『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第45章 微睡の月 −3−
――覚えている
皮肉にも
あの日の、あの月
「何だ、口が利けるじゃねぇか」
一歩、踏み出した足を後ろへ退く。
上体をジワリと落とす。
腰から下を構え直して。
そこに追随するように、剣もやや斜め後ろへ。
握り締める筋肉が呼応するように、ビクリと跳ねる。
心音がすっと消えて。
呼吸まで一度 、無に近いほどに。
静寂が落ちるまでに。
だが互いの視線は外さない。
目と目。
況 や刃と刃。
肩で息をする事すら許さない。
他に目をくれる暇があるならば、
「来い」
目の前の一点、振りかぶって剣を叩き落とせ。
――刺客が一瞬カーキッドの視界から消える。
痛覚がないとは思えない、だが次に視線が捉えた瞬間は、カーキッドの予想よりも近い距離だった。
横から横へと流れるように打ち込まれる剣を、黒の剣を立てて受け止める。
その音で満足していてはとうに命はない。すでに女は跳んでいた。
上から下へ。カーキッドすら見上げるほどの跳躍力。
まず剣ではなく足が来た。想像以上に重い回し蹴りを、カーキッドは腕を盾にしようとしたが寸前でやめて状態をよじる。その判断は正解だったと吹き抜けた風が言う。
女が着地から剣の連撃を繰り出すのと、態勢を崩しかけたカーキッドが踏ん張り直して剣を左から半回転させるのは同時。
2つの音が鳴り。
そこで再び視線がかみ合う。
黒い目と黒い目。
この地の人々は金に近いような褐色と、青のような目を持つ者が多い。その中でカーキッドは明らかに異質。見るからにこの地の人間ではない。
だが、目の前の女も同じように黒髪。そしてその目は、カーキッドの双眸よりも黒い。
「お前、異国の民か」
返答は期待していなかった。
「撰の流れを汲むものか?」
言ったのはデュランだった。
――撰国。
答えの代わりに女が動いた。再びカーキッドに向かって右から左からの剣の交差が始まる。
その様を見ながら、デュランは息を吐いた。
海の向こうの大陸の国、撰。そこと最も密な関係を築いているとされるのがバジリスタである。
ハーランドの北に位置するバジリスタという国。元々2つの国の起源は同じ。いつしか2つの国として分かれて行ったが、同じ地に始まり同じ血を根底に持った1つの民である。
歴史の中でハーランドはこの地に強く根付く民となり、バジリスタは海の向こうの国々と絆を強くした。
そのきっかけはかつて大陸間を揺るがした大戦であり、その結果撰と結んでの国力の増強を目指した。
撰の民は黒髪と黒い目を持つ。
カーキッドのそれも似ているが、また違う物であろうとデュランは踏んでいた。
(撰……)
バジリスタには撰の民も多くいる。混血も多い。王族にさえその血は混ざっている。
八咫――デュランがずっと追っていたギル・ティモもそう名乗っていた。そしてこれまでの旅の中、思えばその影は幾つかあった。
エンドリアの騎士たちに蔓延していた麻薬草。その主な生産地は撰だ。
20年前ハーランドとバジリスタの間に起こった抗争の際、停戦協定の使者としてバジリスタが送り出したのも、撰の血を持つ者だった。当時の騎士団長、名前は盃。
バジリスタ、第三王子ズファイの刺客、撰の血を受けた女。
デュランの頭の中で目まぐるしく何かが動く。その思考はむしろ早すぎて、デュラン自身にも追いつけないほどである。
その痛みに目を閉じた瞬間、一際高い金属音がした。
交差した2つの剣、次の瞬間刺客の剣がスルリと抜けてカーキッドの脇を捉えた。
その動きは、カーキッドさえ一瞬捉え損ねた。避ける事が出来たのは、咄嗟の体の反応のみだった。
「やるじゃねぇか」
だが、女の息が荒くなっているのがわかる。必死に殺そうとしているが、他に音のないこの世界で隠しきる事は難しい。
まして相手はこの男である。
斬った本人もわかってる、傷は浅い。男の動きを止められるほどの物ではない。
……ゆっくりと、カーキッドが揺れるように場所を移していく。刺客は視線のみでそれをたどる。
夜目の中、完全に正確な判断はできない。
自分の感性と。
――剣はまだ、降ろしたままである。
空気の流れと。
――なのにこの闇の中、2人は互いの目の光だけは、
積み上げてきた経験が。
――しっかりと、
動きを、捉える。
――カーキッドが一気に踏み込む。
踏み込んだ先、影が剣を構えている。
受けるだけの物とはならない、攻撃にふさわしいほどの反撃の連撃を予想して。
その一手先、そしてもう一手先を。
カーキッドが吠える。
刺客の女がハッと小さく息を漏らした。
何度剣が重なり、何度火花が散り。
何度視線を交わしたか。
一見勝負は互角。
だが、本当はもう見えていた。
――特に、刺客の女には。
それはもはや偶然の産物だった。打ち合いの中不意に女は体制を崩した。カーキッドの足払いと地面に足を取られた、2つの瞬間が重なった。
崩れていく女の体を止める物は何もなかった。
横倒しになったその体に、カーキッドは剣を突き付けた。
2人の間に初めて、決定的な瞬間が訪れた。
「……」
月明かりが照らしている。
女は体を横たえたまま、じっとカーキッドを見た。
突き付けた剣の向こうにカーキッドも彼女を見る。
「……冷静な面 だな」
――死に際の人間の顔という物がある。
達観に至るのは、最終最後の瞬間だ。
目の前に剣を突き付けられ、死を突き付けられて。これほど静かな顔をする人間をカーキッドは初めて見た。
死に際は、誰しもがもがく。
絶望と恐怖の淵に立ち、冷静でいられる者はそうはいない。
誰しもが潔くと望む。無様でない事を願う。だが、人の感情はそれほど柔くなく。
自分にとって最も残酷なのは自分自身の心なのだ。
たくさんの戦場を経た。奪った命の数は数えきれない。死に際のすべての顔を焼き付けてきたわけではない。
だがそれでも、ここまで見てきた最期の顔は、こんなものではなかった。
恐怖すらない。
かといって、生きるための抗いすらない。
ただ静かに見つめ返してくるガラス玉のような黒い目。
思えばそれは奇妙な光景であった。剣という線を持って、2つの点が互いだけを照らしていた。
斬るかこのまま。この女を生かせばこの先に、必ず災いは降りかかる。
ここで絶たなければ、この女は次にはオヴェリアを殺すかもしれない。
だがその瞬間カーキッドは我知らず片目を細めた。思いもよらぬ顔が脳裏に浮かんだのだ。
――チサ
闇の中見える顔よりももっと鮮明に。
だから逃した一つの決断。
そしてその結果が。
「カーキッド、」
――デュランに呼ばれた時、一瞬彼は気づけなかった。
「……カー、キッド」
どうした、と尋ね返そうとして。
彼自身も、肌に何かの違和感を感じた。
音だろうか。
風だろうか。
気配だろうか。
それとも本能だろうか?
「まずい」
顔は上げられない。決断はできない、それでも目を離せば目の前に伏した獣は途端に牙を剥くだろう。
だが、一層の悪寒が走る。もうそれは、錯覚ではあり得ない。
天から轟音が聞こえ始めた。雲の叫びのようでもあった。
「来るぞ」
その言葉と共に一瞬揺らいだカーキッドの注意、その隙を女は見逃さなかった。瞬間的に身をよじり、半回転の膝蹴りを入れて逃れる。
それは見事にカーキッドの腹に入るが、決定打とはならなかった。こちらもそれを見越した上で後ろへ跳び、女との距離を取る。口の端をぬぐい、カーキッドは女をじっと見た。
「嫌な気配がするな」
視線は女に固定したまま、デュランに向けて言う。
「また化け物かよ」
「その、ようだな」
「どこから来る?」
「北の空。近づいてくる」
「……北か……」
「まっすぐだ」
目の前には敵がいる。空からも迫っている。
「恐らく気づかぬ」
黒い大地にある3つの点など。この夜の闇の中で。
「黙ってれば見逃してもらえるってか?」
「だろうな」
「そりゃ、ありがたいな」
――肌が泡立つ。
近づいてくるのがわかる。
なぜこんなにも寒気がするのか。
――否、震えるようなこの感覚はどこか歓喜にも似ている。
握る剣から溢れてくるような感覚。
――同族へ。
「まっすぐ進めばハーランド」
黙っていれば、ここは過ごせる。
「損だな」
苦笑を浮かべる。
「のんびり生きてみてぇ」
「思ってもいない事を」
「思ってるさ」
「強い者と戦いたい、じゃなかったか?」
「よく知ってるじゃねぇか」
「何度も聞いたからな」
剣を、持ち返る。
その瞬間、苦笑ではない笑みがカーキッドの顔に浮かんだ。
「ここで止める」
迫り来るのがわかる。朝日はまだ遠い。
「やはりか」
「注意を惹けるか?」
「荒っぽい手段しか浮かばんが、それでよければ」
「頼む」
そしてカーキッドは、その笑みを完全に目の前の刺客へと向けた。
「お前も付き合え」
女は答えない。それでも構わなかった。
「今のは貸しだ。いいな?」
とどめを刺さなかった事。
「これで貸し借りなしだ。お前も俺に貸しなんて作りたくねぇだろ?」
詠唱に入ろうとしていたデュランが吹いた。
「そう言えば俺はお前に随分の貸しがあるぞ。いつか返してもらえるんだろうな?」
「……知らん、忘れた」
デュランが術を唱え始める。
片目は閉じている。
少し声が震えている。
紡がれる聖なる魔術。
心の中でそれを生み出した自分の師を思い浮かべながら。
願いと祈りを込めて解き放つ。
炎の魔術。
飛び出した炎が辺り一面に飛び散る。
途端、世界は赤く染まる。
灼熱だ。されど光。
互いの姿がはっきりと見える。
太陽には及ばなくても、影もはっきりと映し出すけれども。
刺客の女は相変わらず無表情で見つめ返してくる。その顔のどこにも、彼女の面影はなかった。
それでもこの赤の世界でカーキッドは、あの時の事を思い出していた。
チサ、と心の内で名を呼んだ。それはもう口慣れない響き。
黒の剣が呼んでいる。
――風が一層強くなり。炎が暴れてさらに広がる。
熱さより。
悲しみより。
恐怖より。
昂ぶって。
いつまでも続くかのような夢物語。
されどどこかに来る終点。
――地面が揺れる。
たどり着いたのはここ。
「……やはり、か」
無表情の刺客すら、目を見開いた。
ゆっくりと振り返るとそこには。
ゴルディアで見た輪郭。
異形というには異形。首も尾も脚も、躍動の中に蠢いている。
鱗は剣を通さなかった。
さあ、どうする?
ここにオヴェリアはいない。
でもだからこそここで止めなければいけない。
――黒い竜。