『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第45章 微睡の月 −2−
――アズハ。
「それが、名か」
一瞬誰が発したものかマルコにはわからなかった。
見ればデュランがやっとの思いで目を開いている。彼の視線の先にあるのは月明 かりに浮かび上がる白い馬。
そして視界から隠れるようにして歪む、一つの闇。
「……そう呼ばれていました」
――ズファイに捕えられたあの時、彼はその人物がそう呼ばれているのを聞いた。
全身を覆う黒い衣、顔を隠すために被った同色の頭巾。
その様はオヴェリアたちを狙ってきた刺客の様相その物。カスミソウの畑で一度対峙しているが、そこまではマルコは思い至らなかった。
ただその者はあの時ずっと彼の見張りとして傍にいた。
最初に目についたのは、足。男にしては小ぶりだと思った。
そして時折、頭巾の下に垣間見える顎と口の輪郭。
ずっと引っかかっていた。
「女……」
「またお前かよ」
カーキッドが、前方の闇に向かって言葉を投げ放つ。
「お前1人で、俺たち4人を相手にするって?」
ニヤリと笑って見せたが、カーキッドはそっと立ち位置を変える。
実際には4人ではない。たった1人だ。
オヴェリアは落馬で肩を傷めた。デュランも倒れている。マルコでは役不足、例え術を放ったとしても彼女は簡単にくぐり抜けるだろう。
そうなれば現実、直接相手ができるのはカーキッドのみ。
「退け。こう見えて俺たちは忙しいんだ。お前なんぞに」
構ってられねぇ、と皆まで言うより先に馬が走り出した。
「誰も手ぇ出すなよ」
叫びカーキッドが剣を構える。オヴェリアも必死に白薔薇の剣を構えたが、飛び出す事はできない。
迫りくる馬影。彼方より風が押し寄せるかのようだった。
津波のように。
輪郭よりも巨大な、威圧感。
カーキッドは無意識に口を傾けた。
「来いや」
馬上の女戦士は剣を解き放っている。普通の剣よりやや短い、されど短剣ではない。
まず馬が真正面にカーキッドを跳ね飛ばさんとした。それをかわしたその場所に、刺客は剣を滑り込ませる。
半身斜めになった状態で、まず一刀目を弾き返す。
だがその瞬間、ねじった彼女の背中側からもう一刀が頭上をかすめる。
その切っ先はカーキッドの毛先を幾らか宙へと解き放ち。
馬はそのまま、剣を握るだけのオヴェリアへと向かった。オヴェリアは応戦の構えをする。
それを視界の隅に捉え、カーキッドは腕を斜めに振った。最初の一刀から、カーキッドの剣は速度を落としてはいない。
切っ先は馬を捉える。大腿部を斜めに、ここを挫けば機能を失う。
ここで不思議な事が起きた。確実に捉えたと思ったカーキッドの剣が、紙一重の所で空を斬ったのだ。
馬が微妙に角度を変えた。刺客もオヴェリアに剣を下す事をせず、ただ横をすり抜け通り過ぎる。
カーキッドがその背を追いかけ走り出す。
「マルコ!! 頼むぞ!!」
オヴェリアとデュランを託し、黒の剣を握り直し。
方向を代え、再びこちらに向かって疾走を始めた馬と向かい合う。
(何か)
思考が踊る。
昂ぶろうとする心臓が、にわかに何かを訴えかける。
――馬上と陸と、剣が交差する。
その瞬間、カーキッドは馬上の女と目を合わせた。確かに目が合った。
重なるのは、それだけか?
目立つほどではなく、足場を組み替えて。
再びオヴェリアたちに向かって走って行こうとしたその馬目がけて。
浅く剣を入れる。馬は次の瞬間その馬脚を広くした。
また逃げられる、だが今度はカーキッドが許さない。
「お前の相手は俺だろ?」
馬の足目がけて打つ、届かない。だが本命は次の一刀。
カーキッドが跳ぶ。腕をいっぱいに突き出す。
馬の腹。
刺客が敏感なほどにカーキッドを振り返った。
そして次の瞬間。
火花が飛び散るかのような金属音だった。
「……ほう?」
カーキッドの剣を弾いたのは、刺客の剣。
彼女は馬から飛び降り、そのままカーキッドの剣を受け止めた。
無論無傷で受け止められるわけがない。馬の腹に体が叩きつけられる。馬は動揺し、声を上げてくの字に方向を変えた。
「……」
女はそのまま地面に転がり落ちた。だがすぐに立ち上がり、前のめりに剣を構えなおす。
ピッと指で、口の端を弾く。
その目を見て、カーキッドも目を見開いた。
「マルコ!!」
刺客から視線を外さぬまま、カーキッドは大きく喉を開いた。
「そいつら連れて、先行け」
異論の声を上げたのは、オヴェリアだった。
「何を、」
「こいつは俺が引き受けた。さっさと行け。一刻の猶予もないだろ」
斥候が国内に入っている。行方を追わなければならない、グレンにもこの事を伝えなければならない。
「先に行ってろ。後から追いかける」
「……ダメ」
オヴェリアは言った。それにカーキッドは苦笑を浮かべた。その顔を見たのは刺客だけだった。
「馬鹿言ってろ」
その顔を見たならば、誰もが思うだろう。一見無骨と思われるこの男がこんな顔をするのかと。
「行け」
誰も見た事がない、それはあまりにも優しい顔であった。
奇しくも、それを見ているのは剣を向け合う女のみ。
別の女に語り掛けるその顔は。
――もう一度言う。
「行け」
次の瞬間、ぬくもりの表情は溶け落ちた。
「マルコ!!」
「は、はい」
オヴェリア様、オヴェリア様と言うマルコの声が聞こえた。
オヴェリアが何か叫んでいる。すべて聞き流した。
馬は一頭しか残っていない。それが走り去ってしまったら。
「……行けつっただろうが」
馬が行った。だが振り返るまでもなく、気配が一つ残っていた。
「淋しかろうが」
地面に倒れ込んだまま動いていない。しかし、言葉には笑いが含まれている。
「お前一人では……それに、馬にも乗れぬくせに」
「馬なんかいらねぇ」
「はは、そうか」
「守れないからな、クソ神父」
「……姫様のお言葉をお借りしよう。守ってくれなどと、言ってない」
――向き合う戦士は瞬きもせずに、ただ、沈黙を守り通した。
「さて、と」
本当の意味で真っ向に見合う。
「お前と直接剣を合せるのは、これで2度目か
もう何度も剣を合わせた気がする。だが実際にはまだ2回。
「バジリスタの刺客か」
「……」
「答えろ。お前はズファイの命令でオヴェリアを狙っている。そうだろう?」
オヴェリアを殺す。フォルストで吐かせた刺客はそう言っていた。彼女をゴルディアには行かせないと。
なぜ、オヴェリアとゴルディアを避けた? やはり理由は竜か。
その竜は、ただの黒い竜ではなかった。歪められた命の形、暗黒の魔術によって生み出された異形の成れ果て。
ゴルディアに行った、だが竜は圧巻だった。対峙はしたものの簡単にどうにかできる相手ではなかった。
何が悪かった? 何かが違えばどうにかできたか?
「あいつはただの小娘だぞ?」
白薔薇の剣に選ばれた少女。確かにその存在は稀有。その剣には聖母の力が宿っている、選ばれた者にしか握る事はできない。
だがその剣が何か決定的な力を放つ事はない。旅をしてきた中で、幾つも危機はあった。だが剣が何かしら力を放って持ち主を守るような存在を示した事はなかった。
唯一、聖なる力を表面に出したように見えたのは、枢機卿ドルターナの城にて。ギル・ティモが見せる地獄の炎の中から、その剣は、まるで炎を食らったかのように刀身にその赤を宿した事があった。
だが竜を前に、それはただの一振りの剣でしかなかった。
しかし旅の当初から刺客は放たれていた。
「答えろ」
女は答えない。微動だにしない。
竜を造ったのはギル・ティモ。だがそこには教会の意思もあったと彼は言っていた。
枢機卿はマルコから、竜の秘密を聞き出そうとしていた。
何かがある。まだまだ見えぬ何かがここに。
「無理だな」
言ったのはデュランだった。
「女相手に手荒な真似するのは、道に外れるが、」
カーキッドはそう言ったが。
「だが、どうにも、俺の前に現れる女は、並の男以上のやつばかりだ」
女と思わんよ。
――何かが覗き見える。この女。
なぜここまで腕が立つのか。
なぜ刺客となったのか。
そして、その剣の最大の特異は。
――互いが走り出した。剣が重なるまでに時間は要らない。
甲高い音に重なり、ハッとカーキッドの短い息が漏れる。
下段から扇状に斜めに入った剣は空を斬る。その場所、一瞬がら空きになったカーキッドの胸倉に短い剣が叩き込まれる。
しかし入らない。大振りの剣を操っているとは思えない素早い動きが、彼女の剣を受け止めていく。
そこへまるで女の後ろから突然現れたかのように二本目の剣が顔面を突き刺しにかかる。
同時にカーキッドの足蹴りが女の胴体をくの字に吹き飛ばす。
脇腹を確実に捕えた、1つ2つあばらは砕かれただろう。だがすぐさま女は体制を立て直し跳ぶように彼に襲い掛かった。
――感情がない。
それが、この女の剣の最大の点。
実際に顔を見合わせて初めて打ち合う今この瞬間。改めてカーキッドは確信した。この女には剣気がない。殺し合う、打ち合う、その瞬間に人が通常持ち合わせるであろう感情の昂ぶり、それが完全に欠如している。
目を見ればわかる。彼女の目はガラス玉のようにそこにあって。
この目で、この動き、繰り出されるのは最小限の動きと確実に相手を殺すために打ち込まれる剣。
ある意味でそれは恐ろしい光景。
人を殺す事、それだけに特化した剣。
しかもそれは剣技という域にとどまらず、体術を組み入れた物である。対剣術としての訓練しかしていない騎士たちでは、敵う相手ではない。
オヴェリアが最初に後れを取ったのはそれが原因だろうとカーキッドは踏んでいた。
幾戦繰り返してきたカーキッドにとっては、この戦術に違和感は覚えないが。
(なぜここまでに)
感情を殺した状態で技を高められるのか?
何がこの女を動かしている?
そしてもう一つ、彼の興味を引いたのは。
「あの馬」
「――」
剣を振るその瞬間だった。
速度も踏み込みも何一つ変えぬまま、カーキッドは口を開いた。ガラスだった女の表情がピクリと動く。
「大事な馬か?」
剣と剣がかみ合う。女はそこに留まらず、一瞬身を引いてその反動からさらに奥へと斬り込みをかける。
カーキッドの黒い剣はそれを一振りで跳ね除ける。
「お前、さっき、馬をかばっただろ?」
カーキッドはその目を覗き込む。女は身をひねって視界から顔を背けた。
「自分の身を犠牲にするほど、大事な馬か?」
「……」
剣気のない女に、傷みの表情が浮かぶわけがない。
だが少し、彼女の剣が変わった。カーキッドにはわかった。
痛みのためではない。
白い馬は、少し離れた所にいる。逃げる事なく、遠巻きに主人を見つめている。
恐らく、彼女が呼べば駆けつける。
だが女は無言で剣を振り続ける。
わかっているのだ、カーキッドの目が何を言っているのか。
カーキッドが振るっている剣、殺意。そして今彼が向けているもう一つは視線という刃。
剣と剣がかみ合う、そして視線と視線の中でぶつかり合う意思と意志。
――弱いのか。
そこがお前の弱い所なのか。
女は表情を隠す。だが隠そうとすれば、剣にこれまでとは違う物が生ずる。
それがたとえ普通の剣士では気づけぬ程度の物だったとしても、相手はカーキッドである。
そして、隠そうとする意思=B
そこに答えがある。
「そうか」
とカーキッドは笑った。
そしてその瞬間、女は目を見開いた。
ガラスの目が、色を帯びる。
殺気のなかった剣に、鋭い物が生じる。
彼女の眉間に入ったしわが、思いのほか深く。
「――だったら」
口を開いた。
それはカーキッドにとっても予想外だった。
「何だ」
男の声ではない。確かにそれは、低くあれど女。
だったら、何だというのだと。
彼女はカーキッドを見据え。
剣を高く構えなおす。