『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

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 第45章  微睡の月 −4−

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 軽口を言っていた気持ちが消えて行く。
「……マジかよ」
 ゴルディアで見た光景。
 否、半狂乱の炎の演舞が一層煽り立てて。
 蘇ってくる、あの時の光景。
「カーキッド、」
 デュランの声も震えている。
「気づいていたのか」
 お互いに。
 その負の波動は、あの時その身に焼き付いた。
 闇の魔術によって生み出された異形。
 外見のそれは黒い竜。だが実際その血肉は人のそれを使って作られた物。
 そしてその存在は圧倒的。
「……オヴェリアがいなくてよかったかもな」
 口の端に笑みこそ浮かべたが、カーキッドの頬を汗が伝った。
 ――あの時、まったく歯が立たなかった。
 ゴルディアに向かい、黒い竜を倒す事。たった一つの希望は白薔薇の剣、その剣のみが竜を貫く事ができるのだと言われてきた。
 だが実際には剣は竜に弾かれた。
 それどころかその圧倒的な存在を前に、4人は成すすべもなく。
 ただ一瞬だった。策を講じる暇も、まともに向かい合う事すらできないままに。
 戦うなんて状態ではなかった。動き出した竜を前に4人はただ死を目前にしただけだった。誰一人欠ける事なく逃れる事ができたのは、ただ運が良かっただけの事。
 その存在が再びここにある。
「間違いないな?」
 念のためにカーキッドはデュランにもう一度訪ねる。
 竜はゆっくりと周りの状況を確認するように首を巡らせている。その視界にカーキッドとデュランも入る。瞳は炎の揺らめきに、禍々しいような赤に照らされている。
「間違いない。あの時の竜だ」
 声がかすれた。
「こんな所でまみえる事になろうとは」
 どうやって倒す?
 鱗に剣は効かなかった。
 ――息遣いが聞こえる。まだ動いていない、脚、体、尾、すべてがだが躍動している。時折波打つように動く。黒く光って見えるのは鱗か。
 胴体から頭、長い首は遥か頭上。
「あいつがいなくて、よかった」
 今度は確信を込めて、カーキッドは呟いた。
 白薔薇の剣が決定打にならないならば、オヴェリアがいなくてもいい。
 立たせずに済むのならば、こんな場所には。
「……やるぞ、デュラン」
 立たせたくない。
 二度とだ。
 剣を握る手に力を込める。
 視界の端に刺客の姿が入った。彼女は竜をじっと見たまま動かない。
 無理もない。この世に生を受けて死ぬまでに、こんなものと向かい合う事など。まして剣を向け、戦いを挑まんとするなど。
 ――走り出した。
 デュランも詠唱を開始する。
 切っ先に魂を込める。まだ竜は大きく動かない。だが走るカーキッドに視線を巡らせている。
 炎の中を潜り抜ける。あの時の切っ先の残像が目の前に蘇る。
 振るった剣の軌道、力の加減。
 脚先には剣が入らなかった。弾かれた感触が両腕を抜ける。
 腹目がけて斬り込みをかければ、尾が動き出すだろうか。竜の尾は、縦横無尽。その動きを読む事は至難。
 半周を駆け巡る。首に斬りかかるには、高さが足りない。
 デュランに頼むか? どこに斬りかかれば?
 ――一度刃を向ければその瞬間からはもう、後戻りはできない。
 竜は視線を巡らせている。カーキッドも視界の端からその視線を逃さない。そういう点は、人との戦いと同じ。
 だが力が圧倒的に違いすぎる。
 ――視線が追ってくる。カーキッドはそれを受けている。すぐにそれが圧迫へと変わる。
 追いかけられている。
(どこをどう斬れば)
 デュランは術を完成させている。後はカーキッドの動き次第。
(あの時俺は、どこを斬った?)
 この剣が黒く染まった時。
 確かに竜を倒したのだ。その血を浴びたからこそこの剣は、こんな姿に変わったのだから。
 ただの剣だ。聖剣などではなかった。だが竜を倒した。
(どうやって)
 思いを巡らせる。あの時とこの竜とでは大きさも種類も違う。だが、どこかに突破口はあるはずなのだ。
 ――剣を振りあぐねるのは、ゴルディアの残像が目に焼き付いているからか?
 かつてエッセルトで倒したあの時。
(ザークレストと、チサと)
 ただ必死だった。どうやって動いたかなど覚えていない。
 必死で、夢中で。
 ――恐怖よりもっと、恐ろしい事があったから。
 どこを斬る?
 加速を付けて。
 ――一人ではなかった。
 どこをどう振れば?
 視線が追ってくる。
 ――踏み込みが淀む。足がためらっている。
 行けと誰かが言うのだけれども。
 ここで叩かなければ、今度こそ誰かが食われるかもしれない。
 オヴェリアが今度は、自分の手が届かない所で――。
 走りながら舌を打つ。
 そしてそんなカーキッドの様子をデュランも眉間にしわを寄せ見ていた。
(あの男があぐねている)
 カーキッド・J・ソウル。その男がこれほど一刀を打ちあぐねている姿は、デュランが知る限り初めてだった。
 それほどにカーキッドにとってゴルディアでの一戦は、強烈な印象を残したのか。
(それは私も同じ)
 術を放つタイミングを掴めずにいる。こちらも剣と同じ。放てば竜は動き出すだろう。
 竜はじっとカーキッドを見ているように見える。だがデュランは自分にも意識は向けられていると感じている。
(聖魔術は恐らく効かぬ)
 だが暗黒の魔術は……目の前にある存在その物が、いわんやその塊だ。
(師よ……)
 聖魔術の祖はデュランの師、かつて西の賢者と呼ばれた者。
 西の賢者ラッセル・ファーネリア。その術力は大陸一と謳われた。多くの書物にもその名は残っている。
 デュランにとってラッセル・ファーネリアは誇り。
 だがその師を打ち破った人物がいる。
(ギル・ティモ)
 あの日、所用で出ていたデュランが師の元に戻った時、すべてはもう終わっていた。
 無残な姿で横たわる師と。
 残酷な現実。
 何も止められなかった。何もできないままに、すべては手が届かない所へと持って行かれてしまった。
 禁忌を犯してまで繋ぎ止めたいと思ったものも、結局は。
 ――わしが目指す所、お前なら理解でき得よう
 かつてギル・ティモに言われた言葉が、ずっとデュランの頭に引っかかっている。
(暗黒の魔術)
 その書物は膨大。師は書物を守り封じる事を役目としてきたが、幾年もかけてその一部の解読に成功した。
 あの時デュランもその一部を目にしたが。
(生命の融合)
 生命と生命を融合させ、別の生命を作り上げる。そんな技は。
 欠落した部分にあったのか? ギル・テイモが持ち去ったとされる部分。
(骨から肉を紡いで)
 元々竜を欲したのは教会だと言っていた。
 何のために?
 そして今暗黒魔術の書は教会にある。旅に出る際にその地下書庫に保管を頼んだのだ。
 師が解読を果たした部分と、果たし得なかった部分。
 デュランは己の甘さに歯噛みした。
 教会は何のためにこんな物を……そしてギル・ティモは?
 なぜギル・ティモは暗黒の魔術を手にして。
(何が目的だ?)
 竜が見ている。完全に目が合った。デュランの全身が震えた。
 その目は何かを値踏みしている。
 その目は誰の目だ? 意識は一つなのか? そもそもそんなものがあるのか?
 炎が揺らめいている。熱さよりも寒気の方が勝り。
 どうするカーキッド? もう一度問いかけようとしたその時。
 竜が刺客に首を傾けた。
 見ている。
 刺客の女――アズハとマルコが言っていた――彼女に目を向けた。
 刺客は凍ったように動きを止めている。
 だが、
 ――竜が見ている。
 彼女の肩からすっと力が抜けていく。
 ――急速にデュランに一つの思考が降ってくる。
 そして彼女の動きは奇妙なほどにゆっくりと。
 ――竜は、待っている。
 視線を竜に置いたまま。その手が探り当てるのは剣。
 ――殺意の行方と。
「待て」
 その瞬間を。



 竜の咆哮と、刺客が飛び出した瞬間は同時。
 彼女から噴き出したのは、明白すぎるほどの殺気。
 その時を待っていたと言わんばかりに。竜も彼女目がけて牙を剥き出す。
「馬鹿野郎ッ」
 竜の動きも一気に変わる。尾が暴れ出す。牙を先に真っ向、刺客が立ち向かっていく。そちらに向かって駆け出すが、動き出した竜の脚は上からカーキッドを叩き潰そうとする。
「目を閉じろッ!!」
 デュランも術を解き放つ。目いっぱいの光の魔術。それで視界が眩めば。
 竜が一瞬動きを止めた。その瞬間、彼女は宙へと飛び上がった。
 その目は完全に閉ざされたまま。
 横一線。短剣が真空に一文字を切り開く。
 その切っ先は僅か竜の睫毛を割いて。瞳には届かない。
 次の瞬間、突き上げられた鼻にその身は弾き飛ばされた。
 目を閉じたままの彼女の体はガクンと無造作に放り投げられ。
 その軌道の途中を掻っ攫うように、竜が一気にその口を突っ込む。
 ――この女は刺客である。何度も命を狙われてきた。オヴェリアですら、この女に手傷を負わされた。
 しかし。
「ディア・サンクトゥス!!!!」
 竜の喉の真下から炎が噴き上がる。熱気を嫌った竜が首を振り回し、デュランの方を向きやる。
「こっちだ」
 立つ事もできない体で、ニヤリと笑って。
 ――脳天の真上を風が吹き抜けていく。
 その風を食いちぎるように竜が今度はデュラン目がけて。
 土壇場の態勢の中、刺客の女は半身をよじってどうにか地面との激突だけは避けた。
 ――竜が一直線にデュラン目がけて走って行く。
「待てや」
 その間に滑り込んだのは、カーキッド。
 剣を構える。黒塗りの剣。
 もう、どうもこうも言ってられない。この瞬間に至ったならば。
 跳ぶしかない。
 赤い光がその刀身に熱を宿して。
 剣を縦に構えつつ、そこから一気に斬り込みをかける。
 どこが剣を通すか、どうすれば剣を通すか、迷ってなどいられない。
 とにかく斬って。
 ――完全に竜は目覚めた。
 だが同時にカーキッドも。
 牙と刃が衝突する。
 そこに光が弾けて飛んだ。
「カーキッドッ!!!」
 声に男はその口先を蹴り飛ばす。
 その瞬間竜の口の中が見えた。そこに、人が蠢く光景を見た気がして。
 浮かんだ感情は憎悪か嫌悪か。
 否、むしろ無。
 竜の視界から一瞬、カーキッドの姿が消える。その代りに映ったデュラン・フランシスは。
 一つまっすぐ、言葉を紡ぐ。




天壌あまつちの うた
 さえ馴染なずむ ろの鏡
 焔日ほむらびの すな
 世界をやすらむ  揺りかごは命
 すべてを抱きて眠れ


 御手みて后桜ごおう





 ――そは、光。
 先ほど放った術からすれば、赤子も同然の物。竜の目を焼くにも至らない。
 だが竜の動きが一瞬止まった。
 その瞬間をカーキッドは、渾身の力を込めて胸の一点へ剣を突き出す。
 黒の剣は静かにゆっくりと、肉の中へと飲み込まれて行ったかに見えた。
 だがそれは振り回される首によりすぐに抜け落ちる。
 それでも、虚空に血飛沫が飛ぶ。やはり入ったのだとカーキッドは確信する。
 もう一度、そう思い再び剣を突き出すが。
 たまらぬ風にカーキッドは吹き飛ばされた。翼を広げたのだ。
 吹き飛ばされるのを必死にこらえ。
 竜が天空へ舞い上がる。
 待て、と言った言葉ももろとも。
 咆哮と一緒に。
 ――切なすぎるほどの空気の圧縮。
 竜の言葉が聞こえてくるようであった。
 嗚呼、これが礼だと。
 言わんばかりの。
 直後、天空より降り注ぐ、
「カーキッドッッ!!!!!」
 業火の、炎。

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