『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

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 第44章  最後の一線 −4−

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 聖地に宵の闇が差し掛かる。
 西の空から広がる夕の紅。その光は北の空に及び、やがて東へ向けて溶けていく。
 雲は切れ切れに、灰色の波を描きつつ。重なった向こうからはみ出る光がオヴェリアの目に一時刺すように入り込んだ。
 痛いわけではない。だが目を閉じる。
「オヴェリア」
 声をかけられ振り返る。カーキッドだった。
 男はオヴェリアの隣に立つとポケットに腕を突っ込み、彼女が見ていた北の大地を見やった。
 そのまま2人、黙って北を見た。
 そしてやがて、太陽の光が一段弱まるのを待っていたかのように。
「行くぞ」
 もう少しだけ、とオヴェリアは思った。
 本当はここにいたい。ここで待っていたい。
 時が来るというのなら。
 だが。
 ――姫が長居する場所にあらず。
 アークの言葉が胸に突き刺さった。
 その後も何度も、ここにいると彼女は言い募った。ズファイを待つと。
 だがアークは一歩も退かなかった。
「とにかく、何かあったらいの一番に申し上げます。私どもで何とかズファイへの接触も試みますゆえに」
 退かれませ。
 あなたは姫君。こんな場所にいてはならない。
 その身はもう、1人の物にあらず。
「すぐに馬を走らせますゆえに。ともかく、我が本陣へ」
 国境まで退け。
 ……もどかしいと、オヴェリアは思った。
 走りたいのに走れない。そんな感覚。
 もがいても何も進まない気持ち。
「とりあえずこの場は国境まで退きましょう」
 北を眺める2人の元にデュランとマルコも現れた。
「アーク卿もこのまま姫がここにとどまる事を許されないでしょう。ズファイと話をするにしても、もう一度策を練り直すべきかと思います。このまま4人で国境を超えるわけにも行きますまい」
「そう……ですね」
 気持ちは焦る。だが実際、ズファイがどこにいるかもわからないのだ。
 先頭のザ・ラム卿に会うという策もある。だがそうなった時に、オヴェリアだけの力でズファイの元まで行けるのか。
「国境まで戻るべきでしょうか」
 改めオヴェリアは聖地と呼ばれる大地を見渡した。
 少し寒いと思った。
 地面は続いている。少し南へ下ればそこは自分の母国なのに。ほんの少し北にいるというだけで、何か異質な感じがする。
 においというか、風というか、空気というか。
 ――夜の闇がすっと濃くなる。
 髪を撫でる、肌を拭う、指の間をすり抜けて行く物。すべてがここは、ハーランドではないと言っている。
 ならばここはどこなのか。
 ――風が止んだ。
 ここでこんな事を感じるならば。地続きの果て、さらに北へ行ったら何を思うのか。
 ――カーキッドがふと顔を上げる。
「何か、」
 デュランが北に視線を飛ばす。
「カーキッド、」
「え?」
 手が震えた。
 なに、とオヴェリアが言葉を口に出すより早く。
 オヴェリアの胸に、ズンと何かが響いた。
 上だ。本能が告げた。
 まだ夜ではない。夕の光があったはず。
 だがオヴェリアが振り仰ぐ。全員が空を見上げる。
 予兆はなかった。
 ただ気付いた時にはもう頭上。
 雲ではない。それは、空にはあり得ないほどの黒と。
 夕の赤が透けている、骨格がいびつに広がる、翼。
「姫様ッ」
 誰かが叫ぶ。叫んだ時にはもう風が巻き起こる。
 地鳴りに似てる。否、実際地響きが起こる。
 吹き飛ばされそうになる足元を懸命に踏ん張る。
 巻き起こった風と砂に目が取られる。
「オヴェリアッ!!!」
 カーキッドがオヴェリアを抱き留める。その腕に掴まり、オヴェリアは必死に目を開けた。
 空を異質な翼が横切っていく。もう遠い、流れるようにして向かっていく先は。
「ハーランドがッ」
 国境に向かって行く。
 あれが答えだ。バジリスタからの。
 ――始まりのための答え。
「誰かッ!! ハーランドがッ」
「何だあれは!!」
 向こう、アーク卿も風の中必死に駆けてきた。
「姫様ッ、今のは」
「早くッ、ハーランドに早く連絡をッ!!」
 あの化物よりも早く。
「敵は、暗黒魔術を使う」
 デュランが叫んだ。
「あれは敵です。恐ろしき暗黒の魔物です」
「暗黒……魔術?」
 アークは怪訝な顔をしたが。それも一瞬の事だった。
「急ぎ馬をッ!! ハーランドに連絡ッ!!」
 間に合って、とオヴェリアは思った。
 早く、早く――そう願う彼女に。
 何か感じた。
「まさか、あれを使うとは」
「ヤバいな、おい」
「どうしますか!?」
「とにかく急ぎ国境へ戻るべき。マルコ、馬をッ」
 慌てふためく3人と別の方向を、オヴェリアは振り返った。
 ゾクリとした。何か、神経の一番奥が。
 ザワリと言い換えるべきかもしれない。
 混乱する最前線のこの現場。慌てふためくその中で。
 なぜだか冷静になっていく自分を少女は感じた。
 カーキッドもオヴェリアの異変に気付いた。そして彼もまた見ていた方角を反転させた。
 化物が行った南ではなく。
 北を。
「……へへへ」
 そしてカーキッドは笑った。
「そうかい、そういう事か」
 その呟きを耳にしたデュランとマルコと。
 最前線の指揮官たるアークと、その配下たちが。
 慌てふためくその足を止め、心を止めて。
 息すら止めて。
 北方。
 ――塞がっていく視界。
 さっきまではなかった。平原しかなかった。
 あんな黒い物は。
 目を凝らせば揺らめいている旗。
 粒なりになっているのは、群衆ゆえに。
 自然現象ではありえない。草や木ではない。
「まさか」
 先頭に立っていたのは、ザ・ラム卿ではなく魔物。
 その後ろから、陣を固めて駆け来んとするは。
 地平線に控えし、これぞまさしく。
 天を貫く剣の紋章を抱きし北の大国。
 ――バジリスタ。




「ああ」




 誰の言葉だったか。誰の呟きか、嘆息か、溜息か。
 嘆きか、それとも恍惚か。
 悪寒が魂を呼んでいる。
 水平線を固めるかごとくの横一列。
 もう、バジリスタは自国の国境を越えている。
 あと踏み越えるべき最後の一線は。
 ――高い、笛の音色のような音。
 誰かの怒号と同時に。
 人が、吠える。
 ――足が、踏み越える。
 踏み越えたらもう、戻れない。
 走り出せばもう、止まらないのに。
 何人なんびとが躊躇う? 否。
 雪崩を打って。
 進撃のごとく。




「走れ――」




「撤退ッ!!!!!!!!! 馬に飛び乗れ――――ッ!!!!!!!!!!!!!」
 ウォォォォォォォオ――凄まじい声が響く。
「姫を守って走れッッ!!!」
 アーク卿が叫ぶ。
「急げッ!!!!」
 茫然としていた兵士たちが目覚めたように動き出す。
 だが遅い。進軍は迫る。完全に斥候のアーク軍は丸見えの状態になっている。
「マルコッ!! 馬を」
 オヴェリアたちも走る。マルコが一足先に馬に飛び乗る。
「カーキッド、お前、姫様を乗せて走れ!!」
「何!?」
「マルコ、私を乗せてくれ。手綱を握っていては魔術が使えん」
「はい!!」
「しかし俺は馬が、」
「根性で何とかしろッ!!!!!」
 一括され、カーキッドは一瞬茫然としたが。
「わかった」
 拾い上げるように駆け出し、馬に這い上がる。「オヴェリア、こい!!」
「大丈夫なの!?」
「知るか」
 問答している場合ではない。カーキッドは見様見真似で馬に喝を入れる。
「走れッ!!!!」
 馬は途端、荒くれたように走り出す。思わずオヴェリアも悲鳴を上げる。
 マルコの後ろに乗ったデュランは後方を確認しながら術を唱え始める。
「マルコ、オヴェリア様から離れるな」
「はい」
 風が風を切っていく。
 アーク軍とオヴェリアたちの馬が、地平線目がけて駆けて行く。
 その後方に迫るのは巨大な波。
「走れッ!!」
 アークが状態を低くしたまま叫ぶ。
 追いつかれる、とデュランは思った。
「エリトモラディーヌッッ」
 炎を解き放つ。それに一瞬敵の足並みは乱れるが、すぐに立て直して。
「進め――――」
 指揮官の声が響く。
「姫様を守れ!! 盾になれッ」
「ラウナサンクトゥス、ラウナサンクトゥス」
 ドォォォォォォ
 押し寄せる。
 飲み込まれる。
 今一歩の速度が足りない。
 黒い馬の輪郭が確かに見えてきて。
 それに乗る兵士の姿が鮮明に。
 叫んでいる。
 抜刀を天に向かって掲げて。
 振り返るオヴェリアの目に、その映像が焼き付かんと、
「しっかり掴まってろ!!」
 する、一瞬前にカーキッドが恫喝する。
 オヴェリアはカーキッドの背中に必死に掴まる。
 デュランは術を解き放つ。
 マルコも小さな瞳を懸命に見開く。ここで瞑ってはいけない。
 走れ、走れと誰もが念じて。
 荒野を走れ。
 地平線が遠く。
 もっと早くと誰もが思うその瞬間。
 ――斜めに、バジリスタ軍の先鋒の馬が追いついた。アーク軍の後方につけた兵士に向かって剣を。
 振り下ろす、瞬間をデュランが炎を解き放つ。
 人と馬が踊るように後方へと転がっていくが。
 後方に迫る更なる敵が。
「発破用意――――ッ!!!!!!」
 ――あらん限りに、アークが叫んだ。
 前方に、樫の木が見えてきた。
 先導のアーク軍がその木に向かって滑り混む。デュランは何事か察して、術の形成を組み替える。
 1秒よりも短い時間。コンマの瞬間の中で。
 馬脚が地面を蹴飛ばし宙に舞う。
「放て―――――――ッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!」
 アークの言葉と、デュランの術の完成が重なった。
 機は、ギリギリのタイミング。
 アーク軍が通過するその刹那。地面が粉塵を噴き上げた。
 光、赤、炎。
 爆破。
 アーク軍の後方につけていたバジリスタ軍がそれに掴まる。
 ドドドドドと、炎は横に一直線連なる。アークが仕掛けた罠。
 そこに、デュランが風の術を解き放った。
 地面から吹き上がった炎を巻き込み、北へ北へ。
 バジリスタ軍を上から覆う。
「退け、退け――」
「引き離すッ、走れッ」
 双方の指揮官の声が二つの道を取り分ける。
 この地点に控えていたアーク軍も、列に加わる。再び走る。
「急げ」
 黒い炎が空に向かって上がっていく。
 バジリスタ軍は流れを止めた。だがここで止まる事はない。
「国境の軍に合流する」
 駆ける馬の上、オヴェリアは必死にカーキッドに掴まりそして前方を見据えた。
「あ」
 呟く声はカーキッドの耳にも届いた。
「煙が」
 前方、あれは国境線。南の大地から、煙が見える。
 始まったのだと、オヴェリアは思った。唇を噛みしめる。
 暗き大地に光が差す。
「正面に出るぞ!!!」
 オヴェリア、と名を呼ばれた。彼女はそれにしっかりと頷いた。

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