『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

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 第45章  微睡の月 −5−

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 真の炎は白である。
「――――ッッ!!!!!!」
 何を瞬間的に判断し、何を瞬間的に掴み、どこに向かって駆けたのか。
 熱い痛いという感情よりももっと深い、白なのにそれは闇。
 白い闇に包まれるその感覚。
 必死だった。
 カーキッドはデュランを掴み走った。
 逃れきったとは思えなかった。
 ただ、炎の後にも息をしている自分がいた。
 全身が痛み出したのはその後の事。
「……野郎」
 天を仰ぐ。
 竜がいる。こちらを見下ろしている。
 次があったら、もう逃れられない。ただできた事は睨みつける事だけ。
 ……その眼光が届いたとは決して思えなかったものの。
 竜は去った。
 追いすがる事は出来なかった。
 ……もう、できなかった。


  ◇


「クソ」
 地面を打ち付ける気力さえ浮かばない。
 また逃した。ここで何とか食い止めたかったのに。
「……無事か?」
 デュランが尋ねたのはカーキッドではなかった。その向こうに立ちすくむ黒い影に向けた物だった。
 あの刹那的な状況の中、カーキッドが掴む事ができたのはデュランの腕のみだった。そして彼女を救ったのは、そばに佇む白い馬。あの瞬間、馬は駆け来て彼女を助けた。
「良い馬だ」
「……」
 返答はない。
「アズハというそうだな、お主。……礼を言う」
 加勢に対して。
 だが彼女はすぐに顔を背け、馬に飛び乗った。
 そのまま駆け出す。2人はその背を見つめながら、同時に深く息を吐いた。
「……大事ないか、カーキッド」
「痛ぇよ」
「焼かれたか。見せてみろ」
「俺より、てめぇはどうなんだ」
 言われ、デュランは一瞬動きを止めたが。何とも言えない苦笑を漏らす。
「私は、大事ない」
「お前」
「いいから傷を見せろ」
 カーキッドは動かない。じっとデュランを見つめる。
 根負けしたのはデュランの方だった。
「大丈夫だ」
「お前……使ったな」
「……」
「オヴェリアについて行かなかったのはそれが理由か?」
「…………」
 デュランにしては珍しいほど、動揺が顔に出た。さっと視線を流す。
「……私は、大丈夫だ。傷は直に癒える」
 ――今ならば。
「先刻の一戦で……少し強い術を使った」
「闇の術だろ」
「……そうだ」
 ――目が利きすぎた。
 あの闇の中、地平線を走る敵軍を彼は簡単に見つけた。カーキッドも目がいい方である。ただしそれは昼間に限る。夜目であの距離、その欠片すらカーキッドには見つける事ができなかった。
 そして術を打った直後にあのような苦悶の顔を浮かべる事は常にはあらず。
 まして――微妙に感じる、壁。
「暗黒の魔術……それは、体にかかる負荷が少し違う」
 いつもよりやや低い声色で、地面を見ながらデュランは言う。
「体、心……いわんや魂。あの術を手にした時に何をしたか、言っただろう?」
 この世界最大の禁忌。
 ――悪魔との契約。
「魔術とは本来、この世界にあるべきものではない。万物の原理に反している。炎のない所に炎を噴出させる、風に刃を含ませる、光と闇を捻じ曲げる……突き詰めて問えば、その論理の原点は、この世界とは異物の存在」
 カーキッドは術者ではない。術の根底にある物はわからない。
「だがそれでもその理論は構造化する事が可能だ。だが暗黒魔術は違う……この世界の深淵、否、そこはすでに世界が異なる」
 ――打てば食われる。
「その術の根底は……闇そのもの。その鍵を開けるために必要となる物は、契約者の命」
「……命を削るって事か?」
 デュランは曖昧に笑う。
「とにかく……今の私の体は常とは違う。闇の影響を受けすぎている。……逆にその分、この体は」
 そう言いデュランはそっと腕を上げた。
「万物の原理をしばし、凌駕する」
 傷が――癒えていく。
 今しがたまで立つ事も困難だった男が、何事もなかったように歩いて証明をする。
「可笑しいだろう?」
 そう言って笑う神父の姿に、一瞬カーキッドはゾクリとした。
 だからこそ敢えてカーキッドは言った。
「気色悪ぃ奴」
「……もう少し、オブラートに包めんか、愚か者」
「だって、そうだろうが」
 ――乱用はできない。
 命を削って打つ魔術、それが体に及ぼす影響。魔術に疎いカーキッドにもわかる。それが良い事には思えない。
「その魔術を使える奴は、皆そうなるのか?」
 何気なく問うた。
 それにデュランは一瞬目を見開き、やがて虚空へとそらした。
「……さぁな」
 ――あの時、最後の契約を果たしたのだとは。
 彼は生涯誰にも言わないつもりであった。
 最終的にカーキッドがその言葉を聞く事になるのは、もう少し先の事である。




「とにかく、オヴェリア様を追わねば」
 地平線を見やる。そこはまだ闇に包まれている。
 オヴェリアとマルコが先に向かったハーランド本陣。
「オヴェリア」
 無意識にカーキッドはその名を呼んだ。
 視線を感じて見れば、デュランがじっと見ていた。
「……何だ」
「いや?」
 そらしたその顔には笑みがこびりついていて。カーキッドは思わず眉間にしわを寄せる。
「何だ」
「……お前、そんな顔するんだな」
「あん?」
 どんな顔だ? と追及しようとしたが、
「急ぐぞ」
 先にデュランが歩き出す。その足取りはもう、完全にいつもの様である。
 ――オヴェリア。
 今度は、声が漏れてしまわないように注意して心の奥底で。
 そして呼ぶからこそ、その足は自然、早くなる。
 馬のように駆けだしたい衝動に駆られる。







  ◇




 ――なぜ。



「……」
 何も言わなくても、馬は脚を緩める。
 やがてその歩は完全に止まり、主を気遣うように首を振る。
 首筋をそっと撫ぜてやると、にわかに鳴いた。
 大丈夫かと、そんな声。
「……」
 頷いても見えない。でも2人の間でならそれも通じる。
 ――なぜ。
 手が震えている。まだ鼓動が止まない。
 一度馬から降り、彼女はふっと息を吐いた。
 空を見上げれば月。雲か霞か、その姿はおぼろ。
 微睡まどろみの中にあるかのようなあの月を。
 ――覚えている。あの時もこんな月だった。
「………」
 竜。あれが竜。
 初めて見た。初めて対峙した。
 アズハは己の手に視線を投げる。
 一瞬すべてが真っ白になった。何もわからなくなった。
 そして次に思ったのは。
 ――どこで見た?
 こんな光景を。
 同じような光景を。あの月を前にして。
 だが覚えているあの月の光景は一つ。そしてその時出会った人物は一人。
 微睡の月に背を向け立っていた、その人物は。
 ――父さん、と叫んだ記憶。
 赤の炎の中に、金色のような鎧。
 ――母さん、と呟いた記憶。
 否、あれは白だったかもしれない。今思えば。
 ――誰か、と。
 ただ、絶対たるは、
 ――助けて。
 絶え間なく聞こえ続ける悲鳴。
 残響。
 そして突き付けられた剣。
 その剣にははっきりとあの花がついていた。
 薔薇。
 ――あの瞬間自分は死んだのだ。
「……」
 馬を撫でる。名を呼ばなくても答えるように鼻を寄せてくる。
 もう一度月を見やる。そして無意識にその手を胸に当てた。
 ――竜。
 一体いつ? どこで?
 こんな思いを――――。




「王女オヴェリア…………」




 ――薔薇。

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