんっ」
「は? そうだろうが。お前な、あの旅でどんだけの事したよ? 大体お前の寄り道さえなければほれ。こんな簡単に北までこれるんだぞ? こっから東へスイっと行けば、ゴルディアなんかすぐだ」
「それはお前が馬が乗れなかったからだろうが」
「なっ! 俺だけじゃねぇ。こいつだって乗れなかったんだっ」
「でもでも! だから僕たち、出会えたんじゃないですか」
色々な道を歩いて、色々な事を見て。
だから今がある。ここがある。
一人では、戦えなかった。
オヴェリアは旅の共を見た。カーキッド、デュラン、マルコ。かけがえのない者たち。
最後にもう一度カーキッドを見る。目が合う。カーキッドは一度目をそらしたが、すぐにまた戻す。少し深くその目が重なったような気がして、オヴェリアが今度はそらした。
「サンクトゥマリアにも、いたのでしょうか?」
ん? と誰ともなく問う。
「共に戦う、仲間が……」
苦楽を共にした仲間。
「サンクトゥマリアの仲間、ですか」
デュランが首をひねった。
「そう言えば…………そういう話は、聞かれませんな」
――馬の嘶きが聞こえたのはこの時であった。
気付いた時にはもう、振り返ると走る影があった。
「姫様ッ」
カーキッドがオヴェリアをかばうように立ち位置を変える。デュランも胸元から護符を取り出す。
「マルコッ、馬を」
「待て、あれは」
デュランは目を細め熟考する。
「アーク軍だ」
国境監視の、斥候のアーク軍。
彼らは瞬く間に4人の元へ現れ取り囲んだ。
馬上の騎士たちに、カーキッドはニヤニヤ笑いを浮かべた。剣を抜こうとするその手をデュランが慌てて止める。
「やめろ」
デュランが一歩前に歩み出る。
「申し訳ない。我らは、」
どう身分を説明したものかと一瞬迷ったが。
それを制し、馬から降りた者がいた。1人降りると、他の者たちも続く。
そして、
「オヴェリア姫様とお見受けいたします」
その男をオヴェリアはまじまじと見つめた。
「そしてお主は……確か、カーキッド・J・ソウル」
「へぇ? 俺を知ってんのか」
カーキッドが二の句を告げるより早く、オヴェリアが言った。
「アーク卿?」
髭面の男の目じりがきれいに曲線を描いた。
◇
「よもやと思い参りましたが、誠に見つかってよかった。しかしながら驚きました」
石碑からさらに北東に進んだ所、岩肌がむき出しになった場所があった。そこに、アーク軍の斥候部隊が陣を置いていた。
「グレン様より早馬が参りました。姫が姿を消したと、心配してみえますぞ」
「申し訳ありません」
アーク・フォンディーヌ。上背はカーキッドと肩を並べるくらいである。面長に生えた髭は、無精ではなくきちんと整えられたものである。
その腰には剣があるが、彼の本当の獲物はそれではない。大振りの槍が岩に立てかけてあった。
「姫様の演説の件、聞き及んでおります。陛下の葬儀に参列できず、大変申し訳ありません」
「いえ。アーク卿にはずっと国境の事を任せきりで。こちらこそ礼を申します」
オヴェリアが言うと、アーク卿は困ったような照れたような独特の笑いをした。
「しかし誠にあなた様が、か。間近で見てますます思いました。信じがたい」
「え?」
「薔薇の試合、拝見いたしました」
オヴェリアが驚愕に目を見開く。
「アーク卿、来てみえたのですか?」
「はい。私はあれを見るのが4年に一度の楽しみでしてな。初戦から拝見しておりました。カイン・ウォルツ=A中々面白い剣を使うと思っておりましたが、さすがに中身が姫様だとは思いもよりませんでした」
オヴェリアは少し赤面をする。
「並み居る猛者を全部倒したのでしたな。さすがは姫様」
「僕も見たかったなぁ」
デュランとマルコに微笑み、アークは最後にカーキッドに目をやった。
「傭兵隊長カーキッド・J・ソウル。お前の事も見ておったぞ」
「そうかい」
興味なさそうにそっぽを向く。それよりも彼は、渡された水をグイと飲む。
「お前もよくやったが、まだまだひよっこだな」
酒の方がいいなと思ったカーキッドであったが、アークの言葉にピクリと反応した。
「あん?」
「脇が甘い。後上段斜めからの一撃が弱点と見た」
「……何だお前」
「私には到底及ばん腕前だ」
クックと笑い始めるアークに、カーキッドはガバリと立ち上がった。
「上等だ。やるか、今からここで」
「おうおう、野獣のようだ」
「くそヒゲ。立て」
「カーキッドっ!!」
「口の利き方も知らんようだ。ようもこれまで姫様と共にしたわ。ヴァロック王が見たら嘆かれるだろう」
「何だと」
「おやめください、2人とも」
カーキッドを煽るだけ煽って、アークは高らかに笑った。
「まぁとにかく、長旅お疲れでしょう。少し休息の後、国境の我が本陣に参りましょう。せっかく姫にお越しいただいたのに、ここでは満足なもてなしもできません」
飄々とした笑顔の中に、ここは危険だとアーク卿は含ませた。その事にオヴェリアたちは気づき、そして改め周囲に気配を配った。
笑顔を浮かべるアーク、周囲には幾人かの兵士がいる。どの顔にも笑顔はない。
もっと張りつめて。
もっと空気は鋭くて。
「バジリスタはどうなっていますか?」
ここは最前線。平野のど真ん中に、味方は遠く後方。
ただ、敵が来るかをずっと見続け。
見つけた瞬間に後方へ使いを打っても、たどり着く頃ここはどうなっているとも知れない。
誰も言葉を発しない。沈黙の中、喉の奥で何を思っているのか。
否、すでにそれさえ無の境地か。
「……ドリトルス川を南下後、東のミスタ方面の森に入った所までは捕捉しています」
状況の一端を感じ取ったオヴェリアがじっと見つめる。その目に根負けしたように、アークはスッと瞳を細めた。
「森に入った所で、消息が不明。東か西か。だが西には大きな崖がある。必然、東へ」
「20年前と同じ経路を辿る、アーク卿も思っておいでで?」
「……」
オヴェリアに尋ねられ、アークはしばし黙った。
「バジリスタの先頭はザ・ラム卿指揮下の軍。ズファイ本隊の位置は」
「ズファイと話しがしたい、と?」
「はい」
オヴェリアの返答にアークはまた黙り。
やがて、岩間から天を見上げた。
「今宵は朔です」
「アーク卿」
「先陣は我らが。夜が来る前にどうぞ姫様、国境まで退かれませ。お供を仕 る」
そう言い、アークはカーキッドたちに目を配る。
「ここは姫が長居する場所にあらず」