『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

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 第44章  最後の一線 −5−

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 それは一瞬の事だった。
 風の中、煙の姿だけを捉えていた。その世界が瞬間、真っ白になった。
 むしろそれは黄金。
 誰かが呻いた、誰かが叫んだ。オヴェリアもわけもわからず目をかばう。
 馬が動揺する、掴んだカーキッドの背中が振り乱れオヴェリアの体も振り回される。その中で必死にしがみついて。
「周れ――」
 金の視界の中、その声だけがはっきりと聞き取れた。
「右の手綱を引け!!!」
 次の声は存外近く、聞き知る神父のものだった。声に反応してカーキッドの体が強張る。目を閉じて寄り添うその体の筋肉の動きが分かる。温かいとオヴェリアは思った。
 そしてその瞬間、すっと視界に闇が戻った。目を開けたがまだ輪郭が入ってこない、完全に視野が焼かれている。
「オヴェリア、大丈夫か!?」
「ええ。あなたは?」
「何も見えねぇッ」
 徐々に視界が戻ってくる。アーク軍が並走している。デュランとマルコもオヴェリアたちの斜め後ろにつけている。
「何だ、あれは」
 世界は闇に沈もうとしている。もう夕の赤は微かなにじみ程度にしか残っていない。
 にも関わらず、見上げたそこに光があった。その光が辺りを照らし出していた。
 透けた羽のような物から光をあふれ出し、大地を見下ろす目玉は7つ。
「ば、化物――」
 その声と、カーキッドの小さな笑い声が重なって聞こえた。
「暗黒魔術と申されたか!」
 先頭を走るアークがデュラン目がけて言葉を飛ばした。
「伝え聞いた、姫様が人民に説いたというそれか!?」
「いかにも」
 翼の光が強くなっていく。
「あそこに人がッ」
 オヴェリアが叫んだ。地平線に黒い人の影が見えた。赤土を越えた、国境のアーク軍だ。
 このまま走れば真下に出る。
 黒い塊、光が集まる翼、塊の中から左右2本の細い物がさらに広がる。
 まるで腕を伸ばし堕ちた子らを慈しむ神のように。
 ――満ちた光があふれ出す。
 オヴェリアはその様を見上げる。
 光の中にある目が、歪んだ。
「弓隊、打て――ッッ!!!!」
 アークが叫ぶ。反応した数人が矢を放つが、勝手な方向へ飛んでいく。
「逃げろ」
 瞬間、光が解き放たれた。
 そしてその瞬間、オヴェリアも宙を飛んだ。カーキッドが彼女の体を抱えて、木陰へと逃げ込む。そして彼女の頭を自分の胸の中へと押し込める。
 光、光、光の中。
 うめき声が上がった。叫ぶ声も湧き出た。
 光、声、光、声。
 すべてがすべてを凌駕して、最後、沈黙に至った瞬間。
 光が止んだ。……また目が焼かれている。
 そして再び見えた世界に。オヴェリアは口元を覆った。
「とんでもねぇ」
 兵士が倒れている。死んでいる。その半身は溶けていた。
 そんな物が、辺り一面に。かろうじて動く者は、視界を失いフラフラと彷徨っている。
「体を焼く光……?」
 ゾッとした。オヴェリアとカーキッドをかばっていた木も、ドロドロと液を流していた。
「こんな、事が」
 よろよろとアークがオヴェリアの元へと歩み寄った。
「アーク卿、ご無事ですか!?」
「部下が私をかばって」
「オヴェリア様!! ご無事かッ!!」
 デュランとマルコが2人の元へ駆け寄る。
 7つの瞳は変わらず大地を見つめている。
「残った兵を!! 早く体制を整えなければ」
 デュランの叫びに、アークはまだ我を失った様子だった。
「アーク卿!!」
 再度怒鳴られ、ようやくアークは動き出す。
「アーク軍は総崩れか」
 悔しそうにデュランが呟いた。
「これは、まずい」
「どうすれば」
「とにかく結界を張ります。マルコッ、できるだけ広い範囲に陣を描け!!」
「はいッ!!」
 敵は天にはびこっている。
「姫様は、お逃げください!!」
 アークが叫んだ。だがオヴェリアはそれに一瞥だけ返し、
「とにかく弓を持てる者を!!」
 周囲を見渡す、動いている兵士は少ない。あちこちに煙が立ち上っている。
 ふとオヴェリアは疑問を感じた。煙? 火?
 どこから出てる?
 周囲を見渡す。確かに大地には局所的に焼けた跡がある。燃えているテントもある。
 光は人を溶かした。
「どこから火が、」
 カーキッドも同じ事に気付いた。負傷した兵士の腕を掴んで問いただそうとしたが、
「敵弱点は、目だ。弓隊、構え!!」
 ――恐怖に駆られた指揮官は、天の敵目がけて一刻も早くと号令を飛ばした。
「打て――――」
 刹那、矢が小さな光となって空に飛んでいく。そのうちの幾つかが、確かに目を捉えた。
 だがそれが決定打とは思えない。その目は瞬き一つ、揺るぎもしない。
 ただ、白目が赤く染まっていき。
「あ」
 兵士が呻いた。
「あれは、」
 やがてそこから赤の液が零れ落ちた。あの異形にも血が流れているのか。オヴェリアにはまるで、涙に見えた。
 ――矢が当たらなかった目からも、やがて色を加えた水がほとほとと流れ落ちた。
 それは大地に落ちて、そこを赤く染め。
 その液を浴びた人々は、途端、熱い熱いともがき。
「これ、は」
 やがて煙と炎が立ちのぼり。
 ――地平線の向こうから見たあれは、人が焼ける煙。
 その炎を消さんとするかのように、また、翼に光が集まり始める。
「退却、退却!!!!!」
 炎と水。
「完成しましたッ!!!」
 マルコが駆けてくる。
「マルコッ!! 結界の魔術を打て。そこに私がもう一枚術を乗せる」
「皆、早くこちらへ!! 少しでも近くに!!」
 察したオヴェリアが叫ぶ。その声に、兵士の多くが従った。
 翼から光が、
「開門ッ!!!」

  万物の神ヘラ
  太陽の神ラヴォス、闇無の神オーディーヌ
  我ここに魂を刻む、我ここにこの名を捧ぐ

 マルコと背中合わせになるように、デュランがスッと目を閉じる。
 かざした手の平を一度強く握りしめ、
「Обещание души」
 いつもの詠唱ではない。

  我ここに魂を刻む、我ここにこの名を捧ぐ
  須らざりし一輪の結得にて
  抗うは日責じっせきの抗
  今我に答えよ、願わくば
  結晶の石、今ここに解かれたし

「кровьцепь клятва древность Небо и земля」

「空の青さ、ここにすべてを守りたまえ」
「Покрывая темнотой」


 金色の光。
 そしてその上から覆いかぶさるように一瞬、黒い光がほとばしった。
 その刹那、再び天から光が溢れる。
「デュラン様、」
 オヴェリアに向かって口の端だけで微笑み、デュランは目を閉じた。
 空気が振動する。地面が揺れているのか、それとも天が揺れているのか。
 真っ暗なのか真っ白なのか。
 その光は死の光なのか、それとも自分たちを守る物なのか。
 何もわからない。ただオヴェリアたちは祈るように時を過ごした。知らずカーキッドの腕を掴んでいた。カーキッドは目を閉じる事なく一点、空をにらみ続けていた。
「何を狙う?」
 声に、オヴェリアも瞑っていた目を開いた。
「目は誘いだな」
「あの距離をどう攻める?」
 答えたデュランの声は、絞るようだった。眉に苦悶がにじんでいる。
「対空の迎撃なんぞ、どこの騎士様が想定して剣を振ってるよ、なぁ?」
 空気の振動が緩くなっていくのを感じる。オヴェリアももう天を見つめていた。
 マルコの放った術の向こうに、天を覆うそれが見えた。
 どれもこれも、色だけで言うならば優しい光を放っているのに。
「飛ぶ。頼むぞ」
 カーキッドの言葉に目を剥いてアークが彼を振り返った。
「な、何を」
「私も行きます」
 オヴェリアもそう言ったが、
「お待ちください。カーキッド、何を狙う? 的は大きいぞ」
 光が薄れていく。霧が晴れていくように。
 騎士たちも、彼らの会話に愕然と顔を上げて。
「とりあえず、斬る」
「目を斬れば炎が降り注ぐ」
「目を避けりゃいいんだろうが。この俺がそんなヘマをするわけが、」
「それよりも、別の策がある」
 ――我に策あり。
「まさか……あのようなものを倒す手段が?」
 アークは半ば絶句の中から声を絞り出し。
「マルコ、行けるか?」
「何をすればいいですか?」
 少年は力強く頷いた。
 それに答えるようにデュランも頷く。




「何をするというか……」
 アークにはわからない。ただ、アーク軍はその場を離れるように指示を受けた。
 その場に残ったのはオヴェリアたち4人。オヴェリアにも離れる事を強く勧めたが、彼女はその場を動かなかった。
 ただ、全軍に離れるように告げ。
 残る4人は空を見上げている。
 その先にあるのは、これまでの人生で想像もできなかった異形。
 何が起こっているのか。暗黒の魔術など、噂には聞き及ぶがその実態は彼らには計り知れない。
 そしてさらに言葉を失ったのが、
(あれを前に、なぜ立ち向かえる?)
 空にある目玉が彼らを凝視している。あんなものの真下にありながら。
 なぜ、平然と立っていられるのか。立ち向かえるというのか。
 アークは気づく。自分の足がもはやすくんでいる事に。
 姫をあそこに残しているのに。
 もうあの場に戻りたくない……あれに向かって戦いを挑む気持ちすら奮い立たない事に。




 風が心地いい。
 髪が揺れるその感覚がとても心地いい。慣れない感覚はくすぐったいが、気持ちがいいとヴェリアは思う。
「まるで創造主のようですな」
 デュランが言った。
「天より人の行いを慈しみ、そして罰する」
「滅する、か?」
「誕生と破滅は同義。表裏ではない。同一線上にある」
 7つの目玉がギョロリと自分たちを睨んでいる。確かにそれは神にも見える。そして同時に悪魔にも見える。
 まるで審判の時を待っているようでもある。
「もしあれが神の姿というのならば、」
 我々は神に刃を向ける事になりますねと、オヴェリアは言った。
 それをカーキッドは鼻で笑った。
「滅びの時も救いの時も、神様はこんな派手に姿をさらしはしない。そうだろ?」
 そして。
「我々が貫こうとする正義の前に立ちふさがるとすれば、それがたとえ神であろうとも」
 戦うのみ。
「神父がそんな事言っていいのか?」
「私の神は、私の信念の中に宿っている」
「それなら俺の神はこの剣に」
「――光が」
 マルコが指したその先に。空に再び光が集まり始めた。
 天の7つの瞳が何かを語るように瞬きをした。
「デュラン様、マルコ、頼みます」
「承知」
 マルコがゴクリと唾を呑む。
「……失敗したらすいません」
 少年はボソリとデュランにだけこえる声で言った。
 それにデュランはふっと息を漏らし、
「馬鹿を言え。失敗などするものか」
「……」
 自信みなぎるデュランの顔に、マルコは少し安堵する。
「そう、ですね」
「行くぞ」
「はい」
 ――防御に書いた陣形の中央に4人が立っている。
 光は間もなく降り注ぐ。その瞬間が勝負の時。
 マルコが大地に向かって詠唱を開始する。デュランは対して微笑む如くに空を見つめて。
 空の異形が手を広げ、「光あれ」と言わんばかりに。太陽のいなくなったこの世界に、むしろ大地を照らさんと。
「来るぞ」
 解き放たれる、――この世界を光で照らすためじゃなく、何もない真っ白の世界にするために。
 デュランが叫んだ。
「マルコッ!!!!」




「立て、水の翔!!!!」




 マルコが描いた陣、中央の4人が立つ部分だけを残して大地から水が吹き上がる。
 オヴェリアは思わず顔を背けた。水が、光が、眩くて。
 立ち上った水に天の光が降り注ぐ。
 ――水が光を包み込み。飲み込んで。
 デュランはニヤリと笑った。その目はしっかりと開いていた。
「エリトモラディーヌッッ!!!」
 大地から水ともう一枚風が。
 ――光を飲み込んだ水を押し上げるように。
 マルコの放った水の術だけでは、高度が足りないゆえに。
 風を、さらに高く。
 大地を溶かすその光を帯びた水が、逆方向に、空に向かって噴き上げる。
 音と言えない音が響いた。思わずオヴェリアは耳を覆った。
 痛い。こんな痛い音は初めてだった。
「ここはまずい」
 光で目が利かない。誰に腕を取られているかわからないが、オヴェリアは走った。
「崩れていく」
 自らの光をかぶった異形は泣き崩れるかのようにグラグラと揺れ、やがて大地に落下を始めた。
 その過程で溶けていく。空気の摩擦がまるで彼の姿を削いでいくかのように。
 ただ唯一実態を残して地にたどり着いたのは眼球のみ。
 7つの眼球は、ゴボリと地面に零れ落ちると、そこから火を噴き始めた。そしてまるでそれそのものが生き物であるかのように転がり始めたのだ。
「ここからは俺たちの仕事だ」
 オヴェリアはカーキッドと目を合わせる。
「休んでろ」
 ガクリと膝をついたデュランとマルコを残し、走りゆく2人。
 剣を抜く。もう太陽のような光はどこにもない。
「ぬかるなよ」
「あなたこそ」
 白と黒の剣。闇の中に煌めくその小さな光だけが、夜の闇に希望を見出す。


  ◇ ◇ ◇


「アーク卿、ご無事ですか!?」
 ……何が起こったのか、アークにはわからなかった。
 だが最終的にわかる事は、オヴェリアたちが勝利した。あの人外の生命を相手にたった4人で打倒したのだ。
「姫様、お怪我は」
 彼女は微笑んだ。その笑みはあまりにも神々しかった。
 これが姫なのか? かつて王都で見た姿とはまったく異なる。
 アークにとってオヴェリア王女は、印象の薄い少女だった。控え目で、父王の影に隠れているような存在に思えた。
 だが違う。もう違う。
「あれが暗黒魔術の力……敵軍の力……」
「とりあえず第一矢は退けたと見るべきか」
「いいや。俺たちを追ってきた斥候の姿がねぇ」
「最初から我らを異形の元へやるための進撃だったか……ならばあの軍はどこへ?」
 アークがハッとする。
「防衛線の中で一番手薄になっているのは?」
「西……いや、待て」
 デュランがハッとする。オヴェリアも気づき、目を合わせる。
「一番の盲点は……我らの真横」
 混乱の中、バジリスタ軍の事など頓挫していた。
 そしてつい数時間前にオヴェリアたちは、アーク軍の横をすり抜けて中立区に入ったのだ。
 アーク軍の後方に最終的に控えているのは、オヴェリアたちが率いたハーランド軍。
「グレン」
 オヴェリアが叫んだ。
「グレンに知らせなければッ!! もう一度陣形の立て直しを」
 皆まで言うより早く、マルコが馬を連れてくる。
「アーク卿、この場はお任せできますか?」
「無論、だが姫様、」
「我らが走ります。必ずまだバジリスタの後続がある」
 再び馬にまたがり、オヴェリアたちは南に向かって走る。
 その背中を見送り、アークは忽然と呟いた。
「これが、あの方の戦い……」
 少女たちが何と戦い、何を見てきたのか。目の当たりにしたその一端に、歴戦の経歴も吹き飛ぶようだった。

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